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「読書が趣味です」という言葉を口にするのが憚られる。比較すること自体おこがましいんだけど。それくらい1冊に対する向き合う方が違う。その本の持つ形を捉えて、読みこめるようになりたいという思いを新たにさせてくれる本だった。
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タイトルに興味を持ち購入。初めて読むジャンルの本で、時をタイムスリップしたかのような気持ちになった。歴史を文学を通じて読み解く、歴史の一コマが目に浮かぶ感覚だった。
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文庫本にて再読。文庫版解説がとても良かった。そう、須賀敦子さんの本は、唐突に知らない人の話をされてもすっと情景が浮かんで聞き入ってしまう雰囲気があって、この本も、まさに、そういう感じだった。映画のような感じ、とでも言おうか。文字を追うのではなく、論理を追うのでもなく、目の前の出来事を、自分の中で意味付けていく過程を体験するというか…。
ここにあげられている本を読んだ後、もう一度この本を読んでみたい。
そうすれば、もう少しこの本の深さがわかるようになるのではなかろうか。
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須賀敦子さんに興味を持って読んでみたけど、なかなか入り込めず。とてもマイペースな文章で女性的な方なのだと思う。
興味のある章しか読めなかった。
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人生の味付け。
古典を読むこと、人を知ること。どちらも長い時間をかけて、だんだん深めていくことだ。落ち着いた文章で、ゆっくり読めた。
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塩そのものについての本ではありません。ある人を理解したり、ある本を理解するには、一緒に塩一トンを舐めるほど、長い長い時間がかかる… という意味なのです。
イタリア文学者である著者が、人生で出会った大好きな本や作家について綴っていきます。優れた本ほど、読むたびに新鮮な驚きが待っているもの。人との出会い、本との出会い。それらが“塩”というキーワードで重なります。
塩がこのような場合のキーワードになることが、その存在の重要性を物語っているのではないでしょうか。塩は、人間が生命活動を維持する上で必要不可欠なものであり、美味しい料理に欠かせない身近な存在でもあります。
素敵な人との出会いや、素敵な本との出会いは、人生をより味わい深いものにしてくれるものです。それらの出会いは、人生にとっての“塩”なのかもしれません。
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『霧のむこうに住みたい』と同じく『須賀敦子全集』をもとに編集された書評集。2003年刊行。
これで全集や書簡集などをのぞくと須賀敦子のエッセイはほぼ読了。
1997年あたりの、亡くなる前年の朝日新聞の書評があったり、「ジェラール・フィリップ映画祭」など記憶にある名前が出てきたりもして、同じ時代を生きていたのに、当時の私は生前の須賀敦子の名前をまったく知らなかった。
おしゃれなカフェのような表紙の写真はジョルジョ・モランディのアトリエ。『須賀敦子全集』の表紙には彼の静物画が使用されている。
『本に読まれて』同様に、須賀敦子の選んだ本はなかなかレベルが高く、簡単に真似して読める感じでもなく。
読んだことのあるなかでは『細雪』の構成についての考察などは興味深く、再読してみたい。
以下、引用。
「ひと針、ひと針、縫いすすめてゆくキモノみたいに、一葉の哀しみは……」
と、あるときアメリカから来た女子学生が一葉についてのレポートに書いていた。日本のひとだという彼女のお母さんが、アメリカでつよく生きぬいているすがたを、彼女は一葉の辛抱に読みとったのかと、胸をつかれた。
ものを書く人間にとって、また、自分のアイデンティティーを大切にする人間にとって、ふたつの異なった国語、あるいは言語をもつことは、ひとつの解放であるにせよ、同時に、分身、あるいは異名をつくりたくなるほどの、重荷になることもあるのではないか。
「飛行機とともに、わたしたちは直線を知った。離陸するやたちまち、わたしたちは、水飼い場や家畜小屋のほうにくだるそれらの道路、あるいは、都市から都市へと蛇行するそれらの道路を棄てる」
『人間の大地』(山崎康一郎訳、みすず書房)
(電車の中で読んでいて、そこだけは家に帰って読むことにした)
先年公開された映画『月の出をまって』では、リンダ・ハントが彼女のパートをチャーミングに演じていたが、私の空想家族のなかに入れてもいいかなと思っている女性である。
「終りはどうなるの」子供のころ、そう訊ねてよくおとなに叱られた。「だまって聞いていらっしゃい。途中がおもしろいんだから」
人生に挑んだ西洋的な妙子と、生の流れに身をゆだねる日本的な雪子という昭和初期に生きた対照的な姉妹の姿を、ストーリーの展開を単に異質な二つの性格描写といった安易な手法にゆだねることなく、西洋的な小説作法にのっとった「小説」的なプロットと、日本古来の「ものがたり」的な話の運びをないまぜにして織りあげるといった、構築力とふところの深さに、私はつよい感動をおぼえる。
いよいよ結婚のきまった、いちばんうえの叔母が、あたらしい姓をなんども筆で練習していた二階の部屋のおなじ文机のうえに、ある日、谷崎の『盲目物語』を見つけて、こんなうつくしい本があるのかと、息をのんだのがつい昨日のように思い出される。
俳優が天職とは考えられないと不安がるフィリップたち演劇学校の若者に、「心配するな。天職とい���ものは仕事を学んでいくうちに、少しずつやってくるものだ。仕事を覚えたとき、それを好きになり始めたとき、それこそが天職というものなんだ」といい聞かせる、大先輩でとびきりの名優ルイ・ジュヴェ。
「ブライアンは(尊敬のまなざしで、とあえて言うが)はっきりこう言った。『あなたがあのお話を書いたの?』私が答えようとしたとき、彼は続けた。『それともタイプしただけ?』」
『本を書く』アニー・ディラード
人が生きるのは、答をみつけるためでもないし、だれかと、なにかと、競争するためなどでは、けっしてありえない。ひたすらそれぞれが信じる方向にむけて、じぶんを充実させる、そのことを、わたしたちは根本のところで忘れて走ってきたのではないだろうか。
まっすぐな時間の線や場所さえも失わせるのは、先生の話し方がディテールに満ち、そこにまったく別の世界を作り出してしまうからなのかもしれない。そしてそのディテールがあるからこそ、生きてきた時代も、見てきた風景も、もっと言えば教養のレベルさえまったく違う私でさえも、置いてきぼりにされず、先生の世界に入っていけたのだろうと思う。
「話したことは一秒後にはすべて、ものがたりになるのよ」と先生は言っていた。
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須賀敦子さんの書評集。彼女の紡ぐ言葉はどんな時でも星のように煌めいて美しく、同時にはっと胸を衝く。「塩一トンの読書」と題された短いエッセイの中で語られる彼女の本を読むことへの情熱やどんなに書物を愛しているかがよく伝わってくる。「ひとりの人を理解するまでには、すくなくも、一トンの塩をいっしょに舐めなければだめなのよ」と言ったのは著者の姑であるらしいがその意味は「一トンの塩をいっしょに舐めるっていうのはね、うれしいことや、かなしいことを、いろいろといっしょに経験するという意味なのよ。塩なんてたくさん使うものではないから、一トンというのはたいへんな量でしょう。それを舐めつくすには、長い長い時間がかかる。まあいってみれば、気が遠くなるほど長いことつきあっても、人間はなかなか理解しつくせないもの」ということらしい。それを踏まえて彼女は言う。「すみからすみまで理解しつくすことの難しさにおいてなら、本、とくに古典とのつきあいは、人間どうしの関係に似ているかもしれない。読むたびに、それまで気がつかなかった、あたらしい面がそういった本にはかくされていて、ああこんなことが書いてあったのか、と新鮮なおどろきに出会いつづける」と。私もこれまで色々と読んできたけれど、どれだけの「塩」を舐めてきただろう。1冊の本ですら読み尽くせていない気がしてくる。谷崎潤一郎の「細雪」の考察はとても興味深く、またこちらの作品も再度したくなります。後半の数々の書評にも彼女の鋭い言葉がきらりと光る。「夏少女・きけ、わだつみの声」の結びの文「侵略戦争の記憶を、淡々しい悔恨や、やさしいだけの鎮魂歌に終わらせてはならない。どうすればその先を開くことができるか。現在の私たちの周囲に、内面に、あのときとは異なったふうではあっても、なお生きつづける全体主義や排他主義と、私たちは日々闘っているだろうか。」または「砂のように眠る――むかし「戦後」という時代があった」の結びの文「この国では、手早い答をみつけることが競争に勝つことだと、そんなくだらないことばかりに力を入れてきた」として「人が生きるのは、答をみつけるためでもないし、だれかと、なにかと、競争するためなどでは、けっしてありえない。ひたすらそれぞれが信じる方向にむけて、じぶんを充実させる、そのことを、私たちは根本のところで忘れて走ってきたのではないだろうか。」これらの静かに燃えるような彼女の言葉を忘れずにいたい。
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須賀さんの文章を読むと背筋が伸びる。そして読書は、本が好きな人たちだけの趣味ではなく、人間が豊かに生きていくのに欠かせないものであるということに気づく。
” 人が生きるのは、答をみつけるためでもないし、だれかと、なにかと、競争するためなどでは、けっしてありえない。ひたすらそれぞれが信じる方向にむけて、じぶんを充実させる、そのことを、私たちは根本のところで忘れて走ってきたのではないだろうか。”
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このタイトルはどういう意味だろうと興味を持って手にとってみた。
なるほど、塩一トンをなめるのにはとても長い時間がかかるけれど、それくらい本と向き合うということか(本来は人との付き合いに対して著者の義母が言った言葉だったらしい)。
前の須賀敦子作品へのレビューでも書いた気がするけど、なぜだか私は須賀敦子の文章にすごく惹かれる。今回も、私からすると、到底手の届かない高いところに達した須賀敦子の思考と、博識ぶりと、読書量と、書評の文章の上品さに、圧倒されるし、理解はできないし・・・という状態だったけれど、やはり惹かれる。
ちなみに、後半の書評については、どの本ももちろん読んだこともなければ、ほとんどが知らない本だった。
いわゆる「文学」と言われる有名な作品や海外作品に全くもって疎いことを一瞬恥じたけれど、私は私の読書をしていこうとも思った。
しかし、日本語以外の言葉で読書ができるって、とてつもなく羨ましい。一度でいいから、母国語以外で本を読んでみて、日本語と同じように感慨を得たい。
最後にとてつもなく惹かれた部分を(長いけれど)引用したい。
「砂のように眠る」(関川夏央)によせた書評より
ー著者がこの本を書きおえて二年目の一九九五年、阪神地方を襲った大震災がそれにつづく暗い時代のいやな予兆ででもあったかのように、日本人は、じぶんたちの国が、世界のなかで確実に精神の後進国であることを真剣に考えずにはいられなくなった。いったい、なにを忘れてきたのだろう、なにをないがしろにしてきたのだろうと、私たちは苦しい自問をくりかえしている。だが、答は、たぶん、簡単にはみつからないだろう。強いていえば、この国では、手早い答をいつけることが競争に勝つことだと、そんなくだらないことばかりに力を入れてきたのだから。
人が生きるのは、答をみつけるためでもないし、だれかと、なにかと、競争するためなどでは、けっしてありえない。ひたすらそれぞれが信じる方向にむけて、じぶんを充実させる、そのことを、私たちは根本のところで忘れて走ってきたのではないだろうか。この本を書いた関川さんは、そんなふうにいっているようにも、私には思える。
まだまだこの国は、人生における空虚な価値観が漂っているのではないか。あれから数十年経とうというのに、何も変わっていないのではないか。心に沁みる文章だった。
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いつも優しい、だけど芯の強い文章を書いてきた須賀敦子さんの頭の中が少し垣間見える。塩一トンを舐める期間、すなわちほぼ一生をかけて付き合うものとは?を考えさせられた。
イタリア語を習得することで、日本とそれとは違う文化の間で様々な表現者の意図をより深く理解し、ときに自分を演じ分けることもできる。あくせくと働く日本人への警鐘もあるように感じる。
最後に出てくる本の紹介は楽しかった。ほとんど読んだことはないが、須賀敦子さんの感覚に近づくために少しずつ読んでみたい。