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集団の現実と個人の現実、躁鬱を自分に搭載されている機械だと考える坂口さんの現実脱出論を読むと『徘徊タクシー』や『蠅』などの小説で書かれているフィリップ・K・ディック的な多層な、幾つかのレイヤーを行き来する物語がなぜ書けるのがわかった気がした。
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現実を一面ではなく、多方面から見た著者の思考。当たり前と思う事も、少し考え方を変えてみると様々な発見がある。現実と非現実の狭間を著者なりに記した一冊。少し哲学的な趣も感じさせられるが、読みやすい印象。
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誰かが突然「これから並行世界の話をしよう」といったら、あなたはどう思うだろうか。または「現実脱出の方法について、レクチャーしよう」といったら、頭がおかしいと思うだろうか。
人間が社会を形成するということは、相互扶助のシステムを作って物資の流通効率を上げ、種としての生存確率を高めるための必然的な選択だった。
けれど、いまではその「生きるための社会システム」そのものに絶望してドロップアウトし、果ては死を選ぶ人が爆発的に増えている。これはひとえに現実社会というやつが、そもそも人間が持っていた「もうひとつの世界」を侵食し、食い尽くしてしまったからなのだろう。
それぞれ生物の時間や空間の知覚は、絶対的な尺度では計ることができない。体験の質やタイミング、自身の状態によって時間は長くもなれば、同様に空間も延び縮みする(ように体験されうる)。
アインシュタインは物理法則としての相対性理論を打ち立てたけれど、心理的作用による空間/時間の相対性というものも確かに存在する。
しかし「現実」というやつは、僕たちを絶対的な尺度をもって囲い込み、逃げ場を奪う。常に浴びせかけられる同調圧力によって「ここでしか生きられない」と思い込まされ、限界を超えてもなお、じっと耐えることを強いられる。
でも、実は今いる場所だけがすべてではない、与えられた尺度だけがすべてではないことを感じられたなら……人はもっとうまく、豊かに生きていけるはずだ。
そこで坂口は、自分の「思考の巣」に帰って「創造」をすることを勧める。
現実と対置する「もうひとつの世界」を生み出す余技。これは人類がこれまで編んできた文化のことなのだろう。音楽、文学、演劇などのアートこそ、現代における生命維持装置になりうる。
ただしそれも、承認欲求の発露としてでない場合。つまり、創造という行為そのものに価値を見いだす場合に限られるだろうけれど。
生きるために現実の社会は必要だ。けれど一方で、自分を死ぬまで追い詰めてしまうことのないよう、もうひとつの世界/レイヤーを創造し、常に片足をそちらに置いておく。これは、坂口恭平の一貫したメッセージだ。
現世的な規範や価値基準だけがすべてではない。視点を変えれば、そうしたオーダーの恣意的な、破滅的な側面も見えてくる。そうして自分自身が創造し続けることによって、僕たちはまだ生きていくことができる。
……ビバ、妄想。でもバランスが大事。
うーん、坂口氏の幼少時代のエピソードにはどこか身に覚えがあって、なぜか追っかけずにはいられないのだよなぁ。
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これはやばい!めちゃくちゃよかった!
正直、読み途中はそんなに良いとは思わなくて、ブクログでもそこまで評価を高くしたいとは思わなかった。
個人の思考と集団の意識のこととかは誰もが思っていながら言葉にできなかったことだし、それを独自の言葉と組み立て方で整理して表現したことは確かに本書の重要な成果だと思う。
だけど、行間から強烈な承認欲求が染みだしまくってて、どうしても白けてしまう!苦手だ!
……と、まあそんなことを書こうと思ってた。
なんだけど、終盤に向かうにつれて、そんな承認欲求のようなものはとても些末なことに思えてきた。
それは著者自身にすごい熱意と行動力があるからなんだよね。
新政府いのちの電話として自身の携帯電話の番号を公開し、「希死念慮に苦しむ人」と対話した、というのは本当に驚いた。誰かがツイートしてたけど、この著者は本気で世の中を変えようとしてる。そしてそのことは、本書に書かれていることに強い説得力を持たせてる。
それがとても良くて、白けは一気に尊敬にかわってしまった…すげえ傲慢だが……すいません……。
僕はこういう人になりたいなあ。
おすすめです!
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現実逃避ではなく現実脱出について考察した作品。
ここで表現される現実とは、社会とか一般常識とかに置き換えるとわかりやすい。
ツイッター上などでも告白しているが坂口氏自身は重い躁鬱病を患っており、日々苦しい闘病生活の中でこのような考え方が確立されたのだと思う。
ただ、現実の空間を管理する多くの人々がいることで、この世の中が成立していることも忘れてはいけないのだ。でもたまには、時間や空間など現実の壁を忘れて、自分の営巣本能に従い籠ってみるのも面白いのかもしれない。
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○平方キロメートルという空間でも、その時によって広く感じたり、狭く感じたりする。
同じ一分でもその時によって、長く感じたり、短く感じたりする。
どうやら現実という一つではない世界で、我々が「現実さん」と付き合っていくには……。
坂口恭平さんの「現実脱出論」読み終わる。
現実というのは結局 人が生きるために作り出した仮想空間のツールで、それに囚われてしまっては本末転倒なんだね。
物事に当たる時に、赤ちゃんから年寄りまで、色々な年齢の自分ならどう思うか考えてアドバイスもらうって視点も面白かった。
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『僕たちは、簡単に知覚しうるものだけで構成された「現実」という名の立体空間を、無意識下で作り上げた。さらに集団を形成することで、「社会」と呼ばれる、言葉をもとに人間を管理し、抑制する空間も生み出した。
もちろんそれらは、個では生きることができない人間にとって欠かすことのできない装置である。普通や常識という概念や尺度も、馬鹿にはできない。それによって、円滑に社会が進むのは事実だ。現実という指針があるからこそ、危険を感じ、身を守ることができているのだろう。
しかし、・・・』
面白かった。
アンリ・ベクルソンが『時間と自由』で言ってることを、すごく日常的な言葉で簡単に表現してる感じかな。たぶん、こういうくくり方が良くないんだろうけど…。
「現実」の外に出ることはすごく大事。
それが分からない人の方が怖い…。
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東京0円ハウス、独立国家のつくり方など、一見して何もない空間から、別の新しい空間を生み出し、その視点から新しい社会を築こうという作者の最新作である。
今作では、目に見える現実のみが唯一の世界なのか。その常識を疑う。
ぬいぐるみ王国のトヨちゃんの話を読みながら、忘れていた記憶がよみがえってきた。
中学生の頃まで、俺もトヨちゃんと同じくぬいぐるみと話すことができていたことを。
小学生の頃、札幌への家族旅行で何故かどうしても買ってほしいと駄々をこねた。
雪印パーラーのお土産の棚に並んでいた、フクロウのぬいぐるみ。ホースケと名付けた。俺のハンドルネームの由来だ。
そのうちフクロウのぬいぐるみは増え続け、大小50匹はいたと思う。
最初のホースケはホースケ村を開拓し、ホースケは友人や家族を呼び村にはフクロウが増えていった。
そんなホースケ村に時々招かれて俺はぬいぐるみを詰め込んだ押入れの中、無限に広がるホースケ村という空想の中で遊んでいた。
いつからだろう。現実しか見えなくなってきたのは。
世界には目に見える現実しかない。思考、空想を現実が抑え込む。
今日は休日、のんびりと小金井の江戸東京たてもの園を散歩してきた。
明治の建築物から昭和中期にかけての一軒家の中まで覗いてきた。
昔の家には無の空間を無限に広げる工夫がある。
ふすま、障子を開ければ、閉じられていた空間は必要なだけ広がる。
かつての江戸は火事ばかり。箪笥一つ担いで逃げ出したという。
無機質なコンクリートで囲われた空間、物で溢れかえる部屋。
合理性を追求した現代建築は人、物とともに思考を抑え込んできたように思う。
現実がある。しかし、現実しかないのだろうか。
子供の頃の空想は、全てが嘘幻だったのだろうか。
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著者・坂口恭平さんの体験をもとに、「現実」と「思考」について考える本。難解な部分も、読みやすくて楽しめる部分もあるけど、色々なことを考えさせられた。「現実は一つ、思考は無限」と考えると面白いかもしれない。
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たまらん!おもしろすぎる!自分の感覚という究極の主観に正直であり続けながら、同時に躁鬱病をもつ自分のからだを乗り物として捉えたり、現実を他人とみなしてめちゃくちゃ客観的に捉えることができるセンス。これはあり得ん!尋常じゃないレベルの賢さ(情報処理能力の高さ?)に脱帽。鳥肌モンだった。
それからもう一点。躁鬱病を創作活動の武器にしているところ。人間には、背が高いとか足が速いとか人それぞれの身体能力的な特徴があるように、脳みその働きにも指向性がある。創作が得意とか事務処理が苦手とか手伝いが絶妙に上手いとか、性格も含めたそういうの。これを自分でよく捉えてそれを活かす生き方をした方が、人はわっしょいできると思うのです。これは僕、今回の転職で(もう1年経つけど)すっごく感じてるところ。で、坂口恭平さんは、躁鬱病という脳みその特徴、操縦不能のモンスターを創作活動のタネにしてしまってる、ってのが僕にとって超ヒットでした!
感覚への信頼と、高度な知性と、どっちも本当にツボ。もうどきどきわくわくしながら読み進めました。いつか一緒に仕事したいなー!
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人間の現実は野生動物にとっての草原であり、思考は巣(つまり行為ではなく空間)である。現実という用語はあいまいに使ってあって、私が知覚する現象の世界であり、他者との関係が結ばれる空間でもある。
思考と現実という二つの空間の相互作用を促すのが振る舞いであり、思考は線をかくことで現実へと現れる。線をかき、創造することは、現実とは異なる空間があるということを現実において他者に伝えることである。
『独立国家のつくりかた』のような衝撃はなく、上記のような主張もそれほど斬新ではなかった。
しかし、現実脱出としての創造をすでにこの本の中で十分に実践して見せており、啓発的な力を持っている。
思考を空間として捉えたり、躁鬱を自分という機械の動きと捉えたりといった、独特の唯物論と比喩語法を見ることもでき、独立国家をつくるに至った道筋もすこし読み取れたように思う。
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「現実逃避」ではなく、「現実脱出」。似ているようでまったく異なる。
坂口氏は、一般的に言われる「現実」も、自分の周りにいくつかある仮想空間のうちの1つでしかないという。彼の言う「現実を脱出すること」=「思考」であり、「まずは、現実に自分の体を合わせるのではなく、自分自身の思考をちゃんと中心に置くことだ。現実という他者に合わせて生きるのではなく、自分が捉えている世界を第一に据えよう。」と主張する。
思考こそが、生きることそのもの。見えているものが世界のすべてではない。数年したら再読してみたい一冊。
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http://staygold1979.blog.fc2.com/blog-entry-660.html
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はっきり言って十年に一度読めるかどうかの傑作。空間論、時間論ともに、ここまでオリジナルの言葉で語れる人は今の日本にいないのではないだろうか?
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現実逃避の話かな、と思って手にとってみる。「現実逃避は現実という地平の上で逃げまわる行為にすぎない」といった文章があってなるほどと思い、では現実という地平を離れて逃げまわるには?と楽しみに読むがどうもそういう話ではないらしい。ではどういう話なのかというといまいちよくわからない。秘密基地の話とか、世界の形はそれを見る人間によって決まる、とか、個別のエピソードや主張はそれなりに共感できるのだけれど、行こうとしている先がよくわからないので、個々のエピソードの印象が残るに留まった。何度か読むと印象が変わるのだろうか。