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雑誌『考える人』で、ところどころ読んでいた、一冊の本としてまとまって読むと一層面白かった。養老先生の語り口で話が多岐に渡り脱線するところがまた宜しい。
隣近所の博識の年長者の話を聴いているような心持になるのだ。難しい事を難しく説明するのは誰でも出来る。それって説明している本人の腑に落ちていない可能性があるわけで、その点で言えば、先生は腑に落ちたところから話してくれるので判り易い、判った気になってしまう。(これはこれで考えものだが…)
本書では、死体とか墓地とかに関する彼我の考え方の違いであるとかそれに関連する諸々の事象についての様々な考察~先生のつぶやきが興味深く読めた。写真も豊富で興味深い内容だった。(ちょっと気持ち悪いケド)
既に、続編が決まっているようなのでそちらも今から楽しみである。
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養老先生による中欧の墓地巡礼記。
何か結論があるわけでもなく、話もあちこちに脱線するし
説明もなく難しい単語がポンと出てきたりするし(笑)。
と言ってわからないわけでもつまらないわけでもない。
最近の養老先生の文章は「読む」ものではなく、「感じる」
ものになってきている、と何となくそう思った。
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死生学をめぐる旅行記です。「一人称の死」「二人称の死」「三人称の死」を軸に、オーストリア・ドイツ・チェコの死者と墓について扱っています。
著者の知人である解剖学者に言われたのですが、私の「死生学」は死生学ではなく、文学研究の域を出ていないそうです。やはり文系の場合、人体に対する認識がまだまだだと思います。この本を読むと、宗教学を含めた文系の「死生学」をどうすべきか、考えさせられました。
その意味で、赤の他人である「三人称の死」であるヨーロッパの死者に対する視点は、親しいものの「二人称の死」に引き寄せるものがあります。それでいて、文系の人間から見ると、やはり「三人称の死」なのです。解剖学者としてのスタンスを感じました。
図版もカラーで、巻末に編集部の解説があります。これはかなり苦手な人がいそうです。
ユダヤ人墓地の狭さのクローズアップは考えさせられます。
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人はどうやって死者を弔ってきたのか。解剖学者養老孟司氏のヨーロッパの墓地巡礼。非常に興味深い事例が数多くあった。以下列挙。
・ハプスブルク家では代々心臓を取り出して銀の容器に入れ、身体とは別に保管する。これは現代でも行っている。心が心臓に宿るという心臓信仰によるもの。
・やたらと骸骨堂があり、骸骨を飾り立てる。乾燥していて「モノ」が残ってしまうヨーロッパの風土のせいか。
・ユダヤ人の墓地がやたらと多い。ユダヤ人は墓地を壊さない。(ユダヤ教は徹底した現世利益の宗教であるのに不思議だ)
・墓と共同体の関係。日本におけるそれとヨーロッパでは当然異なる。日本は火葬にして戒名をつけて「あちら側の人=仏」とするがヨーロッパではもっと現実的で、この世と密接に繋がっている。
などなど。とりとめもないけれど、多くの美しい写真とともに読むと極めて楽しい知的興奮が味わる。
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大好きな養老先生の本。日本人の身体観に続けて読んだ。この間20年が経っている。養老先生はその間もずっとお墓のことが気になっていらっしゃったそうだ。ご自分ではしつこい性格だとおっしゃっているが、その疑問の持ち続け方がまるで少年のように感じられた。
そういえば、こんな記述があった。
「骸骨はなんとなくユーモラスである。骸骨を組み立てると、次は動かしたくなる。」
なんて無邪気なんだろう!と吹き出して笑ってしまった。駄洒落やユーモアも随所に散りばめられていて楽しい。
この本の最後の一言は、
「悪くないよ。」
である。ちょっと、涙が出そうになった。憧れだなぁ〜
Mahalo
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チェコクトナー・ホラ市のセドレツ納骨堂。4万体の人骨のうち1万体の人骨で装飾されている。写真を見るとなんだかユーモラスで笑ってしまいます。ここでは三人称の死、骨はモノに近いようでもあり、同じ礼拝堂の仲間として二人称の死ともいえると説明されています。ヨーロッパの墓巡りをするにあたり、内田樹先生の「私家版/ユダヤ文化論」は必読のようです。
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どのように身体を埋葬するか、屍に対する考え方って、その土地の風土や気候に大きく左右されるんだなぁと、今更ながら気づかされる。まぁ当然と言えば当然か。乾燥するからミイラとか、土壌の性質によって骨が残るとか。そういうのがとても面白いと思った。
死んだら別ものか、死んでも当人であり続けるか。やっぱり日本的な考えの方がしっくりくるなぁ。死んでも社会的に自分であり続けるなんて、面倒だし、つらい。戒名っていいシステムなのかも(笑)
お金とかさ、お寺側の都合でこれまた面倒なんだけど。
そう思うと、やはり人間は、どのように身体と向き合うにしろ、社会的な動物なんだと、気づかされました。
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骨を超かっこいくあしらったセドレツの教会はなんだかダミアン・ハーストを思い出した。「ユダヤ人のお墓は動かしてはいけない」という言葉が代表するように、ヨーロッパと日本での、死者と生者の関わりの違いにも考えさせられる。あと私が大好きな「ペット・セメタリー」に触れてる点も嬉しい。とはいえ、基本的にお墓や死について、あまり関心がないので、養老先生の思索についていけず、ちょっと退屈してしまいました。
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さすがの養老節。
何気ないものから、抽象的観念を取り出し平易なことばで読み解く。よくは、わからない。
でも、それでいいのだ。
なんとなくわかったような気になるぐらいが、ちょうど良い。
『詳細の全てを「事実」でガチガチに固めた嘘を科学という』
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死んだ後の人というのは、どうにも扱いようがない。風葬なら、カラスがつつき、野犬が食べる。そのあとを昆虫が片付ける。それで輪廻するのだが、文明はその循環を勝手に断ち切る。死体の処理を考えていると、自然と人が「切れた」のだとしみじみ思う。(p.60)
日本の墓地は現世よりあの世に近い。欧州の墓地では、陶板に焼き付けた故人の写真が入っている墓石がある。故人が子どもや若者の場合に多い。最初にそういう墓を見たとき、ああ、生臭いなあ、と感じた。つまり墓としては「現実的に」過ぎるのである。(p.139)
わざわざ墓を作る。それは一種の表現と見てもいい。だれかがそれを見るからである。人工物は見る側からすれば表現である。だから人工物にはデザインが伴うことになる。墓を表現としてみると、受け取られた表現とはつまり情報である。デザインとは、その情報にある種の方向性を指示するものである。(p.140)
欧州の墓地に詣でて感じるのは、それがいわば正常な生活の一部になっている、ということである。日本では、そこに暗黙の切れ目がある。私は墓地の隣に住んでいるから、通りすがりの人の会話から、それを感じることもある。「こんなところに住んでる人がいるんだ」という声が聞こえてくる。(p.160)
日本は自然に恵まれており、日本人は自然に親しむ。田んぼや畑は里山に囲まれ、その里山は自然に原生林に移行する。都市は作っても、その周囲を城郭で囲まない。しかし、である。生死というヒトの自然だけは、はっきり切断する。それは死者を悼む感情が強いからだといえよう切断する代わりに、お盆には死者が戻ってくる。しかしそういう祀りそのものが、逆に切断を強く意識させる。死者はもはや戻ってこないからこそ、戻ってくる日をわざわざ作るのである。(p.160)
世界の趨勢だと思うが、社会が死を排除しつつある。大きくいえば、自然を排除する方向にいっている。すべての文化が、死によって起こるマイナスを補償する装置のようなものを供えるに至った。身体に関することをタブー視するようになった。(p.174)
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☆ヨーロッパにおける心臓信仰、ユダヤ人、カタゴンベ、骸骨
ちょっと、気になる話。
内田 私家版・ユダヤ文化論 県立 市立316ウ
ツヴァイク(2巻) 昨日の世界 大学新書庫940.27Z9.1,2
中島 ヒトラーのウィーン 県立 市立289ヒ
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終盤のメタ・メッセージのくだりで盛り上がる。人は死ぬ。これは間違いない。死ぬまでに何か多くを得たい。それが難しいから周り(世間)を気にする。
誰かの失態を非難する。お金儲けすると妬む。いいもん食べてると羨む。
これは逆に、失敗しても許してね、お金儲けいいじゃん、グルメ探訪まいうー、ってな願望がある証拠。やはり世間を気にしている。失敗から学ぶ何かを知ろうとせずに体裁を保ちたがる。お金儲けても妬まないでねと壁を作る。美味しいものみんなにお勧めしよーとSNS発信する。全て独りよがり。だったら周りを気にしないほうが良いに決まってる。気にしたところで学ぶことは何一つ無い。
ZOZ○前○社長がお年玉あげるっていわれても無視無視。
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筆者の知識量はやはりすごい
ハプスブルク家の心臓侵攻についてが特におもしろかった
今回、駆け足で読んじゃったので、子育てが落ち着いたらまたゆっくり読みたい本