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悲惨な話が多いかなあと懸念もあったが、淡々とした爽やかなコラム集って印象だった。死体の清掃ではあるけども。
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特殊清掃。特掃隊長先生の著書。遺体処理や遺品処理、ごみ屋敷の処理や清掃といった特賞清掃を仕事としている特掃隊長先生の実際の体験談がまとめられている良書。苦しみ悩みながら孤独にこの世を去っていった人たち。人間は誰しも最後は必ず死を迎える。生きることの意味や死ぬことの意味を考えさせられる良書です。
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特殊清掃を行う男性のブログをまとめたもの。
本書で「特殊清掃」とは、遺体痕処理、不用品撤去、遺品処理、ゴミ部屋清掃、消臭、消毒、害虫駆除まで行う作業。
一つ一つは短い。故人を深く掘り下げたものではない。
死後処置は葬儀屋さんがやってくれると思ってた。
私なら依頼者が高圧的だったり、嫌な奴なら断っちゃいそう。
金目のものだけ持って来させられるとか、イラッとする。
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特殊清掃とは人間遺体・動物死骸・糞尿・山積ゴミなど、通常の清掃業者が処理できない特殊な汚染汚損を処理すること。著者の特掃隊長さんは、長年この業務に従事し、数多くの凄惨な現場に遭遇してきた。その体験談、つまり、過酷な変死や孤独死の現場を通して、生とは何であるかを説く。
正月早々、なんでこんな本を読んでいるのか、という話。
その理由は自分でもよくわからない(笑)
でも、結構いいことが書いてある。
例えば、遺族に「なぜ、人は死ななきゃならないのでしょうね」と尋ねられたときの返し。
「まず、自分の無力さを知るため。そして、命が価値あるもので在るため」
死の現場を数多く経験しているだけあって、強力な説得力のある言葉だと思う。
他にも、
ー 人生は、最終的な合計点を人と争うものではない。一日一日、一瞬一瞬の生き方を自分と競うもの。
とか。
ー 好きな言葉として「一期一会」を挙げる人は多い。…ただただ、その意味を初対面の人に当てはめてしまいがち。本当は、いつも一緒にいる身近な人にも 「一期一会 」は当てはめた方がいいのだろうと思う。
とか。
いちいち重く深い。
あと、自宅で突然ポックリ逝くことを希望する人は多いと思うが、特殊清掃員の苦労を考えると、すぐ発見してくれる関係性の人がいない限り避けた方がいい、みたいです。
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今まで考えたこともなかったが、絶対に誰かがやらないといけない死体処理という仕事について知ることができ衝撃が大きかった。様々な職種の人が存在しているから不自由なく生きることができているんだと改めて考えさせられました。
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東京をはじめとして全国に3支社ほど構える特殊清掃会社に所属している著者・特掃隊長の著。
特殊清掃について、テレビなどで特集が組まれることもあり、「人が亡くなった部屋の掃除をする」ということは知っていましたが、それ以上の知識はない状態で読み始めました。
もともとブログだったこともあり、短くて読みやすい質・量の文章が30篇ほど掲載されています。
印象に残ったのは前後編に分かれた「おでん」と「メメント・モリ」です。
「おでん」は棺に故人が生前好きだったおでんを入れよう、というところから始まる、生々しくも激しい言い争いが鮮明に描かれていて、第三者からすると一見コメディのようでありながら、その場に居合わせた特掃隊長さんからしたら大変な修羅場だったろうなと想像できます。
もう一方の「メメント・モリ」は王道な内容ながら身につまされた一篇で、死を考えるときの基本形だなと感じました。
このコロナ禍で特殊清掃の方の仕事は以前にも増して難を極めていることだろうと思います。
人は必ず死にます。そのことを、私を含めて多くの人は普段意識して生きてはいません。意識しないようにしている、と言った方が正しいでしょうか。
でも死んでしまったら、もう自分で何かを変えることはできない(当たり前ですが)。だからこそ、自分の去り際を考えて人は生前分与をしたり、終活をするのでしょう。
まだまだ死なない(であろう)と思いますが、このことを頭の片隅に置いて、これから生きていきたいと思いました。
余談ですが、巻末の解説の内容が養老先生でした。
そっちがあまりに濃厚(!)なもので、こっちが本編かな? と思うくらい(笑)
なぜ途中怒り口調なのか分かりませんが、きっと気分が高揚してしまったのでしょう。
気になる方は解説を読んだ後に本編をどうぞ。
本編の後に解説を読むと、後味がすっかりさっぱり消えてしまいますのでご注意を……(笑)
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ブログから抜粋して本にしたものだからか、とても読みやすい。人間は死ぬと溶ける。炬燵に入ってる遺体は下半身はミイラ化し、上半身は倍に膨らむ。ホットカーペットには焼き汁が染みだし、電気毛布に包まれた遺体は発酵する。どんな臭気になるのか。どの現場も壮絶だけれど、浴槽内の清掃があまりにも生々しい...もし自分がこの話のように歯を渡される遺族だったら、卒倒してしまうな...
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死生観について考えさせられる本。
作者が仕事を通じて、多くの人の死に携わってきた中で、悟った事が書かれている。
人はみんな死に向かって進みながら生きており、そのタイミングがいつ訪れるかは人それぞれである。
最愛の人と一緒にいれる事は、当たり前の事じゃないと再認識した。
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Kindleアンリミテッドで出会った本。何から連想してこの本に来たんだったか忘れてしまったが、新しい知識をたくさん得られた本であった。
特殊清掃の方に対応いただくことがないように事前に準備しないといけないな、と書いてみたが、これは孤独死ならまだ対策できても突然の事件・事故ならどうしようもないしな…。
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2022.01.23
パパッと読了。
この手の本が好きなのでよく読むが、写真もなく、インパクトは弱め。
特殊清掃を通して見てきた、筆者の生と死に対する観念や哲学が入るのがクドく感じた。
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経験したことがない事実を
たくさん知ることができて参考にはなったが、
想像以上、と言うインパクトはあまりなかった。
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読みやすくスルスル読めた。最後の養老孟司先生の解説もまた素晴らしい。死についての折り合いがついていない、なるほどと思う。
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ちょっと文章が読みにくかった
特殊清掃の大変さや著者の気持ちや考え方が書かれたブログを書籍化したもの
生きることや死ぬことについて時々でも考えようかなぁと思う
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【メモ】
・「特殊清掃」とは、遺体痕処理から不用品撤去・遺品処理・ゴミ部屋清掃・消臭・消毒・害虫駆除まで行う作業のこと。通常の清掃業者では対応できない特殊な清掃業務をメインに活動している。人間遺体・動物死骸・糞尿などの特殊な汚染汚損を処理することもあり、凄惨な現場に遭遇することや過酷な作業を強いられることも多く、陽の目をみることが少ない汚仕事である。
・人間もある種の生モノ。身体はもちろん、精神も腐りやすい。思い通りにならなかったり、ちょっとイヤなことがあったりしただけですぐ腐る。
死に向かって、確実に過ぎていくいまを、腐って生きるのか新鮮に生きるのか……。普通に考えれば、腐って生きるなんて、そんなもったいないことはできるはずもない。……しかし、実際は腐って生きてしまう。腐りそうになったら、「今日一日で自分の人生は終わり」と仮定してみるといいかもしれない。
・好きな言葉として「一期一会」を挙げる人は多い。ただ、人の生死やその別れを考えると、簡単な気持ちでは口にできない言葉であるような気がする。私も、真(深)の意味を学んだことはないが、好きな言葉の一つである。ただ、その意味を初対面の人に当てはめてしまいがち。本当は、いつも一緒にいる身近な人にも「一期一会」は当てはめた方がいいのだろうと思う。
・何枚かあった写真を一枚一枚顔に近づけて、何度も何度も見直した。なんと、写真に写っていた人物は、私が見知った人だった!いきなり、心臓がバクバクしはじめて、「まさか! 人違いだろ!?」「人違いであってくれ!」と思いながら夢中で名前を確認できるものを探した。氏名はすぐに判明し、力が抜けた。残念ながら、やはり故人はその人だった。心臓の鼓動は不規則になり、呼吸するのも苦しく感じるくらいに気が動転した!
もちろん、管理会社には、故人が自分と知り合いだったことは言わなかった。言えもしなかった。管理会社だけではなく、そのときは誰にも話したくなかった。でも、否応なく注ぎ込まれる嫌悪感が自分の心のキャパシティーをはるかに超えていた。誰かに話さないと自分がおかしくなりそう……だけど、誰にも話せない……。同情心でもない、悲壮感でもない、喪失感でもない、なんとも言えない重いものがおしかかってきて、しばらく気分が沈んだ日々を過ごした。その人が持つ経済力や社会的地位だけとはいえ、羨望視していた人が金銭苦で自殺した。その厳しい現実をどう受け止めて消化してよいものやら……。私の心は完全に消化不良を起こしていた。
現場では、とにかく無心で作業した。いつもより、無意識に急いでやったように思う。写真はもちろん、名前が出ているようなモノもあえて見ないようにして作業を進めた。普段は、無神経に見えるくらいの態度と雰囲気で仕事を進めるのだが、「故人が知人となると、ここまで気が重くなるものか……」と重い気分と新鮮な感覚が交錯した。
・自殺志願者の気持ちは少し理解できる。ただ、無責任なことを言うようだけれど、とりあえず空気を吸い、何かを食べ、雨時々曇りの人生でも、惰性でもいいから、もう少し辛抱してこの世に存在してみたら、意外なところから陽が照ってくるかもしれない。本当は、いくつかの道がまだ残っているのに、余計なプライドや世間体とか怠け心(甘え)が、自分の歩みを邪魔しているってこともあると思う。
・私は〝死〟を意識して生きることの大切さを訴えている。しかし、それは、プラスに作用するとは限らない。短絡的な思考を助長したり、空虚感を大きくしたりすることがある。また、目を逸らしてはいけないものから目を逸らすことを正当化したり、誤魔化してはいけないものを誤魔化すことを促したりする。結局のところ、「死を意識する」なんて上段構えを見せていても、単に、真実から目を背け、自分を誤魔化しているに過ぎないのではないかと。単に、自分は、〝死依存症〟を患っているだけなのかもしれないと。そうだとしたら、自分がもの凄く怖くなる。苦悩からの救済と幸福への到達は、そんな〝依存〟からは導き出されないような気がする。〝依存〟ではなく、〝対峙〟すること、死に依存するのではなく、死に対することから、導かれるのではないかと思う。
・「他人は、いいときにはいい顔をして寄ってくるけど、悪くなるとすぐに冷たく離れていくものさ。でも、家族は違う……家族は、いいときも悪いときも一緒だ。自分一人じゃがんばれないことも、家族がいるとがんばれるんだよ。俺には、家族がいちばん大事なんだ」
・〝死〟……特に、自分の死を考えることは、とても有意義なことと私は考える。もちろん、それで刹那的、短絡的になってはいけないのだが、深く深く考えると自然と神妙かつ厳粛な気持ちになってくるものだと思う。
こんな仕事をしている私は、普通の仕事をしていれば得られるものを得られていないかもしれない。普通の仕事をしていれば、失わなくて済むものを失っているかもしれない。しかし、死を考えるチャンスは、数え切れないくらい与えられている。これは、何物にもかえられない宝かもしれない。しかし、その死考は、この男性のように、死と直面し現実のこととして受け入れようとしている人に比べれば、リアルさに欠ける。これだけ〝死〟にまみれていながら、どうしたって現実味に欠けているのだ。それは、自らが歳をとったり大病を患ったりしないと、リアルに受け止めることができないものなのかもしれない。ただ、この男性のような人と会って感情を移入すると、擬似的に自らの死を自分に近づけることができる。それによって、薄暗い〝いま〟が光に照らされ、人生に力が注ぎ込まれる。そして、いまを生きる力が湧いてくる。
・分かち合いたい言葉を二つ挙げてみる。
それは、「ありがとう」と「ごめんなさい」。私は、愛する人を失った遺族が故人と別れる場面に何度となく立ち会ってきた。そして、多くの遺族が「ありがとう」と「ごめんなさい」と亡骸に言葉をかける姿を見てきた。また、自分が最期のときを悟ったときに何を思うだろうかと想像すると、やはり感謝と謝罪の念……「ありがとう」と「ごめんなさい」が頭に浮かぶ。その理由はよくわからないけれど、最期はそれに尽きるような気がしている。しかし、臨終間際や相手が死んでしまってから気づいたのでは手遅れ。やはり、お互いに生きているうちに、分かち合いたいもの。だから、勧めたい。
家族���身近な人に「ありがとう」「ごめんなさい」を言う勇気とプライドを持つことを。小さなことにもそう思える、謙虚な感受性を育むことを。
・小学生「口の中にあると、ツバは汚くないのに、どうして外に出すと、汚いんですか」。小学生がそういう質問をする。これに答えられるだろうか。われわれは自分を贔屓しており、それは感情のレベルできわめて堅く、しっかりしている。だからこそ、自分の一部が外に出ると、それまでのエコ贔屓が逆転して、いやが上にも「汚い」となる。だから水洗便所なのである。自分が作ったものなのに、自分でそれに我慢ができない。
死体の存在がそこに通じていることは、もはやおわかりであろう。死体とは「将来の自分」であって、「自分がかならずそうなる」ものである。それがイヤだということは、じつは本当の意味で、「自分とまだ折り合いがついていない」人なのである。自分自身と折り合えなかったら、他人と本当には折り合えるはずもない。現代人とは、そういう人たちだから、じつははなはだ付き合いにくいのである。
・女性は、故人の手を握りながら「なぜ、人は死ななきゃならないのでしょうね」と、私に尋ねてきた。いきなりの質問、しかも難しい質問を投げかけられて、私は少し焦った。少し間を置き、「あくまで自論ですが……」と前置きしてから静かに答えた。「まず、自分(人)の無力さを知るため。そして、命が価値あるもので在るため。……私は、そう思っています」
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499
「他人の不幸を真に気の毒に思わず、他人の幸せを真に喜ばず」 それが、私の本性なのだ。 しかし、他人の喜びを自分の喜びとし、他人の悲しみを自分の悲しみとするような人間に憧れもある。ほんの少しでいい、死ぬまでにはそんな人間になってみたいと思う。 他人の痛みを自分の胸の痛みとする。 それが、人がきれいに生きるためのコツのように感じる。
故人の仕事は、建築工事関係の個人自営。 仕事ぶりは真面目だったものの、無類のギャンブル好きだった。 当初は小遣いの範囲で遊んでいたものが、収入が減るにつれて小さな借金を繰り返すようになる。
ある不動産管理会社から自殺腐乱現場の見積り依頼がきた。 場所は、一般には高級住宅街と言われる地域。 中年男性の首吊り自殺だった。自殺の理由は借金苦。 管理会社の担当者に聞くまでもなく、部屋に散乱していたクレジット会社や消費者金融からの請求書で、それは容易に察することができる。
自分は、目に見えるものばかりを追い求め、目に見えないものを 蔑ろにしていないか。 目に見えるものだけを信じて、目に見えないものを疑っていないか。 いつまでたっても何をやっても変われないのは、目に見えるものが自分に足りないせいだと思っていないか。
私は、愛する人を失った遺族が故人と別れる場面に何度となく立ち会ってきた。そして、多くの遺族が「ありがとう」と「ごめんなさい」と亡骸に言葉をかける姿を見てきた。 また、自分が最期のときを悟ったときに何を思うだろうかと想像すると、やはり感謝と謝罪の念……「ありがとう」と「ごめんなさい」が頭に浮かぶ。 その理由はよくわからないけれど、最期はそれに尽きるような気がしている。 しかし、臨終間際や相手が死んでしまってから気づいたのでは手遅れ。 やはり、お互いに生きているうちに、分かち合いたいもの。だから、勧めたい。 家族や身近な人に「ありがとう」「ごめんなさい」を言う勇気とプライドを持つことを。小さなことにもそう思える、謙虚な感受性を育むことを。
死体とは「将来の自分」であって、「自分がかならずそうなる」ものである。それがイヤだということは、じつは本当の意味で、「自分とまだ折り合いがついていない」人なのである。自分自身と折り合えなかったら、他人と本当には折り合えるはずもない。現代人とは、そういう人たちだから、じつははなはだ付き合いにくいのでる。