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うすうす感じていた事だが、経験者から実例を挙げて語られると、深く納得するものがあった。ただ筆者が後書きでも触れているように、どの分野でもどの時代でもこうしたヒエラルキーが存在し生きにくい世界を作っている、ということだ。司法だけが例外であるはずも無く、ただただ暗い気持ちになった。
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この通りだとしたら、確かに絶望的。そして、大方そういう気がする。
政府だけではなく、裁判所、裁判官もどうやら憲法にはあまり関心がない、というか憲法を遵守しなければならないという感覚がないらしい。特に裁判官は憲法によって身分が保障されているにも関わらず、そして憲法と法と良心にのみ従えばいいはずなのに、欲のために諸々の権威につい従ってしまう。人間的といえばそのとおりなんだけど、憲法も市民もそんなことは望んでいない。
3権が分立しなければならないというのは、長い時間と多くの犠牲のなかで人類が到達した一つの到達点であるはずなんだけど、この本を読まなくても、裁判所はこの「権力」を自ら放棄してしまっているようにしか思えない。残念なことである。
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なんとなく裁判官という世界で功成り名を遂げなかった人間のひかれ歌という感が否めない。私企業でもありがちなことを、あたかも裁判所の特殊事情のように書き連ねているあたり、裁判官の世間知らずを自ら露呈しているような気がする。それに、近頃の日本の若者の学力低下の甚だしさは誰もが感じていることであり、裁判官だけ例外でなければならないとするあたりは、妙なエリート意識も垣間見える。
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結局この国はそこら中に(民間企業にも)いる官僚に食い潰されていくのだな。
裁判所(=司法)に絶望するには格好の一冊。
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元裁判官が執筆した司法官僚制に関する内容のものとなっております。最高裁事務総局による支配が裁判官を疲弊させていく過程の記述が生々しいです。もし裁判官になるのであれば、訴訟事件に携わらない人事局や経理局に長らくいることが望ましく感じました。
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多少個人的な感情が混じっている気もするが、裁判所・裁判官の組織の内情が暴露されており、興味深かった。
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良心に基づいた裁判官が排除される厳格な支配体制は、聞きしに勝る。上りつめるか退官を決意すれば果敢な判断ができるという精神的「収容所群島」だというのは、わかりやすい比喩だった。
裁判官から大学に転身した筆者によると、今世紀に入って腐敗が進んだそうで、良心を発揮しようと裁判官を志した友人達の現在が心配になる。その一方、とても裁判官になってから歪んだとは思えない、壊れた人々にも慄然とさせられる。
裁判所に送られる羽目になったら、破滅である。
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裁判所、裁判官という言葉から、あなたは、どんなイメージを思い浮かべられるのだろうか? ごく普通の一般市民であれば、おそらく、少し冷たいけれども公正、中立、廉直、優秀な裁判官、杓子定規で融通はきかないとしても、誠実で、筋は通すし、出世などにはこだわらない人々を考え、また、そのような裁判官によって行われる裁判についても、同様に、やや市民感覚とずれるところはあるにしても、おおむね正しく、信頼できるものであると考えているのではないだろうか?
しかし、残念ながら、おそらく、日本の裁判所と裁判官の実態は、そのようなものではない。前記のような国民、市民の期待に大筋応えられる裁判官は、今日ではむしろ少数派、マイノリティーとなっており、また、その割合も、少しずつ減少しつつあるからだ。そして、そのような少数派、良識派の裁判官が裁判所組織の上層部に昇ってイニシアティヴを発揮する可能性も、ほとんど全くない。近年、最高裁幹部による、裁判官の思想統制「支配、統制」が徹底し、リベラルな良識派まで排除されつつある。
33年間裁判官を務め、学者としても著名な著者が、知られざる裁判所腐敗の実態を告発する。情実人事に権力闘争、思想統制、セクハラ……、もはや裁判所に正義を求めても、得られるものは「絶望」だけだ。
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お世話になることがないので分からないが、著者によると日本の裁判所、裁判官の劣化が進行しているようだ。それもシステムとして劣化に向かっているようだ。裁判員制度が導入されたのもみせかけに過ぎないようである。著者によると、司法修習終わってすぐに裁判官に任官するシステムが問題のようだし、法曹一元化が必要のようである。自分がお世話になることがいつ起きないとも知れないのだから、人ごとと思ってはいけないのかもしれない。
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【文章】
読み易い
【気付き】
★★★・・
【ハマり】
★★・・・
【共感度】
★★★・・
日本人は空気の支配に流されやすい。
・集団への帰属意識が高い
裁判所は、民を愚かに保ち、支配し続ける
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日本の裁判所がどのような変遷をたどって変わっていったか。裁判所という閉ざされた空間、組織がどのようなものなのか。硬直してしまい権力を嗜好した組織の生々しさ。幾分愚痴っぽく聞こえるところも見られた。
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著者は、法学研究者に転身した元裁判官。『絶望の裁判所』という挑発的なタイトル。その内容は、裁判所という著者の元の職場について、内部から見た組織システムの課題として糾弾する本となっている。
自分の関心ごとであり、本書に期待していた、検察と裁判所の関係についても触れられている。もちろん否定的に。無罪率が極めて低い日本の刑事裁判の環境条件において、検察は無罪が出ると評価が落ちるので微妙なケースは起訴しなかったり、無罪となった場合に検察の評価に傷が付くことを裁判官が慮ることで評決に影響がある、と指摘している。結果として、日本の刑事司法においては、検察官が有罪無罪を決定し、裁判所は判断ではなく審査を行っているというゆがんだ実態であると批判している。また、裁判員制度が導入されても、検察官が、裁判員、弁護士、被告人に知られないところで口裏を合わせている可能性もあるとまで書いている。
ただ、この本の主題は、検察との関係や裁判の手続きの問題以前の組織としての裁判所が根源的に抱える問題の指摘である。この本の内容を正しいと考える限り、そのシステム上の課題は重いと言わざるをえない。裁判所というクローズドな職場において、メンバーである裁判官の評価が内部評価のみで定まり、かつ高度に職位が階層的であることから様々な問題が必然的に出ているように思われる。本書で紹介されている、各役職に付随する細かい序列には単純に驚いた。また、おそらくはこの細かい序列を各々の裁判官自身が意識をしているであろうことにも驚く。序列を付けるということは、その中で内部競争させるということである。またその中でも、刑事と民事とで所属が分かれており、事務総局といった明確な出世ポジションがあるなども硬直化を促すだろう。もし裁判所が劣化しているというのであれば、原因は司法という特殊性にあるのではなく、この硬直化したインセンティブシステムにあると言ってもよいように思われる。価値観は評価システムによって作られ、その価値観に沿って行動が決定される。それは最終的に個人をある程度規定することになり、結果的に類型化された個人を形作ることになる。
またその評価が、処理件数などの一面の数字で測られる限り、丁寧に審理をしようとするのとは逆のインセンティブが働くだろう。民事において和解を勧めることが多いのは、審理を早く処理したいというインセンティブが裁判官にあるからということらしい。また、その評価システムにおいて、公式な評価以外での排除や報復まで含めた減点主義の評価を恐れるあまり、そうとは意識せずに事なかれ主義の行動に走ることも容易に想像できる。そして、そのシステムの中で上がった人間がそのシステムを否定することはなく、通常の民間企業のように外部との競争環境による脅威もない中では、内部の自浄作用は全く期待することはできない。
そして、本書ではあまり指摘されていないが、裁判官がほぼすべてかつてその世代において優秀とされた人間であるということも問題をさらに根深いものにしていると思われる。つまり、「もし別の道を歩んでいたらきっと成功をしていたはずだ」という思いが積み上がり、ここま���の間、優秀だった自分の人生を投資してきたのだから、よほどのことがない限りそこまで積み上げた立場や権利を、それがどういうものであろうと、手放そうと思うことは非常に難しいことだろう。
著者も東大法学部在籍中に司法試験に合格した最優秀のひとりである。著者は、40代のころに鬱病を発症し、長期休暇を取得したそうだ。裁判官たちを「精神的被拘束者」と呼び、職場としての裁判所を「ソフトな収容所群島」と呼ぶ著者も、おそらくはそれまでは、裁判所内のヒエラルキーにそった価値観に囚われていたのではないだろうか。その意味では、職場である裁判所や何人かの個人に対してある種の「恨み」もあるだろう。またそれ以上に自分の人生を費やしたことに対する「後悔」があるのではないだろうか。そこにはニーチェのいうルサンチマンが鬱屈して積もる様子が容易に想像できる。
このような状況で、さらにメンタルケアが手薄だとも言われる中で、著者がかつてそうであったように一種の鬱状態となっている裁判官が他にも多くなっているのではないかと懸念する。プライドが高く、また将来の人事にも関わることを恐れて、申告を控えることで、その真相は影に隠れることになる。通常鬱状態となると、集中力や判断力が低下することは明らかで、そのような状態の裁判官に審理されるというのは憂慮すべき状況でしかない。
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この本の中でまだ分からないところが二つほどある。
ひとつは、裁判員制度が刑事系裁判官の権力拡大に利するために、原崎最高裁長官の下で進められたというところだ。裁判官制度の導入は、刑事裁判の現状を是正するために導入されたものではなかったのか。裁判官の秘密保持義務(違反した場合は懲役刑もある)や裁判官の補佐が三人も入ることなど裁判員制度の不備や当初の目的からの逸脱が指摘されているが、裁判員制度の導入がなぜに刑事派に利することとなるのか不明だ。
もうひとつが、解決策としての法曹一元化だ。そもそも「法曹一元化」という言葉が何を指すのかさえ分からなかった。裁判所の人事システム的欠陥が納得いったところは満足だが、法曹一元化がなぜその解決策になるのか。その点についての説明が少なかったことが残念だ。解決策を示さないままでは、司法システムという公的組織に対する批判とはいえ、昔の仲間の欠陥を無責任に指摘しているだけではと言われても抗弁できないのではないだろうか。もちろん、自分の「法曹一元化」の理解が乏しく、これを導入するだけであっさりと解決できる問題なのかもしれないのだが。そもそも裁判所の中でも民事と刑事に分かれているようでは、言うは易し、行うは困難この上ないというところではないのだろうか。
2000年代以降、裁判所の劣化がひどくなったというのは、一面にすぎるのかもしれない。全員ではないとしながらも裁判官という個人に対して、心がゆがんでいて内面がなく幼く嫉妬深いと言い切る。その一部はそのシステムの中で20年近く過ごしてきた著者にも当てはまる部分がないとは言えないだろう。竹最高裁長官に対する評価は半分公人とはいえ個人攻撃にも近い。そして、そういったことも含めて重要な指摘であると捉えるべきであろう。何となれば自分も裁判の当事者になることが十分に���るからだ。
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同著者の新刊でもある『ニッポンの裁判』も購入してみた。↓
http://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4062882973
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延長すれば良かったのに時間切れ 裁判員制度も刑事裁判官の自己顕示欲の道具とか面白いことが書いてある
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閉鎖的、閉塞状況にある官僚組織において往々にして起こってしまう好ましくない状況が、裁判所組織内において正しく起こってしまっているということを、元裁判官が切々と訴えている。
思うに、「ジャスティス」という価値観を守り育てていく「社会システム」の本来あるべき姿を想定する切り口として、多様なステークホルダーの調和という視点でとらえてみたはどうかと思った。
まぁ、民事と刑事とは実現すべき「ジャスティス」に若干の違いはあるかもしれないが、当事者、検察、弁護士、裁判官というプレイヤーたちが、ステークホルダー間の調和を図りながら、まったく関係のない第三者にたいしても説明責任が果たせる「プロセス」づくりに最大限の注力を図り、なるほど、うまいこと落としどころを見つけたなぁというようなことであればいいわけである。
ところが、「ジャスティス」の実現に関し、一番の権限と、権威を持っている「裁判所」という機関の劣化が激しいと嘆かれている。
一番最初に書いたが、閉鎖的・閉塞社会で官僚組織というのが人間社会において、一番始末が悪いわけである。
日本社会において、今現在、裁判所も含め、閉鎖・閉塞分野において、色んな不都合が起こってきている。
はてさて、このことは、現代日本社会全体で考え、取り組んでいかなければならない課題であるが、私自身としては少々悲観的ですが・・・(涙)。
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著者の自分語りと牽強付会気味の立論に違和感がある。
裁判官の精神構造の病理について著者が論じる点は、現在の著者にも妥当するように思える。
とはいえ、元裁判官が、これだけ自分の見聞を披露して、裁判所を正面切って批判するということには、やはり意味があるのではないか。