紙の本
クーデターに揺れる祖国を外から見ると、こうも見えるか。
2014/09/23 21:52
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投稿者:abraxas - この投稿者のレビュー一覧を見る
金箔の輸出で財を成したベントゥーラ一族は、首都を離れた別荘で避暑をするのが習いだった。別荘の周りはグラミネアと呼ばれる植物で一面が覆われていた。敷地内で過ごすほかない休暇に飽きていた大人たちは、子どもたちだけを屋敷内に残し、自分たちは馬車を連ねハイキングに出かける。
屋敷に残された従兄弟たちは、大人たちの留守中したい放題に過ごすが、ウェンセスラオだけは、大人たちは人喰い人種が襲ってくるので僕らを見捨てて逃げ出したのだと言い張る。時と共に屋敷内に不安が募る。ウェンセスラオの父アドリアノは、一族とは無縁の医師で、結婚を機に参入した新参者。一族の繁栄は原住民の弾圧と搾取によるものと知り改革を唱えるが、不興を買い、狂人として塔に幽閉されていた。ハイキングはアドリアノ奪還を企図したウェンセスラオの計略だったのだ。
鉱山資源を外国に売ることで莫大な利益を独占する権力を、医師が原住民を組織し戦いに打って出るも、外国の支援を受けた元支配者とその手先の反撃を受けるといった図式は、時代と作家の出身地を考えればピノチェト将軍がアジェンデ政権を倒したクーデターを想像させ、これを寓話と見る批評もあるが、作家の眼は意外に冷めている。
まず、舞台となる土地を覆いつくすグラミネアが寓話だ。外国人の言うままに種を撒くと在来の樹木や草を飲み込み、季節になると風に乗った綿毛が空を覆いつくし、顔に纏いつくので息をすることもできない住民は土地を去り一帯は役にも立たぬ草原と化したというのだが…。
次に、ピクニックの帰路別荘を逃れた子どもと出会い、変事を知った大人たちは子どもたちの監督を執事任せにし、そのまま首都に引き返す。寓話といわれる所以だが、子どもたちが屋敷で遭遇した暴動騒ぎの一年が、大人たちが水辺の楽園で過ごした一日に当たるという時間の持つ相対性が皮肉すぎる。クーデター騒ぎを外から見ていた者の見方か。
作家自ら小説のなかに登場し、登場人物のモデルと話すなど、ポスト・モダン的手法を駆使した叙述は、閉ざされた時空ならではの倒錯を生じ、少年少女の淫らな遊戯や、果ては人肉嗜食にまで及ぶが、登場人物は「言葉の作り出す世界のみに存在可能な象徴的存在」として受け入れてほしいといった所感を作中に登場する作家に言わせるなど、あくまでも用意周到。酸鼻、叫喚、悪意ある哄笑を厭わぬ向きには推奨できる逸品といえる。
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「夜のみだらな鳥」よりは読みやすい。
首都から3ヶ月の夏季休暇でマルランダの別荘に訪れるベントゥーラ一族。
金箔を加工する原住民と遣り取りすることで莫大な富を得ている。
ある日大人たちが召使たちを引き連れてハイキングへ。
残された子供たちは別荘を取り囲むグラミネアや人食い人種を恐れながらも、茶番劇「侯爵夫人は五時に出発した」に熱中したり、別荘を囲む柵を抜いて槍としたり。
一日なのに一年。
時間が伸び縮みする。
フリークスならぬ様々な「詭計」に満ち満ちた大人子供。
後半では戻ってきた大人、執事、召使フアン・ペレスや原住民や外国人や入り乱れて詭計、詭計。
結局はグラミネアの綿毛に埋もれていくすべて。
凄まじい長編小説だった。
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ラテンアメリカ文学ブームを牽引した立役者の1人、ホセ・ドノソの長篇小説。
ドノソと言えばやはり『夜のみだらな鳥』が圧倒的に有名だが、『別荘』はそれと並ぶほど評価の高い作品らしい。
難解と言われることが多い『夜のみだらな鳥』とは異なり、ストレートに物語の楽しみを味わえる。
巻末の『訳者あとがき』によると、1973年に発生したチリのクーデターが着想のきっかけになっているようだ。『対立』『相克』といったキーワードが思い浮かぶのはそのせいか。
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鉱山から採掘される金を叩いて金箔に加工したものを輸出することで莫大な財を成したベントゥーラ一族は毎夏使用人を引き連れ、マルランダと呼ばれる原野に築かれた別荘で避暑するのが習慣になっていた。別荘の周りは金の穂先をつけた槍で囲われ、その先はグラミネアと呼ばれるプラチナ色の穂を出す繁殖性の高い植物で一面が埋まっていた。屋敷と敷地内で過ごすほかない休暇に窒息し始めていた大人たちは、三十三人の子どもたちだけを屋敷内に留め置いて、自分たちは料理人や下働きの者を乗せた馬車を連ね、ハイキングに出かけることを思いつく。
17歳になるフベナルを筆頭に、屋敷に残された従兄弟たちは、その日の夕刻には帰ると言って出かけた大人たちのいぬ間に、好き勝手、したい放題に過ごすのだったが、ウェンセスラオだけは、大人たちは帰ってこない。人喰い人種が襲ってくるので僕らを見捨てて逃げ出したのだと言い張る。原住民に人肉嗜食の習慣があったことは子どもたちも聞かされて知っている。時と共に屋敷内に募る不安のなかで、子どもたちはそれぞれの思惑に耽り、屋敷内には不穏な空気が満ちてゆく。
ウェンセスラオの父アドリアノ・ゴマラは、ベントウーラ一族とは無縁の医師で、母バルビナとの結婚を契機に一族に参入した新参者だった。一族の栄耀栄華は、原住民を弾圧し、搾取した結果によるものと知ったアドリアノは、治療に携わるうち、原住民よりの考えを抱くようになる。その意見は一族の不興を買い、アドリアノは狂人として狭窄衣を着せられ塔に幽閉されていた。ハイキングは大人たちの留守を狙いアドリアノの奪還を策したウェンセスラオの計略によるものだったのだ。
しかし、大人の留守を狙っていたのは、ウェンセスラオだけではなかった。帳簿付けを任されていたカシルダもまた、これを機会に金箔の塊を馬車に積んで持ち逃げを考え、異父妹であることで従兄弟の中で一人遺産相続権を奪われていたマルビナも一族への復讐を企んでいた。外ではアドリアノを仰いで蜂起するためにグラミネアに紛れて攻め寄せる原住民の集団、内では陰謀や復讐の企み。何も知らず、それまでの遊び「侯爵夫人は五時に家を出た」に耽る上の階の子どもたちは大人を真似て怠惰に倦み疲れ、背徳的にもペデラスティの悪癖に耽溺し、衣装倒錯や近親相姦の誘惑に身を捩じらせているばかりだった。うわべの華やかさの陰で、ベントゥーラ一族の腐敗と崩壊は後一押しのところまできていたのだ。
鉱山から採れる金属資源を外国に売ることで莫大な利益を独占し、住民を虐げる権力を医師上がりの部外者が原住民を組織し戦いに打って出るも、外国からの支援を受けた元支配者と、その手先の反撃を受け、窮地に陥るといった図式は、作品が書かれた時代と、作家がチリ出身であることを考えれば、ピノチェト将軍がアジェンデ政権を倒した、9.11のクーデターを思い浮かべない者はいない。この小説を寓話として見る意見が多いのも無理はない。ただ、よく言われるとおり、寓話ほどつまらない形式はない。この小説、たしかに露骨なほど寓意を含んではいるが、この面白さに寓話などという解説は不要だ。
まず、舞台とな��マルランダを覆いつくすグラミネアという植物だが、外国人にだまされて種を撒いたのがまちがいのもと、生い茂る在来の樹木や草を飲み込み、見渡す限りの役にも立たぬ草原にしてしまい、もとの住民を山並みの向こうに追いやってしまう。何故かといえば、夏も終り、穂先から綿毛が飛ぶ季節になると折からの風に乗った綿毛は空を覆いつくし、顔はおろか体中に纏いつき人は息をすることもできないからだ。ラテン・アメリカ文学ならではの驚異的現実というやつだが、これだけではない。
子どもたちが、原住民の蜂起に遭い、屋敷が混沌とした状況に陥る間、大人たちはピクニックを堪能しての帰路、近くの礼拝堂で休憩を取るが、なんとそこには襤褸をまとったカシルダとファビオの姿が。屋敷に起きた変事を知り、直ちに執事を中心に使用人たちで編成した部隊を屋敷に向かわせる大人たちだが、グラミネアの綿毛の脅威を恐れ、子どもたちの監督、処罰を執事に任せ、そのまま首都に引き返す。寓話といわれる所以だが、子どもたちが屋敷で遭遇した暴動騒ぎの一年が、大人たちが水辺の楽園で過ごした一日に当たるという、まるでアインシュタインの特殊相対性理論のような時間の流れ方の遅れが凄い。これぞ、マジック・リアリズム。
作家自ら小説のなかに登場し、ベントゥーラ一族のモデルとなった一人に、書いたばかりの原稿を読み聞かせ、実際とちがうと言わせるなど、ポスト・モダン小説のはしりを感じさせ、さらに、メタ小説として、モデルとやりあう際の文体は卑俗なリアリズム調を、物語然とした別荘での出来事を叙述する際は時代がかったロマンティシズム溢れる華麗な文体を使用するなど、どこまでも意識的な小説作法を駆使した克明にして詳細な叙述は、道徳も倫理もかなぐり捨てたように、淫蕩にして放埓三昧に耽る年端もいかぬ少年少女の穢れきった遊び、飢えかつえた逃亡の果ての人肉嗜食にまで及ぶが、読者には登場人物を現実存在ではなく「言葉の作り出す世界のみに存在可能な象徴的存在」として受け入れてもらいたいといった所感を予め作中に登場する作家に言わせるなど、どこまで行っても食えない作家である。それでいて『シテール島への船出』を思わせるピクニック風景の臈長けた美しさなどは、他のラテン・アメリカ作家では味わえない官能美を湛える。酸鼻、叫喚、悪意ある哄笑を厭わぬ向きには推奨できる逸品といえる。
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別荘 in マルランダ
そのまわりを囲む・グラミネア(槍+植物)
遊戯:「侯爵夫人は午後5時に出発した」
(元ネタ:ブルトン/ヴァレリー)想像力への自由
・ベントゥーラ一族(兄弟姉妹)とその配偶者
・その子どもたち(いとこ同士)35-2=33人
・使用人
・金を献上してくる原住民≒人食い人種
作家はチリ出身だからこの物語の舞台はいちおう南米であるのだろうなあと想定したが、草上の昼食の模倣(マネですな)かゼウスのふりそそぐ金の雨(クリムトのダナエですわ)というような表現があって、外国人にコケにされる南米の田舎成金がずいぶんヨーロッパの文化にかぶれたもんだというのも、いまいち説得力をもたず鼻白む。(あまり面白く読めなかった)
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手に取ったときには「読みでがある~!」と思ったのに、読み始めたらあっという間だった。あー。面白かった。理屈抜きで純粋に面白かった^^/
何せ登場人物が多いので、短期集中で。。。をおすすめします。
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33人のいとこ達が次々と入れ替わり立ち代わる一部は大変だが、物語が強引なまでに加速していく二部は圧巻だった。別荘の所有者であるブルジョア階級とその使用人たち、そして彼らと取引を行う原住民と外国人。それらの関係性が異変によって崩れ去り、緊張感を孕みながらもその物語を推進していくのは歓喜と欲望と捻れを抱えた子供たちであり、作者自身でもある。政治的批判こそ根底にあるのだが、想像力の飛翔ぶりがその意図以上の場所へ物語を連れて行き、その面白さは次々と誘爆してくかの様に拡大する。夜みだ同様、とんでもない本であった。
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ポストモダン文学における構造の革新性や時間軸の複雑性は、作品を語るうえで優劣論に陥りやすい錯誤のひとつで、またシュールレアリスムやら政治的など様々なキーワードを捻出するのは容易ですが、いずれにせよ作者との共犯関係が築けるのかが最大にして最低条件の難点で、本作でも我々がこの長編に感覚のみで対峙できるかどうかが難しくはないんだけど、これがやっぱり最大の難所なのよ。と思わされました。
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あまりよくわからないまま読み進めていって、ちんぷんかんぷんのまま終わってしまいました。それでも、なにやら生々しく鮮烈な印象をいろいろ受けました。怪作、という表現がぴったりかも。(2017年5月28日読了)
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建物が1つもない広大な大地。夕暮れ時。空と地平線。ちらほら薄い茜色には星が見え始めている。なんという美しさだろうとため息をつきながらも、自分はいてもいなくても変わらずに景色は毎日そこにいて、食糧や排便も要求しない尊い存在。こういう景色は最近雑誌の広告かなんかでしか見られなくなり、現代人はスマホしか見ない。綿毛がイナゴの大群のように押し寄せ、人命を危うくする脅威に怯える人達が外を伺う様子が、はるか昔暗いうちから家を出て学校へ行く道程で、ずっと毎日雲を追いかけていた頃を思いだし、それよりも前に書かれた物語。