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筆者は幸福とはなにかとはいっていないし、どうやったら幸福になれるともいっていない。
「幸福になる道は理不尽なものだ。自分自身で泥だらけになって探るほかはない。誰にも任せられず、誰もその方法を見つけて教えてくれはしない。その覚悟を持たず、身の回りの不幸を、政府や社会や他者のせいにして、怒り嘆いている限り、逆に幸福には到達できない」と冒頭にある。
筆者の説く、幸福論とは、題のごとく、辛口のものであって、他人に妥協を許さないと感じるのであり、むしろ、いかがわしきものとも、感じるのである。
気になったことは、次です。
・私は人とつきあうことに、極度にものぐさであった。
・組織的な職場においては、地位が上がるほど、人間関係は複雑に、重いものになっていく。私のように楽なことの好きな女は、男たちが、なぜ管理者になりたがるのか、憶測はついても本当に理解していない。
・変わらなくても、そんなものかなあ、とも思う。自分のことを考えれば、自分の悪癖を矯め直すなどということは言葉の上ではできても、なかなか曲がった根性までは治らないのと同じで、人の心を変えるというのは不可能な場合が多いからだ。
・結婚した相手が、作家として眼を開くには、がむしゃらに向上や前進を意図するより、立ち止まってじっとあたりをよく見ることの方が大切だと思う。といわれたのである。ともかく、一つの生き方として私はそれを自分の中に取り入れることにしたのである。
・才覚というものは、どちらかというと日常性の中にではなく、変動、非常時に必要なのでしょう。
・都会がいかにすばらしいものは、その理由は第一に都会には実にたくさんの人がいるから、少しくらい得意なことがあっても思い上がる隙がないからである、第二に、都会ではどんない暮らしをしようと他人がそれに口出しをしないという点である。
・優しい善人を否定することは容易ではない。人間が悪くて能のない人はさっさと追っ払える。しかし、善意に満ちていて能のない人は、誰もが追い出すことはしにくいのである。
・日本人にとって人を疑うということはよくない行為だとされているが、日本人以外の人にとって、知らない人を疑うということは当然の反応であり、行為である。それをしない人はつまりバカだということだ。
・適当な、適度な人間関係などというものは、通常望みえないものである。人間関係とは深入りしすぎるか、冷淡かのどちらかになる。
・考えてみると、世の中の重大なことは、総て一人でしなければならないのである。
・どこと言って欠陥もない一人前の男性が結婚しない場合、そこには母親の影が濃厚に残っていると見えるケースは現実にかなり多いものです。私はつとめて息子への待遇を普段から悪くし、息子のところへは、どのようなおヨメさんが来てくださっても、「ああ、あのオフクロよりはましだ。」と思えるようにしているつもりなのですが...
・教育を受けて教養のある人間になるのは、自分で自分の生き方を基本から選ぶためだ。
・悪銭は身につかないというが、自分でこつこつ勝ち取ったものでない限り、ほとんどすべて��幸運と金銭は身につかない。それどころか、堕落、病気、裏切り、退廃、不和などの種になることが多い。
・今の日本では、「人権」と「平等」し論じられない。しかし、「人権」は要求するものだし、「愛」は自己規制であり、自発的に与えようとするものであって、くれと要求して与えられるものではない。
・仕事の組織というものは、民主主義とは関係ないのだ。民主主義が適用されて当然なのは、「雑多な目的を持つ不特定多数が集まった集合の場合」だけで、職場、家庭、スポーツのクラブ、研究の組織などには、それぞれの理由で民主主義はほとんど適用されない。
・女に惚れられると、どんな恐ろしい目にあうかしれない。泣きだされたり、つきまとわれたり、上司に私生活の部分を訴えられた利、ついには、結婚させられたりする。それどころか、まずく行くと殺されることだってあるのである。
・人間は老年になったら、いかに自分のことは自分でできるか、ということに情熱を燃やさなければならない、と私は思う。
目次は次の通りです。
まえがき
Part1 「ヘソ曲がり」でごめんなさい
Part2 「常識の嘘」に気づく効用
Part3 「へそ曲がり」からの日本人への直言
Part4 このいかがわしき「良識」と「平等」
Part5 実におもしろかった、と言って死にたい