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平均台をバランスを取りながら歩くような、登場人物の善悪がどっちに振れるか、ハラハラした読書。人間の善悪など、簡単には決められないのがリアルであり、物語の中でも単純に役割を決めない事で、この小説は、人間の深みを描くと共に、ミステリアスな雰囲気を醸す事に成功している。そしてそれは、生活とは切り離せない、日々の暮らしの象徴である「はぶらし」にスポットライトを当てる事で、更に生々しさを増し、不気味さの演出に繋がる。
旧年来、しかし暫くは疎遠だった友人からのSOSに、自分なら、どのように対応するだろうか。お人好しと冷酷、寛容さと不快感の狭間で内省する女性を描き切る。そうじゃない、甘い、と読みながら突っ込みつつ、不快感側に向いたメーターの心理ゲージを気味の悪さに常時震えさせながら。イヤミスを読みたかったので、これは当たり。
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どうしてこのタイトルになったのか?
歯ブラシがキーを握っているかと思えばそこまでの内容はなかったように思う。
様々な謎を残して終わった感じ。
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なんとなく全て予測していたこと。
やっぱり、ってなった。
信じるっていうことを、考えさせられる。
一気に読めました
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登場人物の誰というわけでなく少しずつみんなに共感することがあるように思えて、誰も憎みきれなかった。
耕太くんが元気そうだったのがせめてもの救い
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こんなお人好しっているのかな?それとも良い生活をしている余裕?優柔不断で良い顔をしたい性格なだけ?エピローグも出来過ぎで作り過ぎ。それでも不気味さに引き込まれて一気に読まされましたが、途中のムカムカ感と焦ったさは最悪でし
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読み手の神経を逆撫でしてくるような、間近にありそうなサスペンス。主人公、鈴音が夜中に頼ってきた古い友人、水絵にいきなり居候されるが、生活を侵食される主人公がお人好し過ぎて苛々する。作者の作品にみられる捻りを期待して読むうちにページが少なくなり、水絵の破天荒とも言える行動のきっかけとなる心理など、納得感のない終わり方と感じた。水絵が鈴音からものを盗らなかった理由もいまいち分からない。
テーマは友人どの付き合い方なのだろうが、付き合いに足りる人がどうかを判断するしかないと思うし、水絵は明らかに関わってはいけない種の友人とはっきりわかる。
水絵目線で描く小説のほうがより切実なストーリーで共感出来そうな気がする。
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三十代の主人公が高校生のころの友人を自宅に泊めて、出て行くまでの物語。
ざっくりした粗筋はそれだけなのだが、なし崩しに宿泊期間を延ばしていくやり取りや、主人公の生活を侵食していく様はホラー小説のようだった。
いや、これはホラーなのだ。
この小説を読むと、恐怖の本質は「自分が侵食されていく」ことだと理解できた。自分の世界が乗っ取られていく感覚。それが恐怖につながる。
大きな発見だった。
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あなたは、『最後に会ったのは十年も前』という旧友に、『一週間でいいの』『家に泊めてほしいの』と言われたらどうするでしょうか?
小・中・高…と大人への階段を昇っていく中には、それぞれの時代に友達と呼べる関係性を築いた人がいたと思います。それは、クラスメイトだったかもしれません。部活動が一緒だったという場合もあるでしょう。一度しかない青春時代を一緒に駆け抜けた友達は、あなたのその時代その時代を色濃く彩る欠かせない存在だったのだと思います。
しかし、時は流れ、次のステージへと歩みを進めていく中に、そう、就職し、引っ越しによってもそんなかつての関係性は終わりを告げていきます。『年賀状自体を出さなく』なり、『新しい携帯番号をわざわざ教えるような関係』でもなくなっていく中に、それは思い出の中にのみ存在するものとなっていきます。
では、そんなかつての友達から突然連絡が来たとしたらあなたはそこに何を考えるでしょうか?『教えてなかった』はずの番号に突然かかってきた電話。そんな相手から『今すぐちょっと話を聞いてもらえないかな』と言われたとしたら、『会った瞬間に数年間の空白が消えて、昔のように楽しく盛り上がる』のではないか、そんな可能性もゼロではないでしょう。しかし、今の世の中、『ずっと会ってなかった友達が、いきなり「会いたい」と言ってくるのはそんなケースばかりでは』ありません…。
さて、ここに、『深夜十二時を過ぎている』という時間に旧友から突然『会いたい』と言われた一人の女性が主人公となる物語があります。『脚本家』として『仕事が途切れずにずっとある』という今を生きる主人公の日常が、『一週間でいいの。鈴音の家に泊めてほしいの』という言葉を受け入れた先に揺らいでいく様を見るこの作品。一つ屋根の下に、『線引きの基準』に悶々とする日々を送ることになる主人公を見るこの作品。そしてそれは、『まるで自分の家じゃないみたい』という日々のその先に、心理サスペンスの極みを見る物語です。
『今年に入ってからの鈴音は散々だった』と振り返るのは主人公の真壁鈴音(まかべ すずね)。『一年くらい関わってきた仕事の企画が中止にな』り、『まだ四月なのに、三回も高熱を出す風邪を引』き、そして、『二年つきあってきた恋人の敏彦と別れてしまった』。『なにもかもうまくいく人生なんてない』、『そう自分に言い聞かせ』る鈴音は、『脚本家』としての今を生きています。『関わった映画の脚本が大きな賞をもらった』ことから『脚本を書かせてもらうようになって三年目』という鈴音。『そんな春先の』ある日、『見慣れぬ電話番号』から電話がかかってきました。『あの…真壁さん?』と言う電話の主は『わたし、古澤です。覚えてる?古澤水絵』、『ほら、高校で一緒だった。合唱部の!』と続けます。『同じクラスではなかったが、同じ合唱部で三年間過ごした友達』だと思い出した鈴音に、『いつも映画見てるよ。ブログも読んでる』と続ける水絵に、『心の中で黄信号が点滅する』鈴音は、どうして『電話番号を知っているのだろうか』と訝しがります。『言外に「なんか用」という気持ちを匂わせて』『どうしたの?』と訊く鈴音に『鈴音に相談したいことがあるの。でも、電話で話せるようなことじゃなくて…会えないかな』と言う水絵に『黄信号が赤信号に変わる』のを感じる鈴音。『すでに深夜十二時を過ぎている』という時間にそんなことを言われて驚く鈴音は、『昔の友達から連絡をもらって』、『マルチ商法』だったり、『あやしい新興宗教』だったりでいい思いをしてこなかったことを思います。しかし、『切羽詰まっている』水絵の様子が浮かんだ鈴音は、『二十四時間営業のデニーズ』を指定して、家を後にしました。『頭の中で赤信号が点滅し続け』る中にデニーズの『ドアを開けた』鈴音は、客席を見回すと、『六、七歳くらいの子供にパンケーキを食べさせている母親』を見つけます。『鈴音!』、『水絵…?』と再会した二人。『子供連れなんて言わなかったじゃない』と戸惑う鈴音が名前を聞くと、『耕太、七歳になったばかり』と紹介されます。『ねえ、いったいどうしたの…?』と鈴音が尋ねると、『半年前、リストラされたの』、旦那とは『二年前に別れたの』、そして『夫からは暴力を受けていたの』と次々と説明する水絵は、『助けてほしいの』と『鈴音の顔をまっすぐ見』ました。『とうとうきた』と思う鈴音が、『わたしにできることなら…』と返すと、『一週間でいいの。鈴音の家に泊めてほしいの』と水絵は言います。『マンションは2LDKだから』『ふたりくらいは泊めてあげられる』ものの『しばらく会ってない人を部屋にあげるのは抵抗がある』と思う鈴音は、『少ないけど十万円くらい貸そうか?』と申し出るも『ウィークリーマンションじゃ、仕事が探せないの。決まった住所がないと…』、『お願い、うっとうしくなったら出て行くから、少しの間だけでいいの』と懇願する水絵。それに、『一週間。たった一週間だ』と、戸惑う中に『わかったわ。じゃあうちにおいでよ』と水絵と、耕太を連れ帰った鈴音。部屋の説明をする中に、『歯ブラシあるかしら』と訊かれた鈴音は、『予備の買い置き』を貸してあげます。そして、鈴音が、水絵と耕太を『一週間』という約束で住まわせてあげる先に、鈴音が感じていた『かすかに心の奥で妙なざわめきがあった』という感覚がじわじわと現実のものとなっていく物語が始まりました。
“人は相手の願いをどこまで受け入れるべきなのか?揺れ動く心理を描いた傑作サスペンス”と内容紹介にうたわれるこの作品。冷んやりとした洗面所を思わせる表紙がいかにもサスペンスな雰囲気を醸し出す中に、どこかザラザラとした感覚を滲ませています。近藤史恵さんというと、自転車ロードレースの世界を鮮やかに描く”スポーツ小説”「サクリファイス」、世界各地の食べ物・飲み物と出会えるカフェを舞台にした”食べ物小説”・「ときどき旅に出るカフェ」、そしてスーツケースを連作短編のキーに展開する”旅小説”「スーツケースの半分は」など極めて幅の広い作品を生み出されている方という印象を受けます。とは言え、近藤さんの真骨頂となるのは推理小説、ミステリー小説といった側面だと思います。この「はぶらし」という作品は、そんな近藤さんのまさしく王道、そこにサスペンス色を色濃く出したのがこの作品と言えるでしょう。
そんなサスペンス小説にも関わらず、書名が「はぶらし」というのはどこか不思議な感じがします。物語では、深夜に突如押しかけてきた水絵に、『歯ブラシあるかしら』と鈴音が訊かれる場面でこの書名に繋がる『歯ブラシ』が登場します。本文中と、書名で『歯ブラシ』、「はぶらし」と字を使い分けている理由が今ひとつ判然としない中、『明日、コンビニ行って買ってきて返すから』と言われて『いいわよ、歯ブラシくらい』と貸してあげる場面がまず描かれます。『歯ブラシ』の買い置きくらいはたいていの方がしているでしょうし、それを貸してあげるというのもなんのことはないシーンです。ここに違和感を覚える方はいないと思います。問題はその翌日に訪れます。翌日、『手に二本の歯ブラシを持っ』た水絵は、『それを鈴音に差し出』すと、こんな風に言います。
『新しいの買ってきたの。だからこれ、どうもありがとう』。
それに、
『え…?』
と戸惑う鈴音の姿が描かれます。『その歯ブラシは、昨夜、鈴音が水絵に貸したもの』だったからです。『耕太の分と二本、白と青の歯ブラシ』を差し出され『水絵の顔を見』る鈴音。さて、あなたはこの場面に何を思うでしょうか?昨夜、鈴音は水絵に『歯ブラシ』を『貸し』ました。『貸した』ものを『返して』もらう、このことに何の違和感もありません。例えばこれが、他のものだったとしたらどうでしょう。泊まりに来た人に貸すものとすれば、スリッパ、コップ、布団、タオル、パジャマ…色々なものが思い浮かびます。これらを『貸して』、『返して』もらうという中に、違和感はあまりないように思います。しかし、それが『歯ブラシ』だったとしたらどうでしょうか?鈴音はこんな風に感じます。
『昨日、ふたりが使った歯ブラシだ。返すと言われたときは、新しいものを買って返してもらえると思っていた。たった一度でも、他人の使った歯ブラシを使えるはずがない』。
これは多くの方にとって同じ感覚だと思います。例えば、箸なども同じではないでしょうか?洗えば問題ないと言えるものではあります。しかし、『買った新しいのは?』、『え?さっき使ったわ』と言われて『返す言葉もない』という鈴音は、『なんともいえない不快さを覚え』ます。もちろん、この感覚は人によっても差があるのだと思います。人によっては、私が上記したようなものさえ他人に『貸して』、『返して』もらうという行為に違和感を抱く方もいらっしゃるかもしれません。そして、その一方でもしかしたら『歯ブラシ』について水絵がとった行動の何がおかしいのか?と思う人もいるかもしれません。このあたりの『線引きの基準』の違い、これこそがこの作品のベースに流れていくサスペンスの土台となるものです。なかなかに面白いポイントに切り込まれた近藤さん。「はぶらし」という書名の先にサスペンスを生み出してしまう目の付け所の凄さにまず驚きました。
そんなこの作品は、脚本家として2LDKのマンションに一人暮らす鈴音が『一週間』という期間限定で、高校時代、『同じクラスではなかったが、同じ合唱部で三年間過ごした友達』だった古澤水絵を泊めてあげることにした先の物語が描かれていきます。『ずっと会ってなかった友達が、いきなり「会いたい」と言ってくる』場合、そこには何かある、と用心する必要があるというのはよく言われることです。この作品の主人公・鈴音は、『脚本家』として有名になったこともあって『マルチ商法』や『あやしい新興宗教』で近づいてくる『昔の友達』にうんざりさせられる日々を送ってもいたため、『昔は仲が良かったけど、それでももう十年会っていない』という水絵に十二分に注意して接していきます。しかし、『助けてほしいの』、『食事の準備や掃除なんかはわたしがやるから』、そして『一週間でいいの』という言葉に心揺れ動かされてしまいます。このあたりも人それぞれだと思います。『しばらく会ってない人を部屋にあげるのは抵抗がある』というのが水絵のスタンスですが、人によっては、そもそも他人を自分の部屋に入れること自体に躊躇する方もいらっしゃるかもしれません。このあたりも『線引きの基準』という言葉が浮かび上がります。
普段仲の良い関係性であっても生活を共にするということは全く違います。私も結婚をした時に妻と些細なことで散々言い合いになったことを覚えています。それは、生活のリズムであったり、生活のルールであったりとさまざまですが、”よそゆきの顔”でない、”すの顔”で過ごす自宅だからこそ、そこにはその人それぞれの価値観が色濃く現れ、また、そこに価値観の違いが表面化していくのだと思います。結婚するというのは、そんな価値観の違いにどこかで折り合いをつけていくこと、これができれば夫婦関係は長続きし、どこかに違和感が残ってしまうと、それが亀裂の元となり、将来に離婚の一因となっていく…それくらい大きいものではないかと思います。この作品では、そもそも夫婦でもない、言ってみればかつて一時期友達として一緒の時間を過ごしたに過ぎない女性とその子供と暮らすことになった鈴音の違和感がさまざまに描かれていきます。『歯ブラシ』の感覚は上記した通りですが、もう一つ象徴的に描かれる『お風呂のこと』について見てみたいと思います。水絵から『お風呂のお湯、落とした?』と訊かれた鈴音は、『それがどうかしたの?』と返します。そこにこんな価値観の違いが表面化します。
・水絵: 『一回しか使ってないのに。もったいなくない?』
・鈴音: 『もともと実家でも、風呂の湯は毎回替えていた。ひとりになってからもその習慣は抜けていない』という鈴音は、『追い炊きするのにもガス代かかるでしょ』と返します。
・水絵: 『それにしたってもったいないよ』、『あんなに大きいお風呂なのに』
・鈴音: 『湯を抜いてしまえば、バスルームに湿気がこもることもないからカビも生えにくい』と言って『湯を抜いていた』『実家の母』を思い出します。そして、『毎日湯を張り替えても、水道代はたいしたことないわよ』
この会話で水絵はようやく黙ります。そして、鈴音は、このやりとりの中に、水絵に対して『少し面倒くさい』という感覚を覚えます。『居候なのに…水道代だって払うのは鈴音だ。それとも払ってくれるというのだろうか』という思いが去来します。しかし、一旦解決したかに見える『風呂の湯』問題は実際には解決していませんでした。数日後、こんなやりとりが交わされます。
・水絵: 『お風呂のお湯、抜かないでほしいの。���日洗濯したいし、残り湯の方が温度が高くて汚れが落ちるから』。
・鈴音:『わかったわ』と答えますが、違和感は残り続けます。
『温度の高い湯で洗うということより、人の入ったあとの湯で洗濯することを嫌がって、水道水で洗っていた』『実家の母』を思い出す鈴音。こんな部分にも『線引きの基準』という言葉が顔を出します。また、一人暮らしをしてきた鈴音にとって、子供の存在自体も違和感となる中に鈴音の心の中でさまざまな思いが渦巻いていきます。
・『まるで自分の家じゃないみたいだ』
そんな先に後悔の思いも顔を出します。
・『やはり、最初から泊めるべきではなかった。あそこで断って帰ってしまえば、それっきりだったのに、家の中に入れてしまえば追い出すのも大変だ』。
一方で、もし『あの日、水絵の申し出を断って帰れば、彼女はどうしただろう』と考える中に、
・『もしかして、そのまま耕太を連れて自殺とか…』、『やっぱりわたしが我慢して、彼女を部屋に置かなきゃならないの?』
そんな風に一人逡巡する鈴音の心の内が描かれていきます。この鈴音の心の内のもどかしい思いがこの作品ではそのまま読者に伝わってきます。それは、物語が鈴音視点から変わらないということもありますが、それ以上に水絵という人物の正体が判然としない中にひたすらに鈴音が悶々とする日々が描かれていくからだと思います。
・『間違いなく自分はお人好しだ。すっかり水絵にいいように操られている』。
・『どこかで線引きをすべきだが、どこで線を引いていいのかもわからない。実際に線を引いてみれば、それが間違いだったような気分にすらなる』。
物語は、そんな風にひたすらに逡巡し続ける鈴音を描く先に急展開を見せます。ミステリーな物語に用意されたある意味鮮やかな幕引き。しかし、そこには、なんとも言えないザラつきが残ったままになるのを感じました。『線引きの基準』を読者も自分のこととして考えてもしまうこの作品。「インフルエンス」、「私の命はあなたの命より軽い」といった作品と同じ、近藤さんらしい人の内面をザラザラと擦り上げていく、内面の不快感を煽るような、読む手を止められないサスペンスな物語がそこにはありました。
『自分は言いたいことは言える、しっかりした人間だと思っていた。その自信も揺らいでくる』。
高校時代の友達の『一週間でいいの。鈴音の家に泊めてほしいの』という頼みを断れなかったその先に、自分の家にそんな友達と子どもと共に暮らすことになった主人公・鈴音の内面を細やかに描写していくこの作品。そこには、”心理サスペンスの大傑作”ともうたわれる悶々とした物語が描かれていました。『線引きの基準』というものを考える中に、自らの立ち位置が揺らいでくるのも感じるこの作品。そんな中に、象徴的に使われる『歯ブラシ』の説得力になるほどと思うこの作品。
人の『線引きの基準』の違いによって、見えている世界が変化する、この作品の目の付け所の凄さに驚く素晴らしい作品でした。
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友だちとはなんなのか
女同士は年齢を重ねるにつれて環境の似た人と
親しくなっていく
それはもしかしたら自分にないものを
羨ましく思って苦しくなったり、妬ましくなったり、本来のその友人自体をみなくなってしまうのかもしれない
そんな自分も嫌になるから自然と距離が出来てしまうのかも。
この本を読んで、正直嫌な気持ちにもなった
家にお邪魔することが当たり前かのように
自分の不幸はみんなのせいであるかのように
振る舞う姿も、それを嫌と思いながら中途半端な優しさで自分が優越に浸りたい姿も。
結局みずえは何を思ってどんな人物だったのか
2人がそれっきりになってしまっては分かりようもない。
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近藤史恵さんの作品、初読です。
脚本家として順調に生活する鈴音は、ひょんなことから子連れの昔の友達、水絵を一週間自宅に泊めることに。
「心理サスペンスの傑作」と謳われる本書。心理描写が巧みです。物語の冒頭からして、今後の展開が「イヤな感じ」になっていくのではと想像つきます。
気持ちの探り合い、どこまで親切にすればいいのか、ちぐはぐで、上手く意思疎通ができない、そのすれ違いのせいで、余計にぎくしゃく。
読んでいてなかなかに疲れました。お互いにどこまで不器用なんだと。
心理サスペンスいいですね。
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これはなかなかの問題作…。
子供がいる立場上水絵の気持ちもわからなくはないけれど、それでもものすごくイライラしてしまった。
脚本家として活躍をする鈴音のもとへ10年ぶりに高校の友人の水絵から連絡が入る。
子連れの水絵は、1週間だけ居候させて欲しいと頭をさげる。
渋々ながらも応じた鈴音。ところがこの関係は1週間では終わらず、ずるずると続いていく。
施す側は、相手からは些細なことに思われるかもしれないけれども、自分の一部を相手に差し出しているわけで、感謝とわきまえを求めてしまう。
施される側は感謝はあるものの、相手は恵まれているのだからこれくらい当たり前、とどこかで思っている。
ボランティアでとよくあるすれ違いのようだけれども、今回は鈴音が望んで施したわけではなく、頼み込まれてやむなく手を差し伸べたもよであって、水絵側に冷たいだのなんだの言われる筋合いはないよな…。
しかもあれだけ大切にしていた子供を置いていくのは本当にありえない。
子供がとても大切で、失うことが怖いと泣いていた姿には共感したのに、その場の感情で飛び出してそのままにするってありえるのだろうか…。
最後子供がまともに育っていてよかった。
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一気に読了しました。子どもを連れて、高校時代の友人(独身)の家に居候する母と子を描いた小説。どんどん拡大していく甘えに、イライラしながらも先を読み進める。読後感の評価は別れると思いますが、私にとっては長く記憶に残る物語です。近藤史恵「はぶらし」、2012.9刊行、2014.10文庫。
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日常にありそうな物語。
水絵に終始苛立たされた。
自分も主人公の立場になった時強く言える自信がない。
読みやすかった。
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面白くて、先が気になって一気読み。
こうやって謙虚な雰囲気を出しながらも無理やり自分の要望を貫き通す…
みたいな人、いる。
こっちが居候を許してるのに、何故か罪悪感を感じて追い出せない…
みたいな人も、いる。
もっとしっかり言って!断って!とムカムカしたけど
お人好しの主人公が搾取されまくって終わり…でなくて良かった。
息子にとってもこれが最善だろう…
それにしても、息子連れて転がり込んで、良心に訴えて長居して、
あげく息子を置いて行方をくらますなんて自分勝手にも程がある…
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昔の友人から突然連絡があり、居候させて欲しいという、しかも子連れ。少しならと受け入れるとなんだかんだで長引くのでイライラさせられる。恐らくほとんど読者は居候されている側の気持ちで、どうしてくれるんだみたいなザワザワしたまま物語の先を追いかける。
作者が女性だから書けるだろうというところもあり、ある部分で居候側の気持ちもわかったりして、最後まで読んでいくらか納得して高い評価となるのか。まあ、そういう話かというエンディング。先が気になって一気に読んだから星4つにしたが、感想を書いていて星3かなというところ。
自転車レースの推理小説がとても面白かったので何冊か読んでいるが、それに並ぶような快作がない気がする。文章はとても上手いが女性の気持ちを表しすぎるのかしら。