紙の本
可愛らしいいえで
2019/01/22 15:48
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投稿者:ウッドチャック - この投稿者のレビュー一覧を見る
妹ができて、かまってもらいたくていえでを試みるおねえちゃんのフランシスのお話。
息子に「いえでってなに?」と聞かれ、おうちから出て行くことだよ。と答えたのですが、おうちからでなくてもいえでが成立していました。
とても可愛らしい作品で、ところどころのフランシスの歌もおかしく、笑いながら読みました。
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弟や妹のいる小さいお子さんなら、誰でもフランシスに共感できるのではないでしょうか。
大好きなお父さん、お母さんに愛され守られていることがちゃんとわかっているけど、ちょっぴりその愛情を試してみたい。そんな気持ちできっとフランシスは「いえで」したのでしょう。
最後にはフランシスの期待通り、お父さんお母さんのたっぷりの愛情に包まれていることを、フランシスは知ることになります。
フランシスがとても愛しく、温かな気持ちになれる作品です。
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フランシスはチョコレートが好きなのね
家の中で家出するってのが、かわいいよな~~ほのぼのする
また、おとうさんとおかあさんの対応がいいですね
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赤ちゃんが生まれて皆赤ちゃんにかかりきり。だからフランシスが着たい服にはアイロンがかかってないし、オートミールには干しブドウが載ってない。そら家出もしたくなるつーもんです。
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_じゃ、あたし、これから いえでします。さようなら。いってまいります。_
うたを歌っても反応はないし、そらいろのようふくにアイロンはかかってないし、朝ごはんにほしぶどうはないし、もう家出するしかないよね!
うわーん。かわいい・・・。
いもうとのグローリアが生まれてから、おもうようにいかなくなった おうち。
わたしは末っ子ですが、フランシスの怒りたいようなさみしいようなその気持ち、とてもわかるよ。
家出先は、ながしのした。リュックサックに家出アイテムを詰め込むところも、せつなくて超絶かわいい。
それに付き合っての、おとうさんとおかあさんの小芝居が最高に優しくて。
家族にすこし疲れ気味な最近のわたし。冒頭のせりふを言っちゃいたいですし、おかあさんに会いたくなっちゃったよね。。。
作ってほしいのはチョコレートケーキじゃなくてイカのわたの天ぷらだな〜。
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・家出のポーズ、電話のポーズに爆笑しました
・おかあさんやさしいな…ケーキいくらでも焼いてほしいよね…
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「フランシスに妹がうまれました。なんだかさびしくなったフランシスは台所のテーブルの下に家出を決行! そこでお父さんとお母さんの話が聞こえて…。いじらしく、かわいらしい子ども心とおおらかで暖かな両親の愛情を描いています。」
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ブクログにあったのは、新装版(2014年)ですが、私が読んだのは、1972年発売のものになります。
昨年、いつもの図書館で開催されていた、本と雑誌のリサイクルフェアで無償でいただいた本書は、アナグマの娘「フランシス」を主役とした、フランシスシリーズの三作目(原書1964年)にあたり、アメリカの作家ラッセル・ホーバンのお話と、妻リリアン・ホーバンの絵は、フランシスを取り巻く、家族の温かみを丁寧に描いており、松岡享子さんが翻訳をされているのも納得の作品。
始まりは、おとうさんは新聞を読み、おかあさんは、赤ちゃんのグローリアにミルクを飲ませている、静かで穏やかな夜のシーンではあったが、その隣にある台所の流しの下では、何故かフランシスが座って歌を歌っており、それに対する反応が何も無いことを知ると、今度は、自分の部屋から小石を入れた缶を取ってきて、それを振りながら歌い出したのを見て、なるほど、これはグローリアばかり構って、自分の存在を無視されているように感じられたことが寂しいのだなと、下の子が生まれたときの、おねえちゃん(おにいちゃん)あるあるのような、こうした思いは、昔からあったのだと知る。
そして、翌朝になると、やはりグローリアの世話で、おかあさんは忙しく、フランシスのお気に入りの服を準備できなかったり、買い物に行けなかったりと、フランシスにとっては、まるでグローリアのせいで自分の思い通りにいかなくなったと感じたことから、家出することを決意し、それをおかあさんに告げる。
とはいっても、それはあまり深刻さのない可愛いものであり、
「じゃ、あたし、これから いえでします。さようなら。いってまいります」
「どこへ いくんだい?」と、おとうさん。
「しょくどうの テーブルのした。あそこが いちばん いいと おもうの。だって、あそこなら きもちが いいし、ビスケットがたりなくなっても、だいどころが すぐそばだから」
「そうね。あそこは、いえでするのに いいばしょだわ。でも、おまえが いなくなると、さびしくなるわ」と、おかあさん。
「ほんとだ。さびしくなるねえ」と、おとうさんも。
「じゃ、いってきます」
上記のやり取りを見ても分かるように、フランシスのその寂しさは、おそらく勘違いだろうと思われるのだが、そんな状況に於いても両親は、とても穏やかで・・・もちろん、家庭の事情次第では、おかあさんも頑張っているのだから、そんなこと言わないで、おねえさんらしくしてよ、なんて言いたくなる気持ちも分かるので、ここで挙げているのは、あくまでも、一つのパターンだとは思われるが、本書の上手いところは、食堂と両親のいる部屋が隣り合わせにあり、両親の話したことが全てフランシスに聞こえる点にある。
「しかし、なんだねえ。フランシスが いないと、うちのなかが いつもと すっかり ちがってしまった かんじだねえ」
「わたしも、いまちょうど そうおもってたところ」
「あのこが いないと、うちのなかが がらーんとして、なんだか わすれものを したみたい。グローリアでさえ、まだ あんなに ちいさいのに、それが わかるらしいですよ」
「そういえば、いまも ちょっと ないてるようだね」
「そりゃ、ちいちゃいこは、おねえさんを たよりに してますものねえ」
その後ふたりの話は、フランシスがいつも歌っていた懐かしい歌の中で、どれがいちばん好きだったかへと変わっていき、そんな会話の中でも心に残るのが、リリアンのその淡い鉛筆画に於いても、確かな存在感を放つ、ふたりの表情であり、特にその瞳に宿る、心から楽しそうにキラキラしている愛おしさには、それがそのまま、ふたりのフランシスへの確かな愛情を表しているようで、ここに来て、ようやくフランシスもふたりの思いを実感した、そこに至るまでの過程には、きっと同じ境遇の子どもにとって、響くものがあると思う。
「おぼえて いらっしゃる、わたしが いつも いってたのを──『フランシスみたいな おねえさんを もって、こんどの あかちゃんは、なんて うんが いいんでしょう』って」
「おぼえて いるとも。グローリアも、フランシスみたいに、かしこくて、いいこに なってくれると いいねえ」
「フランシスみたいな おねえさんが、そばに ついてるんですもの、きっと りっぱな いいこに なりますわ」
「フランシスは、どうしてるだろうね。あたらしい ばしょで、うまく やっているだろうか」
「ほんとに、どうしているでしょうね。それに、このセーター、あのこのなんだけど、そでたけが ちょうど いいか どうか、あててみなくちゃ」
ここまで読んで、改めて実感させられたのは、子どもにとって、自分の存在が親にどのように思われているのか、その本音を、時には知りたいのだろうなということであり、親が内に抱く、子どもへの思いの確かさもあるのだろうとは思うが、あなたはあなたで素晴らしいのだと、言葉や行動によって、子どもに確実に伝えることの大切さも必要だと感じ、それによって、初めてフランシスは原題の、
『A BABY SISTER FOR FRANCES』のとおり、まさにフランシスのための妹だということを実感するのだろうと思い、それは彼女が終盤で歌う、下記の歌にもよく表れていたのであった。
おねえさんは、うちに いないと いけないの
とおくへ いっては いけないの
だって、うちのひとが、とても さびしくなって
うちにいて ほしいなって、おもうから