偉大なナンシー関の意外な過去
2015/10/17 15:54
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投稿者:アキコ - この投稿者のレビュー一覧を見る
生い立ちからデビュー、仕事がちょこちょこと増えていったところ…
そして突然の死と周りの狼狽。
知っていたところもあり、全く初めて聞いたところもありでした。
シャイでいて自信家な彼女の魅力を、周りの人からの聞き書きを中心に
まとめています。
どこかもどかしい気がするのは、やはりしばらく時間が経ってからの取材
だからでしょうか。
幼少期から高校生についての青森の友達からの証言が、面白かった。
昔からやはり秀でた才能があったのですね。
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テレビ評論で有名なナンシー関の評伝。きっちり書かれているけれど、ナンシーの魅力を伝えきったかとなるとちょいと疑問。著者の〝力み〟が、逆にマイナスになっているように感じる。宮部みゆきが話したというそれぞれが「心に一人のナンシーを」というのは名言。それぞれが心の中に〝他者〟を持とうと言うことらしい。全体的にちょっと惜しい。
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ナンシー関は結構好きです。文庫化されたものは殆どよんでるんじゃないかな。当時も今もあまりTVをみる機会は多くないんだけど、ナンシーのコラム/文章はちょっと中毒に近い魅力があって読んでしまう。熱狂的ファンの宮部みゆきも同じような事かいてた。
あくまでTVという箱のこっち側に徹していて(つまり一般視聴者と情報量は同じ)にもかかわらず 読ませる/ひざをうつ/笑わせる文章とチープな消しゴム版画。
もう、これ以上の快楽はなかなかなかったなあ
辛口批評の殆どはあまり好きじゃないけどナンシーは
あくまでTVという箱の中のキャラクタを批判してたのであって、個人攻撃とは全く違う次元。
批判されて反論している人はそこを勘違いしていると思う。例えばデーブとかは「デーブとのつきあいは僕が一番長い、その僕が...」とか反論していたが その時点で全く分かっていない。TVという箱を通したデーブが「面白くない」といっているだけ、
ともあれ、心に一人のナンシーを! というのは名言だなぁ、、、って まとめてみた(笑)
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家族でも知人でも無い人の死があれほど悲しかったことは後にも先にもなかった。芸能人を見るときはどこかナンシー関的ものさしではかる自分がいます。
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評伝ナンシー関。横田増生著、朝日文庫。ナンシーの不在はもちろん悲しいのだが、マツコがいるから当面は大丈夫だな、と少し思う。
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宝島にコラム連載しているときから気になっていたナンシー関。そういや、親父が定期購読していた週刊朝日も、東海林さだおと山藤章二と並んでナンシー関の記事だけは読んでいたなぁと、懐かしくなって手に取った1冊。
タレントとは決して名乗らず、テレビ評論家とも名乗らず、生涯一「消しゴム版画家」として、ブラウン管のこっち側から見たテレビ評論と言う仕事に埋没するかのごとく、姿を消した彼女の生涯が読み取れる良作。でも、この本を読むよりナンシーさんの著作を読んだ方が彼女の魅力を満喫できるはず。そういう意味でも彼女は偉大だと思う。
マツコ・デラックスの巻末インタビューもオモロいが、やはりマツコはブラウン管(古っ)の向こう側の人。立ち位置として、ナンシーの後継者には不適格なんだろうなぁ。しかし、デーブ・スペクターは酷いなぁ。
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ナンシー関が39歳で急逝してから、はや15年。本書は没後10年目に出版された評伝である。キレ味と愛情と孤高の視点を内包した文章と消しゴム版画を多数残したナンシー関の生い立ちから死の直前までを、関係者のインタビューを紡ぎながら構成している。
サブタイトル『心に一人のナンシーを』が、イカしてる。ナンシー関の文章を読み返そうかな。
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ナンシー関は天才だった。久しぶりに彼女の文を読みたくなった。
けど、いろいろテレビ出演の話は書いてあるのに、どうしてあの深夜番組のことは書いていないんだろう?
(108)
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生前ナンシー関にかかわった多くの人びとへのインタビューを通して、あまりにも早くこの世を去った彼女の生涯を明らかにしている評伝です。
死後、ますます多くの讃辞に取り巻かれたナンシー関ですが、本書はさまざまな人びとへの取材を通して等身大のナンシー関をえがいており、ノンフィクションとして優れた仕事だといってよいように思います。その一方で、本書の「まえがき」には、「すでにナンシーの書いた文章の中に、いくつもの物語がある。それを整理整頓してならべなおし、その背景を埋めていけば、どうしてナンシーが非凡で魅力的な書き手であったのかがより明らかになるのではないか」と書かれていますが、こうした作業を通じて彼女のスタンスを評価するという面では、いまひとつ踏み込み切れていないような印象もあります。
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烏兎の庭 第四部 8.18.12
http://www5e.biglobe.ne.jp/~utouto/uto04/diary/d1208.html#0818
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消しゴム版画家 コラムニストのナンシー関の評伝。思っていた以上に、影響力のある方だったようだ。
雑誌の中でしか読んでなかったので、今度は書籍を読んでみようと思う。
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2002年6月12日に急逝した消しゴム版画家であり、稀代のコラムニストであるナンシー関さんを『ユニクロ帝国の光と影』などの横田増生さんが著した人物評伝。
私はナンシー関さんの著作を愛読していた。
当時、新聞の訃報欄を読んで思わず「ナンシーさんが死んじゃった!」と叫んでしまったのを覚えている。
家族は「、、、あの、消しゴムの?」と言っていたが、私にとっては『通販生活』での『記憶スケッチアカデミー』の人だった。
亡くなった後、図書館でTV評を読みまくったが、私の人物観察がつたなすぎて、何を言っているのかよくわからないものもあった。もう、本当に表層しか見えてないんだな、自分。
ナンシーさんは潔い。
「『顔面至上主義』は『人間は顔面』をモットーに人を顔面だけで判断していいじゃないか、という主義である。
『人間は中身だ』とか『人は見かけによらない』というなかば正論化した常套句は『こぶ平っていい人らしいよーー(だから結構好き)』『ルー大柴ってああ見えて頭いいんだってーー(だから嫌いじゃない)』というとんちんかんの温床になっている。いい人だからどうだというのだ。テレビに映った時につまらなければ、それは『つまらない』である。何故、見せている以外のところまで推し量って同情してやらなければいけないのだ。
ここで私は『顔面至上主義』を謳う。見えるものしか見ない。しかし、目を皿のようにして見る。そして見破る。それが『顔面至上主義』なのだ。」p265
副題の「心に一人のナンシーを」というのはナンシーさんと対談の仕事をしていた、大月隆寛さんの言葉。
自分で自分に突っ込む姿勢を持っていようよ、ということだそうだ。私も持っていたい。
あと伏見憲明さんが、「ナンシーの文章はクィア的」と評したり、マツコ・デラックスさんが「アタシは女性的な目線でテレビを見て、ナンシーさんが男性的な目線で見ている」というのも何だか納得した。
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評伝 ナンシー関 「心に一人のナンシーを」 (朝日文庫) 文庫 – 2014/6/6
ナンシー関の死はテレビを見るもう一つの冷静な視点を失うことを意味した
2018年5月3日記述
横田増生氏による著作。
2014年6月30日第1刷発行
本書は2012年6月に発行されたものに加筆、文庫化したもの。
*2012年6月12日で、ナンシー関が永眠してから10年が立つ。
その10年が立つのに合わせて、取材を進めてきたのが本書だ。
著者が千葉県市川にあるAmazon物流センターで勤務していた頃から
ナンシー関の本に関心があった話は出ていた。
本格的な取材自体はフランスからの帰国後のようだ。
巻末にナンシー関の年表と参考文献の一覧が記載されている。
いつも思うけれども横田増生氏の丁寧な仕事ぶりが
ここからも伝わってくる。
これで索引がつけられていれば完璧な専門書となるであろう。
野口悠紀雄氏も指摘するが索引は最後の最後にならないと作業が出来ない事もあり付けることは簡単ではない。
それにしてもかなり多くの方からナンシー関の生前の活動について語って貰えたが故に本書は完成した。
また良い評伝を作るなら関係者が元気な内に取材するべきなのだろう。
取材でなければ聞き出せなかった話も実に多い。
著者によるとナンシー関の書いたコラムにははずれがないのだという。
ナンシー関のテレビ評の魅力は、これまで漠然と思っていたことを的確に言語化してくれる点にある。
人々の胸の中にあるもやもやとした感情を、平易な言葉と鋭利な論理で明快に説明してくれる。
そうしてはじめて人はその事情を笑ったり不愉快の理由を知って溜飲を下げたりすることができる。
ナンシー関はその能力において、一頭地を抜いていた。
解剖の結果、ナンシー関の死因は虚血性心不全と判明した。
虚血性心不全につながる心筋梗塞の三大要因は、
ストレスとタバコ、それに運動不足です。
ナンシーは一日に20~30本のショートピースを吸う愛煙家であった1990年代半ば以降のナンシーは、少し歩くだけでも苦しくなり、立ち止まって息を整えなければならなかった
妹の真里氏のよるとお姉ちゃん(ナンシー関)が定期検診を受けた記憶はないという
通夜と告別式は、ナンシーの実家からほど近い常光寺で営まれた。
通夜と告別式には、黒柳徹子やビートたけし、坂本龍一や宮部みゆき、林真理子や山田美保子など数えきれないほどの著名人から弔花が並び
「青森市内の花屋から花が無くなった」といわれるほど、盛大な式が執り行われた。
ナンシーの遺骨はその後、青森市内から電車で20分ほど北東に行った所にある
関家の菩提寺である浅虫温泉の夢宅寺(むたくじ)のお墓に納められた。
ナンシーは今でも、そこに眠っている。
ナンシーさんはぺちゃくちゃおしゃべりをするようなタイプでは人ではなかったですね。
はじめっから女子的な人じゃないんだろうなって
思っていましたけれど、その通りでした。かといってぶっきらぼうでもなく���ャイな人という印象でした(宮部みゆき)
照れ屋で、出しゃばらない、威張らない。
実際に会って話すときは、いたって控えめな人でした(桒田義秀)
ナンシーさんは、簡単な言葉を使って、他の人が
なかなか言語化できないことをさらりと表現できる能力を持った人(宮部みゆき)
テレビや芸能界のことだけを評論しているんじゃなく、社会を映す鏡としてのテレビを評論していたんだと思うんですよ。
その掘り下げ方が深かった。
だから、テレビ評論なのに普遍性があっていつまでも古びることがないんだと思います。(宮部みゆき)
ナンシーが毛嫌いしたのは、芸能界の人間関係の中を泳ぎ回ることで何の芸も提供せず、テレビに生息し続けるタレント
心に一人のナンシーを(大月隆寛)
→みんなどこかでナンシーが見てると思えば、自分で自分にツッコミ入れて、不用意に何かを信じ込んだり、勝手な思い入れだけで突っ走ったりしなくなるんじゃないか
宮部が常に胸に刻んでいるナンシーの言葉があるという
→「それでいいのか、後悔はしないのか」
こんなもんでよかんべイズムに陥らないようにする為のおまじないのようなものです。
司馬遼太郎さんが亡くなった時(1996年)社会の広い層の方々が動揺しましたよね。
司馬さんの日本人観が、もう更新されなくなる。
新しい著作が読めなくなるという動揺だったと思うんです。
私としてはナンシーさんが亡くなった時、それと同じような動揺を感じました。(宮部みゆき)
ナンシーさんの書くテレビ評論は、番組作りの羅針盤のようなもので、ボクがテレビ番組を作るとき、半分は視聴者を意識して、残りの半分はナンシーさんがどう見てくれるのかということを意識していました。(土屋敏男)
ナンシーさんが書いたものに関して見当違いな批判はまったくなかったしむかついたなんてことは一度もなかった。(土屋敏男)
現場で番組を作っているボクたちでさえ、もやもやと思っていることを明確に言語化してくれるのがナンシーさんだった。
ナンシーさんの文章を読んで、そういうことなんだよな、と思うことが何度もありました。(土屋敏男)
小田嶋は、ナンシーが社会批評や文明批評といった大きな事は言わない。
芸能人について自分が気づいた小さなことから入って、そこから話を敷衍(ふえん)していく。
それでちゃんと質の高いコラムとして成立させることはとても難しいことなんです。
小田嶋は、ナンシーはテレビのアウトサイダーであり続けることで一視聴者の視点を維持しようとしてきた、と語る。
ナンシーは高い知性と観察眼がありながら、絶対に視聴者と同じ目線の高さからテレビを見て評論し続けました。
ナンシーが亡くなったということは、多くの視聴者にとって、テレビを見るもう一つの冷静な視点を失うことを意味した、と小田嶋は言う。
それまでは、荒野に獣道しかなかったところを、ナンシーがなたをふるってテレビ評論という道を切り開いてきた。
そういう意味で、ナンシーはテレビ評論のパイオニアであり、後から続く人は、ずい���んと通りやすくなった。
ナンシーが切り開いた道を行っていいんだ、迷うことはないんだ、という感じですね。
実際、何人かの才能ある人たちが、テレビ評論の
分野で活躍をはじめています。ナンシーの大きな功績は2つあって一つはポスト・ナンシーというジャンルを作ったことで、もう一つはテレビに関するコラムにおいて、どこまで毒を吐くことが許されるのかを明示した点にあります。(イラストレーター 山藤章二)
ナンシーの初期の仕事に関わった人や読んだ人の多くが「ナンシーははじめから完成品だった」(押切伸一)や「出てきたときから真打だった」(みうらじゅん)としてその完成度の高さを讃える。
そのナンシーのおもしろさや独自の視点はどこから生まれてきたのか。
ナンシー自身は「ビートたけしのオールナイトニッポン」に影響を受けた、と繰り返し語っている。
ナンシーは後に、(消しゴム版画)外国人を掘るのが苦手であることを公言している。
関直美は1962年7月7日、青森市内で、父・英市と母・節の間に長女として生まれる。
二歳下の妹・真里と、七歳年下の弟。・朋芳の
3人きょうだいだ。
実家は、青森駅から東に自転車で10分ほど行ったところにある。
青森中央郵便局と奥州街道を挟んだ対面の位置に「関ガラス店」という看板を掲げている。
ナンシーは幼稚園に通う前から絵本が読めた、と両親は言う。
高校を受験するとき、ナンシーは第一志望だった県下トップの青森高校から一つ落として、青森東高校を受験する。
しかしその受験で失敗した。
お姉ちゃんは、大丈夫という第一志望から1つ落として、絶対大丈夫というところを受けて落ちてしまったんです。
それで二次募集で、私立の女子校に受かって行くことになりました。
でも、そのころ、お姉ちゃんが泣いたり、落ち込んだりしたという記憶がまったくないんです。(妹・真里)
ナンシーが合格したのはカトリック系ミッション・スクールである青森明の星高校で、生家から自転車で東に約15分行ったところにある。
ナンシーがサブカルチャー系の雑誌や音楽に大きく傾倒していくのはこの高校時代からであり、後に活躍するナンシー関の輪郭がはっきりと表れれてくる時期といえる。
クラスメイトはみんな第一志望の公立の高校を落ちてがっかりして明の星高校に来ていたんで、クラスはお葬式みたいな暗い感じでした。
それをパッと明るくするように、みんなに面白いあだ名をつけはじめたのが関でした。
ナンシー自身が公立高校を落ちたことについては、「親に悪い」って言ってましたね。「がっかりしている親がかわいそうだ」って、ぽつりと言ったことがあります(対馬美佐子・高校の親友)
教習所に通う時間がなかったナンシーは東京カー・チューターという肩書の佐々木亮三(72)から個人レッスンを受け始める。
1998年4月のことだった。
ナンシーははじめ週二回のペースで教習を受けていたが、すぐに週1回に減り、1999年には月1回にまでペースが落ちたが、それでも教習を受け続けた。
ナンシーは運転免許を取ることに非常に慎重だった、と佐々木は言う。
ナンシーは2000年10月に1回で仮免許に合格する。
そして2001年4月、3回目の試験に合格してようやく免許を手に入れる。
佐々木はこれまで1000人以上に教えているが、3年かけて免許を取ったのはナンシーが最初で最後だという。
教習時間は合計で300時間に上った。
宮部みゆきが名言とした「心に一人のナンシーを」という言葉について尋ねると、大月はこう説明する。
自分で自分に突っ込む姿勢を持っていようよ、っていうことですよ。
自己を相対化できていないと、変な宗教なんかに熱中してしまうことにもなる。
恋愛でも、青春でも、楽しかったり、一生懸命になったりしたときこそ、どっかで自分に突っ込みを入れてないと、周りから見て痛いことになっているときがあるから。
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コラムをいくつか目にすることがあって気になってたところに亡くなって、そのままになっていた。が増田さんのamazon潜入取材をきっかけに、ナンシー関にたどり着いた。もう20年前なのね。なのに収められているナンシーのコラムの、的確な表現。指摘。色褪せないのがびっくり。鋭い指摘は歳を取らない。死ぬ前にナンシー関を読んでおかねば 90