紙の本
もう二度と
2021/12/26 16:49
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投稿者:ひでくん - この投稿者のレビュー一覧を見る
井田真木子は特別な作家だった。
対象との向き合い方は凄まじいほど切実だった。
それは遺作となった「かくしてバンドは鳴りやまず」で、更に新しい境地に向かっていたが、燃え尽きるようにいなくなってしまった。
井田さんと同じような作家は現れない気がする。
亡くなってもう15年。
この本を発刊した出版社に心からお礼申し上げます。
どうか、たくさんの人に読まれますように。
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「ひとり出版社」里山社が発刊されました「井田真木子著作選集」ですが、90年代を彗星のごとく登場し、21世紀幕開けの年に強い光輝を放ちながら燃え尽きるかのように44歳の若さで夭折した一人のノンフィクションライターの強烈な足跡を理解できる作品集となっています。
日本語の歴史の中で最初に「心が折れる」という表現を神取忍から引き出したことでも有名な、大宅壮一ノンフィクション賞受賞の出世作『プロレス少女伝説』から、HIV疾患と同性愛差別を正面から受け止めた『同性愛者たち』また「海外ノンフィクション作品をノンフィクションした」企てが惜しむらく中途で絶筆となった『かくてバンドは鳴りやまず』など長編ノンフィクションの他、過去未収録の短編ノンフィクション、また一級の小エッセイ、「詩人」時代の貴重な詩篇を収めた「井田真木子」という作家の「異能」がこの一冊で明瞭に分かる構成になっています。
またこの本の出版記念イベントにて某編集者が「暇つぶしで読むと後悔する」旨を話されていて、今まさに読了できた私もまさに同感するところで「ノンフィクション」とはかくも読み手の横っ面を引っ叩きにかかるものであったかと。
著者は問います。
「もし、これから先、誰と会うことも禁じられ、外界からも遮断されて生きなければならないとき、その『本』はあなたや私に切実であること、言い換えればリアリティをもたらしてくれるだろうか。」と。
ああ僕はそんな『本』に出会いたいがために日々本を読んでいたようなものであったことを悟り、叩かれた頬を摩りながらこの『著作選集』と出会えたことは幸いだったと思えた次第です。
個人的にはノンフィクション作品もさることながら肩の力を抜いて短いエッセイは一級品だと思います。柔らかに綴られながら著者持つ明晰さと苛烈なる放言が自己へ向かうのは、「詩」から出発しながら「フィクションではないもの」に言葉を差し向けた「詩人」の痛切な覚悟が滲みます。
「井田真木子著作選集」第二弾も期待したいところです。
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「心が折る」は神取忍が言った言葉だとは知っていたが、井田さんが引き出した言葉だったとは初めて知りました。御在命の時に井田さんの事を知りたかったです。
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(その1:プロレス少女伝説)
図書館の新着棚で見かけてから、予約本をやりくりして、借りてきて読む。2段組で字が小さくて、600ページ近くあるので、ちょっとずつちょっとずつ読んだ(「プロレス少女伝説」と「同性愛者たち」、「かくしてバンドは鳴りやまず」と単行本として出たものがまるまる入っているほかに、未収録の短編やエッセイが収められているのだから、結構なボリュームである)。
井田真木子さんの作は『同性愛者たち』を読んだことがあり、若く して亡くなったことが記憶にあった。読んでみると、なんと44歳で亡くなっていて、今の私よりも若い。
■「プロレス少女伝説」
著作撰集のいちばん最初に収録されているのが「プロレス少女伝説」。これは一度読んでみたいと思っていた。読みはじめたら、すごーくおもしろい。
春に読んだ、柳澤健の『1985年のクラッシュ・ギャルズ』の文庫は、本屋で「あとがき」をちらっと見たら井田真木子さんの名前が出てきて、それで買ったのだった。プロレスをろくに知らない私にはへぇぇーと思うところの多い柳澤本だったが、それともまた違う、井田さんの描く女子プロレス。
「興行ものとしては、女子プロレスは女相撲と同じ性質の商品だね」(p.45)と、かつて女相撲を率いていた興行師が語っている。1960年代、女子プロレスが試行錯誤していた頃に、東北地方で入れかわりのように終息していったのが女相撲だ。
この女相撲についての話がしばらく書いてあるところは、小沢昭一が書きとめている日本の放浪芸や商いの芸を思いおこした。たしか女相撲のこともどれかの本に書いてあったな…と探すと、小沢の『私のための芸能野史』だった。ここには、かつて女相撲の力士だった梅の花さんが話すうちに顔を輝かせた話が出てくる。
井田さんが書いている"はる"という力士の話は、平安寿子の『グッドラックららばい』に出てくる母の家出のようだった。
▼…新聞資料によれば、当時、22歳だった彼女には、もともと新潟県中蒲原郡村松町に住む亭主と二人の子供がいた。あるとき、その町に女相撲がやってきて、はるは見物に行く。そして、あまりの面白さに、家庭も亭主も子供もすべてを捨て、興行団にまぎれこみ遁走するのだ。(p.50)
井田さんが話を聞いた元興行師の平井氏は、自分の母もそんな人だったと語っている。
▼「私の母も、もともとは、家を逃げ出して興行についてきたんだそうですよ。母は、白鷹村の孫右衛門という大きな百姓の末娘だったんだが、村に相撲興行がやってきたら、矢も盾もたまらず家を逃げ出してしまったんですと。家の者が、何度も連れ戻しにきたんだが、そのたびに、便所の窓から逃げ出してしまってさ。女相撲がスキでスキでたまらなかったんでしょうよ。しまいには、家の者も諦めて母の好きなようにやらせたわけよ。
でもさ。母に限らず、女相撲の太夫というのは、だいたいが、そうやって自発的に太夫になりたくてなった女の人でしたよ。女子プロレスも、そういうところは、同じでしょう? ええ、女相撲も女子プロレスも、女の人にとっては逃げてでもなりたいものだったのではないかねえ」(p.51)
かつて平井氏が率いた女相撲が相撲と舞踊や歌などの演芸との2本立てだったように、女子プロレスのショーも演芸で観客の興奮を盛りあげて、試合にうつる。こうしたエキシビションはアメリカの女子プロレスにも、アメリカのプロレスを直輸入した日本の男子プロレスにも見られない、日本の女子プロレスの独自のスタイルだという。
その「日本の女子プロレス」を、井田さんは、中国未帰還者の娘である天田麗文、虐待サバイバーのデブラ・ミシェリー(後に「メデューサ」)、柔道のタテ社会から逸脱した神取しのぶという3人のプロレスラーから描いていく。
天田麗文(元の名はスン・リーウエン)は私と同い年だった。小学生時代に日本に移住した彼女は、言葉も分からないなか、テレビにうつった長与千種に魅せられてプロレスラーをめざした。
▼この国にやってきたとき、わたしが生きていく国は、この国なのだと思いましたよ。でも、言葉が通じないでしょう。どうやって生きていくのか、わからなかったよ。だから、心の中でこの国で生きていけないかもしれない、と思いました。でも、女子プロレスを見ましたでしょう。これなら、わたしも生きていけるかもしれないね。言葉がうまくなくても、体を動かして仕事をすることができるでしょう。(p.20)
デブラ・ミシェリーは、自分の人生をこう語る。
▼たしかに、私によい両親がいて、彼らがいつも人生の進むべき方向を過たずに示してくれたら、事態は、もっと簡単に進んだのでしょう。人生とは夢見るだけの価値があるものだと知っていたなら、きっと私の人生はずいぶん違っていたと思う。だけど、そういうものが欠けた人生が、私の人生なのよ。そして、私はどんな人生だろうと、それを切り抜けていかなくちゃいけないわ。そうよね。」(p.26)
そして、何より印象に残るのは、神取しのぶの語り。彼女が柔道について、プロレスについて語る内容に惹きつけられる。
▼「東海大学と国際武道大学が推薦入学を勧めにきたわけよ。それを、頭から、嫌だよって蹴っちまったの。クラブなんてよう、大嫌いだもん。スポーツしか頭にない奴って、昔から嫌いなんだもん。そしたらさ、今度は実業団に行くかって言うの。それも、嫌だよって言ったわけ。仕事おわったあとに同じ仕事仲間の顔見ながら練習するなんて、まっぴらだったもん。
柔道連盟はさ、そりゃ、このやろうって思ったでしょ。でも、嫌われても、自分が好きなようにやりたかったんだよ。大学入っても、実業団入っても、拘束されるわけじゃん。私は、気楽なほうがよかったんだよね。その頃に、こっちだって、柔道の世界ってのが、どういうものか、ちょっとはわかっていたわけだし。…(略)…
クズはクズなりに、柔道は、好きなわけよ。だけど、それと柔道の世界にまきこまれるってのは別じゃん。わかります?
同時に、これは大変なことになっちゃったと思ったのよ。こんなクズみたいな人間に、柔道連盟のえらい人ってのが、仲間に入れてやるからって誘ったんでしょ。それを蹴とばしちゃったわけじゃん。…」(pp.29-30)
▼「クズはクズのままで大きくなれるってことをよぅ、強いて言えば、証明したかったのかもしんない。…(略)…
あのさ、スポーツやってよぅ、やたらに健全でいい人間になっちゃう人がいてもいいの。もともと真面目な人がよぅ、国を背負って試合しちゃうのもわかるの。だけど、世の中には、私みたいに、クズのままでスポーツをやってる奴がいて、そういう奴だってプライドを持ってることも、やっぱり自分の生き方で証明したかったのよ。(略)…
柔道をやらなくなったら、やっぱ、駄目んなっちゃった、なんて言われたくなかった。だって、私の人格は、私が作ったもので、スポーツが作ったものじゃないもん。…(略)…
プロレスは、そういう気分にふさわしかったのかもしれませんよ」(p.85)
柔道の世界にとりこまれるのは嫌だと蹴っとばした神取は、「プロレスってのはさ、いろんな状況を、その人がどう選択していくかってところに面白さがあるわけじゃん。…(略)…何を選んで、どうやって使うかってことで、結局、その人のプロレスができあがってくるんでしょう。」(p.92)とか、「女子プロレスっていうのは、選手の感情と観客の感情が一体になったときには、ものすごく面白いものになるよね。男子プロレスは理屈っぽいから、どんな人にもわかるじゃん。でも、女子プロレスは、同じ感情を持てる人にはわかるけど、そうじゃない人には、いまひとつ、理解できない部分が多いじゃん。…(略)…だから、やる方にとっても、見る方にとっても、けっこう複雑で難しくて…だからこそ、やっぱ、やりがいがあるっての?」(p.93)などと、女子プロレスの面白さを語っている。
女子プロレスは、彼女たちにとって、ある意味「自由の象徴」だった。井田さんは「女子プロレスを合理的に説明するのは難しい」(p.179)とも書いている。そのきれいに分かりやすくは語れないという女子プロレスを、3人の半生をなぞりつつ描いたところに、井田さんのセンスを感じた。なんどか読み返したくなるだろうから、この本は買おうかと思った。
(その2へ続く)
(11/8了)
この著作撰集をつくるのに、どういう風にテキストをつくったのかが分からないが、誤字と思われる箇所
※p.65上段 午丼の『吉野家』 → 【牛】丼
※p.115下段 ファイトマネ I (長音記号が縦書きで「I」になっている) → ファイトマネ【ー】
※p.275上段 およそそれらしいただすまいではない → た【たず】まい
※p.452上段 下手をすむと → 下手をす【る】と
※p.563下段 カトプレパス─ギリシャ語で「うつくむく者」の意の名前を持ち → 「うつむく者」
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”女子プロレス”、”男性の同性愛者”、”希代のノンフィクション作家(トルーマン・カポーティ等)”。
これら3つは、全て女性ノンフィクション作家である井田 真木子が長編作品で扱ったテーマである。44歳という若さでまさに夭折した彼女の作品は長らく絶版になっていたというが、その長編や短編をまとめて2014年に出版されたのが本書である。
”女子プロレス”を題材とした「プロレス少女伝説」には、日本の女子プロレス黄金期を築いたクラッシュ・ギャルズの長与千種と、神取忍などへの密着取材に基づく生々しいボイスが収められている。80年代の女子プロレスブームというのはそのブームの絶頂に生まれ、事後でしかブームを知らない私にとって一つの謎であった故に、本書での女子プロレスラーたちの闘いの様子は、とても心に刺さるものであった。ここまで生々しいボイスを収めることができたのも、前述の女子プロレスラーたちから信頼された著者の関係性作りによるものであることが良く理解できる。
続く”同性愛者たち”は、1980~90年代の男性同性愛者のグループを舞台に、彼らが起こした同性愛者差別の行政訴訟や、サンフランシスコでのゲイ・パレードに参戦し、海外の団体と結ばれた交流、そしてHIVの問題などを描き出している。ここでも圧倒されるのは、著者が同性愛者たちのグループから引き出した生々しいボイスである。
対象が何であれ、徹底的に対象と生身の人間としての関係性を築いたからこそ得られるボイス。そうしたボイスは時代を経ても古びずに、読者の心を打つ。