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残念ながらテレビ番組は見てない。扱われるのは「宿敵」の印象がある二人。しかし二人ともに「アンタッチャブル」なくらいの権威がある。そんなわけで、波風を立てない「表面的な紹介」に終始する内容かと思ったけれど、完全に外れた。「新明解」派(?)も「三省堂国語辞典」派(?)も、ともに読んで自分の辞書に対するスタンスを再確認できるような、辞書への思いを再確認することができるような、とても面白い本だった。
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ドキュメンタリーと言うよりもミステリー小説を読んでいるような感覚を覚えた。最後に明かされる「真相」はあまりにも切ない。
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戦前大学卒業と同時に金田一京助編『明解国語辞典』の編修に加わった見坊豪紀と山田忠雄という俊才が、その後なにゆえ袂を分かち、三省堂を代表する国語辞書『新明解国語辞典』と『三省堂国語辞典』をつくりあげたかという物語である。山田にとって辞書は「文明批評」であり、見坊にとって辞書は「世を映す鏡であり鑑」であった。もともと『明解国語辞典』の編修の中心となったのは東京帝大を出たばかりの見坊であり、見坊は一年余りの間に自ら構想のもとに、一人で辞典の草稿を書き上げた。大学卒の人間に辞書一冊を任せるなど今なら考えられないことだ。昔の人は成熟だったのだろうか。山田は当時その校閲の仕事をしたにすぎない。山田に言わせれば、自分はずっと見坊の助手的存在であったという。『明解国語』は戦後第二版を出し、それは売れに売れたが、辞書はつねに改訂を必要とする。ところが、見坊は用例採集にのめり込み、改訂作業がとどこおることになった。そこで改訂の作業は山田に移るのだが、山田がつくりあげた辞書は、見坊の想像を絶するものになった。つまり、山田の文明批評の開陳の場となっていたのである。それは、当時起こった辞書に対する批判―辞書は他の辞書を引き写してつくられているーに対する山田なりの回答であった。本書は辞書に生涯を捧げた見坊と山田の間の確執がいかにして生まれ、それがいかにして緩解していったか、そこに三省堂はどうかかわっていたかを関係者への取材を通し明らかにしたもので、柔の見坊がときに剛であったり、剛と言われた山田がときに柔であったという記述は、人の評価は単純であってはいけないということをわたしたちに教える。本書は2013年にNHKで放映されたノンフイクションを元にしているが、そこでは触れられなかった数々の驚くべき事実、見坊と山田の心の襞の変化を、両者の辞書の記述をも通し物語る。とても感動的な本である。★ぼくは『新明解』の初版が出た当時、とても新鮮な気持ちでこの辞書をくった記憶がある。見坊や山田の名前もそのとき知った。その印象が強かったせいか、『新明解』は見坊の辞書だとばかり思いこみ、のちに見坊が『三省堂国語』という辞書を発展させていったことを知らなかった。恥ずかしいかぎりである。『三国』の存在をぼくに教えてくれたのは、その編集に途中から加わった飯間浩明さんの『辞書を編む』『辞書に載る言葉はどこから探してくるのか』である。その時はちょうど『三国』の第七版が出る前で、ぼくはあわててその第六版を買い求めたほどだ。ぼくは見坊さんの著書もほとんどもっていたが、研究室の引っ越しの際全部売ってしまった。見坊さんは77歳という生涯に150万もの用例を集めたことで知られる。飯間さんも言うように、見坊さんのような生活をしていては家庭生活がもたない。昔だから結婚できたようなもので、今ならだれも結婚してはくれないだろう。だから、飯間さんには家庭も大事にしてほしい。山田さんは最初見坊さんの用例採集をそれほど評価していなかったと思うが、のちに用例採集に目覚め、「こだわり」とかいったことばの変化について書いた。(こうした本も売ってしまった。)
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思っていたのとはずいぶん違う内容だったが、結局は一気読み。辞書作りの世界はやはり興味深い。
もっと「言葉」に焦点が当たっているのかと思っていた。実際の内容は、北上次郎さんが、「『三省堂国語辞典』を作った天才見坊豪紀と、『新明解国語辞典』を作った鬼才山田忠雄の『友情と決別』、不思議な因縁を書いた書」と、「本の雑誌」で書いていたとおり。この「因縁」がたいそう面白い。また、お二人が対照的なきわめて強い個性の持ち主であり、同時に、どちらも負けず劣らず辞書作りに生涯を捧げた人であったことが生き生きと描き出されていて、どんどん読まされる。
正直言って、最初のあたりはちょっといただけないなあと思っていた。著者はテレビディレクターだそうで、そのせいかどうか、何というか「人の目を惹きつけよう」という意図が前面に出すぎているような気がした。また、「辞書」とか「言葉」とかいうものにさほど興味のない(大多数の)人向けに書かれている感じがあって、ヒネクレ者は斜に構えてしまったんである。
しかし、この題材は、そんなこともそれほど気にならなくなるほどに面白かった。大体、自分が辞書作りの世界というものをほとんど初めて知ったのは、三浦しをんさんの「舟を編む」で、おそらくそういう人は多いのではないだろうか。あれは本当に傑作で、本屋大賞を取り、映画化されたこともあって話題になったが、そこで描かれているのは三浦さんが取材した岩波書店のやり方で、それは辞書の作り方としては異例なんだそうだ。あんな風に社員編集者が言葉を集めて文章を書くということは普通なくて、社外の学者に依頼するのが一般的らしい。
その「学者」もえらい先生が「名義貸し」をするのが当たり前だった、という裏話のくだりにも「へぇ~」と驚く。「監修 金田一京助」でなければならなかったのだ(これは金田一先生が悪いのではないので、念のため)。また、学者の間では辞書作りは下に見られている(「誰でもつくれる」という理由)というのもちょっと意外。
意外と言えば、冒頭で著者が取材の経緯を述べている所で、辞書作りに現に携わっている人は、辞書作成の過程に光が当たることを喜んでいないと書かれていて、これには驚いた。「舟を編む」のヒットで、地味な世界に注目が集まったことをてっきり歓迎されていると思っていたのだが、どうもそうではないらしい。これは、「辞書はあくまで”公器”つまり公共建築物のような”社会インフラ”であり、個人が表に立って出てくるべきではない」という理由からで、なるほどなあと感心した。プロの矜恃を感じる。
本題である、ケンボー先生と山田先生の「因縁」は、実に人間くさく、また、会社というもののイヤな面を突きつけられるものだ。でも、著者の姿勢が、二人の先生に敬意を表するところから外れていないので、後味の悪いものではない。いやまったく、お二人とも桁外れだ。その個性が最大の読みどころ。
さあそれで。「短文・簡潔」を旨とし「現代をうつすかがみ(鏡・鑑)」を目指したケンボー先生の「三国」と、「辞書は社会批評である」との信念で独特の解説を貫いた山田先生の「新明解」、さてどちらを支持するか?うーん、これは難しい。専門家は新明解に厳しく、盟友であった金田一春彦氏もついて行けずに離れていく。それも無理はないと思える名作(迷作?)の数々が文中で引用されている。でも読んで抜群に面白いのは間違いなく「新明解」の第三版。一方「三国」の信頼感はゆるぎない。
つまらない結論だけど、「みんな違ってみんないい」んじゃないかなあ。「舟を編む」でも書かれていたが、辞書作りが民間の事業で、国によって「これが正しい日本語だ!」と押しつけられることがないのはとても大事なことだと思う。
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『三省堂国語辞典』をつくった見坊豪紀(けんぼうひでとし)と『新明解国語辞典』をつくった山田忠雄。
元は一緒に『明解国語辞典』を編纂した二人が、『新明解』ができたことから決別したのはなぜかーーーその奇妙な足跡をたどったノンフィクション。
NHKBSの番組で放送、そのための取材内容に新たな検証を加えてまとめたものらしい。
おそらく多くの人がそうだったと思うが、辞書作りなど、三浦しをんの『舟を編む』で初めてその実態を知ったくらいで(といっても本書によれば、『舟~』で描かれたように、ヒラの編集委員が語釈を書くなどということはかなり例外的なことらしいが)辞書といったら金田一京助、新明解って結構面白い辞書だよね、程度の認識しかなかった。
その裏にこんなドラマが隠されていたとは…!
ケンボー先生と山田先生の複雑な関係や、辞書作りの意外な一面もさることながら、「ことば」というものの奥深さ、曖昧さ、怖さというところまでも考えさせられた。
幼児は「ことば」を獲得することで初めて、統合された人格を成していく。コミュニケーションの術を学び、人間らしく成長して社会で生きていけるようになる。つまり人の思考はまず「ことば」ありきだ。
だがしかし、果たしてそれが真に自分自身の感情を的確に表したものか、真に意図したことそのものを表しているかどうか、そして、真に相手に伝わっているかどうか、本当のところは誰にもわからないのかもしれない。
日々、互いの誤解(著者は「思い込み」といっている)の中で生きているのかもしれない。「ことば」の誤解が、人生を変えてしまうことだってあるかもしれない。
人々の「思い込み」にすがったまま、使われていくことで時代とともに変わっていく宿命の「ことば」。
著者のいう、言葉の「海」ならぬ「砂漠」にのまれ、「ことば」の今を追いかけ、深遠さを追いかけ、時代を追いかけ続けることに生涯をかけた二人の偉大な先生。『辞書になった男』とはあまりに言い得て妙だ。
番組、見たかったなあ。再放送しないかな。
蛇足だが、ビアスの『悪魔の辞典』がこんなところに登場してびっくり。そうか、ちょっと『新明解』はそんな雰囲気かも。
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おもしろかった!途中から小説のような心持ちで読み進めてしまったが、ノンフィクション。
番組もみたい。
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非常に興味深い内容だった。本職の作家さんでもないのに、読みやすかった。小説家ではないので無理はないが、ぜひこの内容を小説で読んでみたい。
いま私たちが普通に国語辞書が使えていることに感謝。現在漢検一級の勉強中だが、この辞書編纂の苦労に比べたらなんてことない、辞書を引くたびに有り難さが増す。
2015/07
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「ことばは、音もなく変わる」
「ことばは、不自由な伝達手段である」
三省堂から刊行されている「三省堂国語辞典」と「新明解国語辞典」。まさに、見坊氏と山田氏が二つの辞書に別れて行く時代に小・中・高校と一番国語辞典を使う時を過ごしていた。
お二方が辞書の語釈をつうじてコミュニケーションをとっていたと推察する著者の取材力、洞察力が面白く一気に読んでしまった。グイグイ引き込まれる様な構成は、著者の本業がテレビディレクターであるためだけであろうか。
一貫して”ことば”に着目したドキュメンタリーでありながら十分なエンターテインメント性を持った一冊である。
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リアル「舟を編む」でした。編集者が語釈を書く小説および映画のシーンは岩波書店の独特の風習だそうです。三浦しをんさんの取材先がたまたま岩波書店だったからとのこと。ケンボー先生の用例採集の情熱、山田先生の語釈のユニークさからも、辞書が手作りであるがゆえに使うひとたちが期待する何か完璧なものであること以上に、個性的なものであるなと思いました。「ことば」そのものがうつろいやすく、伝える役割を果たしたり、限られたひとにしか伝わらなくて良いという役割をもったりするのにもかかわらず、辞書に落とし込むことの難しさを知りました。
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ブログに掲載しました。
http://boketen.seesaa.net/archives/20140430-1.html
「新解さんの謎」が解かれた 赤瀬川原平の『新解さんの謎』(文藝春秋)が出版されたのが1996年7月。
その5ヶ月前の1996年2月に、『新明解国語辞典』の監修者山田忠雄(やまだただお=山田先生)は死去している。
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抜群に面白かった!
日本屈指の二つの辞書の編著者におきた仲違いの真相に迫るノンンフィクションであるが、そこに浮かびあがるのはスキャンダルなものというより、辞書編纂に打ちこむ二人の情熱とその才能である。
それにしても、辞書というのは客観的記述、はっきり言えば無味乾燥な語釈(言葉の解釈)や用例の羅列だと思っていたが、これほど編著者の個性が表れるものだとは驚きである。
本書の文章の合間に挿入される辞書の語釈が非常に効果的であるうえ、その語釈に二人の心情が吐露されているさまは感動的でもあった。
「舟を編む」を楽しく読めた方には、お薦めです。
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対照的な個性を持つ辞書がなぜ同じ出版社から発行されたのか?それぞれの編纂者の人生に焦点を当てて、経緯が紐解かれていく。
辞書に対する思い・立場・会社の思惑、色々なことが重なり合って、袂を分かつことになってしまったのは何とも言い表すことができない。
読んでいて、ケンボー先生、山田先生、それぞれの人柄や辞書・ことばへの熱い思いが感じられ、最初から最後まで興味深く読めた。
読み応えある一冊でした。
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ベストセラーになる国語辞書を編んだ昭和の巨星2人の仕事のドキュメントである。友人として始まり盟友→裏切り→畏友という関係に至った2人の友情の物語である。「ことば」という“不自由な伝達手段”ゆえに生じるミステリーの謎解きである。ひとくちに言い表すことができない、たいへん魅力的な本です。個人的には2014年中に、この本を越える本が出てくるかどうか、という本です。読後、辞書という「作品」への接し方が、今後大きく変わることを自覚しました。
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三省堂の2つの小型国語辞典の編纂に携わった見坊豪紀と山田忠雄を中心とした、辞書作りにまつわるノンフィクション、といったところでしょうか。
これを読んで、国語辞典に対する見方が変わりましたし、各国語辞典の違いについても、理解が深まったように思います。
何より、言葉に対する興味が深まりました。
その一方で、辞書を盲目的には信じられなくなったのも事実です。
でも、この本は、国語辞典を使う人は読んでおいて損はない一冊です。
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辞書にドラマがある。
そんなことは考えたこともなかった。
三省堂の国語辞典である『三省堂国語辞典』と『新明解国語辞典』。同じ辞書を作っていた見坊豪紀と山田忠雄。その決別の謎を追う…というのがストーリーだが、そもそも辞書を作る過程に物語があるなんてこと自体が驚きである。
いや、想像力の欠如だろう。
辞書は天賦のもので、絶対普遍なものだという「常識」。そんな常識はそもそも存在しないのだ。
辞書にも個性がある。それは「新明解」が示すもの。しかし、その個性の裏には人生があったのだ。
「ことば」による誤解が軋轢を生み、物語を変えた。
全く「ことば」は完全な普遍的なものではない。
それを「ことば」を集めて意味をまとめた編纂者が人生で体現していたのだ。鳥肌が立つ。
ミステリーとしてもドキュメンタリーとしても読めるが、それ以上に人生の啓発としても見方を変えてくれるほど、素晴らしい場所に光を与えてくれた作品だ。
この作品のきっかけになったNHKのノンフィクションも是非見てみたい。