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渋谷NHK前あたりで時間を潰す必要があり、Googleマップに「近くの書店」と囁いたところ、いちばん近くにあったのが「SHIBUYA BOOKSELLERS」という書店。セレクトショップのような洒落た店構えのその店は、人文、アートなどに強く、今の僕の気分にぴったりの品揃えだった。(あまりに好みに合いすぎて、既読の本が多かったり、新しい分野との偶然の出会いが望めないほど)
気になっていた一冊を購入して近くのカフェで読む。
異才の建築家(?)坂口恭平の、エッセイとも日記ともつかない、「オレ」の生きる様を吐露したようなテキストであるが、いつものようにぐいぐいと引き込まれる。
文中にも出てくる2012年の青山ワタリウム美術館での個展で、彼を初めて見た。ぶらりとフロアに現れた彼はトークライブを始めた。(プログラムだったのかどうかは知らない)はじめは見知らぬ客にそっと話しかける、画廊での作家のように。しかし次第にその話し方は熱を帯びてきて、やがてはものすごいハイテンションで飛び跳ねるように作品と、自分の生き方を叫んでいた。
それは彼が躁鬱症であることを知る前だったのだが、おそらく「躁」の状態だったのだろう。(文中ではその時期は逆に「鬱」だったとあるが)
本書ではその「躁鬱」に、彼自身がどう向かい合っているかが大きな要素になっている。建築家とも芸術家とも作家とも言い切れない、不思議な存在の彼であるが、その目を離せない感じに、私のような凡人はつい惹かれてしまうのだろう。決して好きではないし、尊敬するわけでもないのだが、気になって仕方が無い。もしこの世の中が閉塞したものならば、突破口を開くのはこうした種類の人間なのかも知れないなぁ、という漠然とした予感がするのである。
彼が創造するものはわかりやすい「美」ではない。むしろ混沌としたカオスをごろんと投げ出して、世の中をすこし不安定にする。ノイズといってもいいかもしれない。だけれども、そこに人間の生命力とか、そういった強さを取り戻すヒントがあるような気がする。
ああ、岡本太郎がよく言っていたようなことに近いのかも知れない。原始の力。プリミティブな強さ。洗練されない、上手くないものの美しさ。そんな種類の人なんだろう、きっと。
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あるブログで薦められていたので、手に取る。
冒頭から引き込まれ、一気に読めた。論というほとカタくなく、むしろ著者独自の体験に根差した提案であり、エッセイ集という感触だった。また、『独立国家のつくりかた』(未読)の著者とは知らなかった。
文章が美麗。修辞が豊か。単なる麗句ではなくて、その表現である必然を感じる。
広義の創造行為が鍵かな、と。
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本の装丁と内容のデザインで装飾している全く中身のない無味無臭の疑似哲学書に感じた。着想が異端のように見せて平凡である。とても残念に感じた。
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躁鬱本なのか?
自分、時間、空間との付き合い方で、現実のとらえ方や、距離の置き方が変わるのは、うなずけるし、共感できるがそれだけだった。。。
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坂口さんの著書は何冊か読んでいるが、最近はメンタル的な内容のものが多くなってきたように思う。かつて説いていた現実的な方法論の背後には大きな「苦悩」があったのだろう。とはいえやはり坂口さんの発想はとてもおもしろく、できれば実践してみたい方法論も多い。それらは単なる思いつきではなく実際のフィールドワークによる裏付けがある。しかし本書はそうした社会的取材に基づいたものよりも「実存的」あるいは「現象学的」な発想が多い。
妄想や幻想をうろうろしながら語っているが、肝腎なところは現実に戻ってくる。こうした書き方が本書を体系性を保ったものとして維持している。同じ日付に発行された尹雄大さんの講談社現代新書「体の知性を取り戻す」が身体面からの「日常感覚」を説いているのに対して本書は精神面からの「日常感覚」を説いているように思う。両書とも現実から離れた不思議な考察をしているが、あちこち浮遊した後には現実世界に戻ってくるのでぶっ飛んでしまう心配はいらない。
坂口さんの思考や対処法は、現に鬱やパニックなどの疾患に悩んでいる人にとっても大いに参考になるもの。こうした文章は方法論であると同時に体験の叙述であり、共感を持つだけで気が楽になるということもある。そうした体験をしているうちに「生きる気力」がわいてくればしめたもの。この世には多彩な人がいる。多くの人の話は今の状況を変えるきっかけになるのではないか。いい意味でも悪い意味でも。
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・狭い居酒屋だったのが、満席になるとより狭く感じるかとおもいきや、大空間に感じる。
といった空間が膨張したり、停滞したりする瞬間のほうが、正確に測った堆積や均等に流れているはずの時間よりも真実味を感じてしまう。
・4歳から98歳までの自分の98個の鍵盤のようにズラリと横一列に並べて歩いている。
55歳の自分が何をしているのかを想像することと、10歳の時の記憶は音色こそ違えど同じ色。
・人間を機会として捉えることは「人間的」には見えないかもしれない。しかし木の枝に擬態するナナフシを思えば、人間が機会に擬態することも「生物的」な行動であることがわかる。(鬱は脳の誤作動、と捉えること)
・ルドルフ・シュタイナー:蜜蜂が飛び回る姿を「思考が飛んでいる」
今までつながるはずのなかった者同士が、蜜蜂によって交配されていく。蜜蜂にはつなげている、という意識が全く無いように、思考も自由に言葉やイメージを組み合わせ、勝手に新しい世界と戯れ始める。
・ぼくにとって「ものがたり」とは、あらすじを持った作り話ではなく、感覚器官という扉の向にしっかりと存在している空間を、現実のもとにおびき寄せる行為のことを指している。
◎現実が集団にとって飲み実態のある空間であると、気づくことだ。個人にとっては仮想空間なのである。今僕達は、この現実を個人にとっても実態のある世界だと思い込んでいる。そして、思いつきや直感といった言葉で表現されるような事柄に関しては、勘違いや妄想といって排除してしまっている。
個人にとっては、自分自身の体の中に形成された自家製の「思考という巣」こそが実態のある空間であり、現実という空間は個人にとって「錯覚」にすぎない。
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現実脱出は現実逃避とは違うと言った上で,自分の空間と思考を第一に持つこと(レビュワーが解釈した大意)と解く。ごく当たり前のような。付言すると,非常に回りくどく読みにくい。小説を読んでいるようで表現力は認めるものの,本人が断っているように論考とは程遠く,タイトル負けしている感が否めない。
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躁うつ病は遺伝的な体質である。
うまく管理することで症状を抑えることは可能だが、完全に治癒することはない。
坂口恭平という困難な事実は、その機械の目的を達成できるのだろうか?
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似たようなことを考えてしまう癖があって、でも他人には到底説明できないと思っていたことが、やさしく書かれていた。しかし、躁うつ病にここまでまともに向き合えるものなんだろうか…飲み込まれてしまう人との違いはどこにあるんだろう。とにかく奥さん偉いな。
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脱出したいと思って購入(笑)
が,この本は生に悩んでる人や躁鬱な人向けの本でありました.俺の場合金銭で解決できるからそういう点ではあまり役に立たないかな.
ただクリエイティブな面で気づかされることが多々あったので良かったです.
そしてこういう考えの人がいるってのも面白いと思ったのでした.
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坂口さんは、双極性障害(躁うつ病)を患っているそうです。
本の中で、もっとも印象に残ったのは、
自分が、現実だと思っているものは、本当は、現実ではないかもしれない…
別の現実が、存在するかもしれない…
という箇所。
過去があるから、今がある、だから、今の現状に満足がいかなくても、それは自己責任。
そんな考え方は、つらいよね…。
皆、一生懸命やってきたじゃない、なのに、こんな現実、ありえないよね。
これは、夢にちがいない。
それでは、また。
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目による「創造」
別に現実のような風景を見させてくれるわけではない。ただ、目の動きによって、僕はふと立ち止まり、「見るとは何か」「色とは何か」を考えはじめるきっかけを得たのである。不動なものと思っている色が、実は常に変化しつづける川の水のように流れている。それは幼いころにやっていた、現実の中にもう一つ別の新しい空間を見つけ出す遊びと似ていた。(p.42)
レストランでふと耳に入る音楽
一度その曲の全貌を知ってしまうと、もう二度と初めてばったりと出会ったときの耳にはなれない。僕はあの耳に戻りたいといつも思う。
確かに曲自体は何も変わっていない。しかし、明らかに別の曲になっている。これはどういうことなのだろう。(pp.53-54)
人間の視界や、空間を把握する方法は、多様な空間把握の中の一つにすぎないのである。僕は現実とうまく付き合えずに困っている時、虫には世界がどのように見えているのだろうと考える癖があるのだが、それは逃避ではなく、「空間とは何かをもっと考えてみたらどうだ」とくすぐってくる信号なのだと思っている。
同じ空間であっても、僕が近くしているものと、コウモリが受信しているものは全く違うだろう。コウモリが音だけで感じ取っている空間は、人間にとっては一見、錯覚した世界に思える。しかしそう思うのは、無意識のうちに人間の目に見えている空間こそが、現実という「正常な世界」だと判断しているからだ。(p.82)
そもそも、作り話つまり物語は、ただの「虚構」であると認識していいものなのか。
僕にとって創作物とは、目の前に広がっている世界だけが事実であると断定しないようにするための羅針盤である。それは、現実ではくっきり分断している事実と作り話の境界線を緩やかにするための装置なのだ。(p.131)
僕たちがすでに故人となった人間の書物を読んで感銘を受けるのは、昔に戻りたいという欲望からではなく、昔も今も変わらない、つまり時間などない空間が存在することを知覚できるからである。それは一方的ではなく、過去と現在の双方向から手を伸ばすように行われる伝達だ。(p.177)
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「現実を見ろ」「現実は甘くない」といったような説教でよく使われる「現実」を脱臼させ、がんじがらめになってしまった私たちの生き方に自由の息吹を吹き込もうとする試みです。
現象学や哲学的人間学に通じていれば、もう少し厳密な仕方で同じような発想を扱うことも可能なのかもしれませんが、本書では哲学的な概念に頼ることなく、著者自身の体験に基づいて、言わば素手で議論を切り開いていこうとしています。著者の知性の膂力を感じさせる本だと思います。
ただ、社会のレヴェルの問題を個人のマインドセットの問題に還元してしまうことに伴う危険性にも、目配りしなければならないように思います。何も松本哉を見習ってイデオロギー的な立場を鮮明にするべきだと言うつもりはありませんが、個々人が感じている生きづらさは、同時に政治的な問題でもあるという視点は、必要ではないかと考えます。
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現実脱出論
「独立国家のつくりかた」の2匹目のドジョウのようで、あまり参考にならなかった。
ただ、本書にある「躁も鬱も機械の動作に過ぎない」という言葉。
これを理解するために、自分は進化心理学や脳科学の本が好きなんだと再認識した。
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時に重苦しくのしかかり、時にゲラゲラと笑わされながら読了した。ともすれば狂気とも捉えられる、大人になったら殆どの人の眼に見えない不思議な感覚、それを大事に保持出来ている著者の感性のオモシロさ。希死念慮は脳の誤作動という言い回しも凄い。田中圭一センセのうつヌケとともに、鬱持ちの方にはオススメします。