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SFを読むつもりで手に取ったけど、これはたぶん反戦小説。とっても静かで、なんだか不思議で、すこし怖い。もっともっと、この著者の作品を読んでみたくなった。
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ドレスデン空爆を軸に、シニカルに淡々と語られる過去と未来を行き来する旅が愉しい。それと同時に人の死のたびに繰り返される「そういうものだ」という言葉の裏にある諦念にも圧倒される。戦争体験という語り得ぬものを語ろうとする反戦小説でもあるのかね。
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ポップなフィリップ・K・ディックなような気もする感慨深い作品。
そういうものだと言わざるを得ない苦悩。
広島については、日本人には少ししっくりこない感じが。
逆にドレスデンについて、
日本人がどれだけ知っているのかということだが。
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とにかく上手くてずしりとくる小説は何かと言われれば、
ヴォネガットを読めとしか言いようがない。
『スローターハウス 5』
ようやく読了。
短編は兎も角として、長編小説は上手い小説が必ずしもベストだとは限らない。
長編小説を書くには、作家の思想だったり哲学だったり、ある種の覚悟といったもの否応なく求められるからだ。
その種の揶揄の対象となってきたのが、村上春樹だったり谷崎潤一郎だったり、或いは余裕派とくさされたあの漱石だったりする。
私見は別として。文学史的評価として。
一方で悪文を誹られながらもその思想性において、読者を獲得していった作家にドストエフスキーや大江健三郎がいる。
私見は別として。文学史的評価として。
何が言いたいかと言えば、要するに、余りにも簡単なことだけれど、長編小説はハードルが高いと言うことだ。
有史以来の数千年、星の数ほどの物語が産み落とされて、真に傑作と呼べる作品が幾つ在るだろうか。
長編小説とは即ち人間の精神性そのものであり、問題を孕んでいない作品などは存在し得ない。
逆に言えば、問題を孕んでいるからこそ、魅力があり、それぞれの人間にそれぞれの一冊があるのだと言えるのだろう。
僕の最も好きな作品は、『不思議の国のアリス』と言う永遠の例外を除けば、現時点でヴォネガットの『ローズウォーターさん あなたに神のお恵みを』になる。昨年読んだ。ヴォネガットは読み始めてまもない作家であり、まだ読んでいないヴォネガットの著作がいくつもあることは、惨めな生涯に残された数少ない希望である。
が、一般的に『ローズウォーター・・』はヴォネガットの最高傑作とは言い難い作品であることも間違いないだろう。『ローズウォーター』はあくまで僕の個人的な経験に基づく好みであり、ヴォネガットの最高傑作は『タイタンの妖女』か、この『スローターハウス 5』であると言うのが衆目の一致するところである。僕も異存はない。
『スローターハウス 5』は極めて優れた作品である。
まず、構成とユーモアがめっぽう上手い。極めて優れた短編小説でしか味わえない、飛躍、諧謔、或はトリックとも言える技巧がぽんぽんと飛び出てくる。文章を書くと言う病に取り憑かれた人間にとって、これほど勉強になる作家はいない。
そして、思想が簡潔にして明瞭である。
この物語の思想は次の通りである。
僕らは常に過去を生き続けているし、また常に未来を生き続けている。常に死に続けているし、常に生まれ続けている。人生の最良の時を見続けることが出来れば、幾分安らかに時を過ごせるだろう。
しかしそれが真実だったとして、何が救われるということではない。
(使いたくはないが)
「そういうものだ。」
この言葉にどれほどの説得力と諦めに似���諧謔があるのかは、小説という形でしか表し得ないだろう。
ーーロックンロールは、別に俺たちを苦悩から解放してもくれないし、逃避させてもくれない。ただ、悩んだまま躍らせるんだ。
とピート・タウンゼントは言った。
音楽は染める。
しかし文学は蝕む。
錆が鉄を駄目にするように。
幾ら音楽が有効なトランキライザーとは言え、文学の毒性が必要不可欠な理由はそこにある。
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タイタンの妖女と猫のゆりかごの間
タイトルは屠殺場のこと。ドレスデン無差別空爆の実体験を元にした作品。
もちろんヴォネガットらしく、時空を旅する能力を主人公に持たせて、少しSFチックに話を進める。
人生はすべて定められた運命の中だ。自由意志なんて発想そのものがおかしい。こんなところがテーマかな。
登場人物はきわめて多彩。前作タイタンで登場するラムフォード、トラルファマドール星人、本作の2作後に登場するローズウォーターにいつも出てくるトラウトとそれぞれが本作で重要な役割を演じているところが面白い。
ある意味で、初期のヴォネガット作品のエッセンスがここに詰まっているのかもしれない。ここでシチューのようにアイデアをグツグツ煮こんで後の作品を作ったのではないか。
また、ある意味では宇宙空間を舞台に時空を旅する「タイタンの妖女」を地球上で作り直したのが本作かもしれない。タイタンの妖女では、すべてがトラルファマドール星人の仕組んだものだった。それが運命だった。
本作では戦争の実体験を交えてリライトした作品かも。悲惨な戦争体験はすべて運命だったと信じたかったのではなかったか。もっといえば、ヴォネガットは最初から本作を書きたかった。タイタンの妖女はその下書きに過ぎなかったのかもしれない。
もっとも、それでも私はタイタンの妖女の方が好きだ
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うーん、本の面白さというか、凄みがいまいち分からなかった
完全に汲み取れてないだけだと思うので、再読が必要
映画もあるみたいなので見よう
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作者自身の体験を交えた物語。ビリーはその名の通り、現在過去未来を当て所なく彷徨う放浪者であり、巡礼者だった。
何度も時間を行き来する間、悟りを開いたように繰り返される“そういうものだ。”という言葉が次第に重みを増してくるように思った。
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250p強足らずの文庫本。腹持ちするというかなんというか・・・。しばらく後を引きそうな物語。同作者の「猫のゆりかご」とは、本気度の違いか。これを良しとするか悪しとするかは分かれるところ。(私は猫のゆりかごの方がずっと好きだ)でも書かざるを得なかった本なのだろう。
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SFと簡単にひと括りにする事が出来ない、作者の経験や思想や哲学が存分に詰め込まれた壮大な物語。
ヴォネガットの他の作品を読んだ後に、もう一度読みたい。
大事に読みたい、深く理解したいと思う作品。
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時間旅行をする主人公があらゆる人生を生きている話。SF小説と言うには違和感があるくらいに“時間旅行”はさりげなく行われ、シャッターを切るように唐突に切り替わる人生を自然に受け入れられる。ドレスデン爆撃の被害者である筆者による戦争描写がユーモアと皮肉まじりに描かれていて好みだった。
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けいれん的時間旅行者、空飛ぶ円盤、ドレスデン無差別爆撃、キリスト、トラルファマドール星…戦争とSFが入り混じり、時代を飛び飛びで追い、不思議な登場人物が完璧に描写されている…おもしろい!
この作品の空気感は「そういうものだ」という言葉に集約されると思う。
カート・ヴォネガット・ジュニアの作品はこれが初めてだけど、他のも読みたいと思った。
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本書主人公ビリー・ピルグリムは、「けいれん的時間旅行者」となり
「戦時中の自分」「捕虜としての自分」「結婚生活の自分」「異星人に誘拐されてトラルファマドール星の動物園に収容されたときの自分」など過去・現在・未来を行ったり来たりする。
物語の着地点が見えず、どこに向かっているのかいまいち把握できなくて不安を覚えた。
Wikiによると
「この本が出版された時には、ドレスデン爆撃はまだ広く知られておらず、退役兵や歴史学者によって語られることもほとんどなかった。この本は、爆撃の認知度を高め、大戦中の連合国によって正当化された都市空爆の再評価へとつながった。」とのこと。
社会の不条理を、SFという形でユーモラスかつアイロニカルに表現したという点ですぐれた小説ではあるのだろうが、読者であるわたくしの理解力が不足してか、あまり「おもしろい」という印象はなかった。
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時間の移動がいかにも技巧的、飛び道具的、というかまとまりなく前半は読んでいて不安定であった。
しかしその時間と時間とがじょじょに世界を形成してゆく。
その世界の地面には、決定論について、戦争について、言いたいことはやまほどあるけど言語化すると陳腐になっていまうという著者の葛藤があるし、その世界の川には「そういうものだ」という諦観がある。しかし何らかのメッセージを結実させるために時間の交錯で世界を形成してゆく。見事な小説であった。
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カート・ヴォネガットの半自伝的反戦小説で、戦争の悲惨さがユーモアとSF的展開で描かれている。生々しい表現は使われていないけど、ユーモラスな語り口だからこそ余計にその裏にあるやるせなさとか哀しみが際立っている。
この小説の中では悲惨なことが起こる度に"そういうものだ"という台詞が出てくる。人はあまりに残酷な現実をつきつけられると、なんでこんなことが?とかなんで私が?とかって考えてしまうけれどそこには理由なんてひとつもないということだと思う。過去は勿論現在も未来も変えられない。物事を受け入れる落ち着きというよりもはや諦め。人生の良い時だけを眺めて生きよという言葉は、本当の不条理に遭遇したヴォネガットがそれでも生きるためにたどり着いた境地なのかもしれない。
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「神よ願わくば私に変えることのできない物事を受け入れる落ち着きと、変えることのできる物事を変える勇気と、その違いを常に見分ける知恵とをさずけたまえ」
この言葉が妙に心に残った。過去も未来もすべて俯瞰でき、そして変えることができたとしてもそれに何の意味もないとしたら、われわれが生きる意味などどこにあるのだろう?