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以下引用
画一的な街も、少子高齢化と過疎化に見舞われた地域も、それがともに人に疎外された既視感を抱かせることに示されるように、そこはすでに、人が自らの存在を預け、生きている実感を得る帰属の場所でも、自分の存在を担保する記憶の場所でもなくなっている
文化的な側面に着目し、文化資源を活用した地域の活性化を考えるという従来の議論では、活性化そのものが量的な拡大を志向する経済的な価値の枠組みと結びついている
自分の生き方を表現しつつ、それを他者との間で「コトバ」化し、実体化することで、身体をつくりだしながら、自らの存在の身体性を生み出す、自由を相互に承認し合う関係へと入っている
この事後性と動的平衡という過剰性は、コトバそのものの性質と重なる。コトバは、身体にもとづく発話においては、個体的であっても、その持つ意味を基本とする言語としては集合的なものであり、しかもそれが、言及できることは、事前に決まっていながら、個体が言及したことを知覚できるのは事後的でしかないという性質を持っている。私たちは発話した後からしか、何を言いたかったのかを意識化できない
私たちは自分の思惟を意識化するためには発話するしかなく、しかしその発話される言語は私のものではなく、私が属する集団のものであるために、私の思惟は、事前に決められた集団に沈殿し、蓄積されている意味によって、規定されるものとしてかあり得ない
私は、わたしであるために、つまり私が何を思惟し、何を知覚しているのかをしるためにこそ、過剰に「発話」し続けなければならないのである。コトバは、常に発話する私と社会との関係に裂け目つまり「わたし」という主体を立ち上げ続けることで、その関係を新たな「社会」へと組み替え、つくりだし続けることになる
そのためにこそ、私たちは、「他者」と出会わなければならない。それはつまり、「対象に住み着いたまなざし」である。私は私を「わたし」として立ち上げるためにこそ、私にとっての「真の他者」にならなければならない。しかもそれを構成するのは、常に動き続けて私を知覚の主体へと構成しようとする、身体と環境との過剰で相互的な運動によって生み出される知覚
研究者は、自らの論文に自己のカラだを住みつかせることになる。その論文は、仲間との間にさらされることとなる、ここにはまた、新たな集団的な記憶が立ち上がり、新たなわたしたちである、わたしが生み出されていくこととなる、わたしたちとして生きることのできる
今日私たちが直面しているのは、自他の往還関係のない自己消費、つまり自己に向けて一方的に提供される商品に自分の好みや嗜好を投影し、消費して、またより直接的に自分の感覚を消費することで、自分をとらえようとする自分へのアディクション
私たちは自分の言及できなさを事後的に知覚しつつ、その言及できない自分を言及しようとして、他者から言葉を与えられることを過剰に求めてしまう。つまり、他者を欲望してしまう。
コトバは、本質的にそれを発し、記述���る人のものでありながら、その人のものではなく、その人が帰属する社会のものであり、集団的な他者のもの
常にその場で、自らのコトバを実体化し、カラダ化することで、他者のカラダへと名宛てされ、その「コトバ」によって、再解釈され、読み替えられる自分の「カラダ」が存在することになる
他者から「コトバ」を与えられることによる自己の確定と言う関係ではなく、むしろ自らの「生き方」を表現しつつ、それを他者との間で「コトバ」化し、実体化することで、「カラダ」をつくりだしながら、自らの存在の身体性を生み出す自由を相互に承認し合う関係へと入っている
勝手で宛名もなく、過剰な「自分語り」を自分に充てられたものとして受け止めて、「コトバ」を還してくれる「誰か」が存在することで生まれる、勝手な「贈与」と勝手な「答礼」に始まる、想像力に定礎された「贈与」の経済としての関係の生成と循環
生き方の過剰な発信を相互に認め合い、それを相互に身体性へと再構築することの自由を認める、つまり価値の実体化と消費の自由を相互に認め合うことで、
他者との間で、「コトバ」によって自らを構成しながら、他者との間で「カラダ」をつくりだすような想像力に定礎された身体性そのものが、他者との間で自らの生き方を作り出す
自己のつくりかえの作業の中で、なされているのは、他者との関係の中で、その都度、自分を実体化しながら、自分が存在している関係を多重に組み替えて、そこに自己のイメージを実体化させ、他者からの言葉を浴びて、解体し、組みかえていくという、自己表現の終わりのない運動