紙の本
文学の希み
2016/03/25 23:36
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投稿者:諏訪耕志 - この投稿者のレビュー一覧を見る
本屋で表題作『五十鈴川の鴨』を立ち読みしはじめ、
これは腰を据えて読まなければ、と感じ、購入しました。
もともと、竹西氏の評論作品は長年の間に数多く読んできて、
深い感銘を受けてきたつもりでいたのですが、
わたし自身の不明から彼女の小説にはなぜかこころが向かなかった、
向き合えなかったのです。
しかし、わたしも年齢を相応に重ねてきたからなのか、
いま、この短編集のすべての物語において描かれている、
人というものの陰影の深さに、静かに、強く、こころを動かされています。
人のこころに寄り添うということが、
いったいどれほどの労力を用いるものなのか、
いかに細やかで粘り強い内なる力を要するかということを、
恥ずかしながら、よく分からずにいたのだと思います。
人のこころとは、
なんという尊さと聖さをもちうるものであり、
また怖しく、畏しいものであることだろう。
静かな調べを奏でている竹西氏の文章の奥深くに、
そのことへの畏怖が流れているのを感じます。
人というものを、深みから、細やかに、汲みとる。
文を刻むとは、その行為そのものであるように思われます。
そうして文学は、つまるところ、人というものへの希みと愛を想い出させる。
竹西氏の文章からそのことを改めて鮮烈に感じさせられています。
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一行一行・・・いや、一文字一文字が風景を展開させる。そして、こみ上げてくる感動。
こんな短い文章でこれだけの感動をいただいたことはなかったこと。
言葉が選ばれ、繊細に表現され、数行で一気に登場人物の人生がどっとわかってくる。
すばらしい作品群です。
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表題作「五十鈴川の鴨」と、「くじ」「桜」のみ読了。いずれも短編。
岩波文庫の媚びないフォントがよく似合う、濃い日本茶のような渋さと清々しさと。
戦争経験の確かな重みを感じつつ。感傷的にも感情的にもなりすぎず。適度な湿り気は残しつつ。
「品の良さ」ということを大事にしている方なんだろうなあ…と思いながら読みました。
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物凄く、地味と言えば地味です。
ぜったい、テレビドラマ化されたりしません。
「知り合いが、実は被爆者だった。原爆症で亡くなった。いろいろ大変やったんやろうなあ」
みたいなこととか。
「マイホームの購入説明会に行った初老の女性。
隣り合った男性とちょっと仲良く話すけど、まあ、なんということもなく無事に帰ってきた。
その後、再会したりは、ないです」
みたいなこととか。
そういう短編小説。
売れ線の物語小説と比較すると、「えっ?」という感じです。
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これが、実に面白かった。
舌を巻きました。
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読書会の課題図書。
竹西寛子さんという方は、まったく知らなかったです。
読書会の愉しみは色んな角度がありますが、こういう小説を発見できるのも、その一つ。
1929年広島市生まれ、という作者。
16歳で被爆、中心地を離れていて助かったけれど、知人友人の多くを失ったそうです。
その後、ネット情報によると、30代半ばまでは筑摩書房で働いていたそうですね。(筑摩書房さんは大好きです)
そこから、文学評論や小説を発表して、今にいたるそう。
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文章が、上手いなあ。
と言って、技巧を凝らしている、という印象でもないのです。
「どんな物語を語るのか」というよりも、
「どんな文章で語るのか」というところに、実に滋味があります。
ものすごく意識的に、充実して、張り詰めて、清冽に、文章が作られているなあ、と思いました。
#
なんでしょう。
同じ鯖の刺し身でも、貝柱の寿司でも、
100円回転寿司のソレと、中級クラスの寿司屋のソレと、
漁港の採れたてのソレと、こだわりの名店のソレでは、
それぞれに違うと思うんです。
この竹西さんの文章は、
「銀座の裏通り、あるいは京都の外れ、大阪の繁華街から外れた駅前。食べログに載るのも拒否しているこだわりの寿司屋の味」
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採れたての生々しい味わいぢゃないんです。
繊細に仕事して、味をつけてあって、バランスを整えて、旨味が回る頃を待って、そっと出される一品。
好みがありますから。
そんな勿体つけたのは嫌だ、もっと下町がっつりが良い、気取った味はごめんだよ、という人もいるでしょう。
竹西さんの文章は。
まかりまちがっても、醤油をぶっかけて口にこうりこむのは勿体無い。そのままで、絶妙の塩加減、仕事がしてあるんです。
好みはあるでしょうが。
あちこちで寿司を食べてきた人が食べれば、旨さは明瞭。
圧倒的です。
でも、この店の作り、この佇まい。
ま、売れることは無いんだろうなあ…混雑するのも嫌いだろうなあ、この板前さん… って、そういう味わい。
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まあ普通、若い人はそんなに好みぢゃ無いだろうなあ。
そして、読書の世界、の入り口で。
多くの人を引っ張り���んでくれるような役割は、悲しいくらいに望むべくもありません(笑)。
それぞれ、向き不向きがあります。
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どれもお話は。
具体的な暮らしの中の、ふっとした想い。はっとする気持ち。
歳月の味わい。静かな中によぎる仄かな熱さ。
そんなような、言っちゃうと小津映画みたいな老成した看板の作品。
なんですけど、小津映画も同様なんですが、語り口に込められた技術、決断、挑戦、センス。
そういう意味では、物凄く若々しい。
エネルギッシュな張り詰め方、充実感を感じる本でした。
#
2016年現在でいうと、恐らく87歳くらいのはずですね。
お元気なのかわかりませんが。
こういう作家さんは、ぜひぜひ90歳過ぎても、活躍していただきたい。
色んな美味しい酒、ジュース、ヨーグルト、などなどを飲んできて。
すらっとやっぱり。絶妙の仕事をしてある、一杯のレモン水。ああ、この美味しさヨ、という感動。
脱帽。
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2016.11.12 NHKAMラジオ 8:05~8:45 「朝のラジオ文芸館」半分くらい始まっていたが、引き込まれ最後まで聴いてしまった。アナウンサーによる朗読。
仕事で知り合った、男性二人の関係の物語である。
なにせ途中からなので、2人が男と女なのかと思ったが、仕事で知り合った男同士だと分かる。同性同士、なぜか惹かれ、話をし、気にかける関係に、こういう関係はなんと言ったらいいのだろう。だがその、相手に惹かれる、一緒にいると安らぐ、その感情のかもしだす空間は分かる。その空間が、ラジオから伝わってきた。最後はなんとも悲しいのだが、ぜひ文章で読みたいと思う。
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「最早生きては会えぬ岸部悠二と生前一通の私信さえ交わしたことのない私が、彼に向ってペンを取りたくなるなどいったい誰が予想しただろう」
同業他社の岸部とは年に数回会う相手だった。彼の消息を伝える女性の訪問により、私はその日の事を思い出す。
控えめな性質で、自分の事は語らず、独り身を通した岸部は、川を下りそしてまた登ってきた鴨の列を見て「いいなあ」と言ったのだ…
/五十鈴川の鴨
「ぼく、ずっと前、空にいる象を見たことがあるよ」
「ねえ、聴いて聞いて。あたしなら空を泳いでいるピアノを見たことがあるわ」
「わたしは、木になった魚を見たのよ」
子供たちの心に残る情景と、家族とのある日。
/木になった魚
展示用のモデルハウスを抽選に当たった人に格安で提供するという展示会に参加した未亡人と、男やもめ。
それぞれの胸に去来する思い…
/くじ
わたしは道べの木の下に佇む老女を見た。
その表情から、私は死を迎えた母を思う。
/雲間の月
「老人には、妻にみせたいものがあった」
娘たちも嫁ぎ老夫婦の二人暮らし。
身体に衰えを見せ始めた妻に、夫はかつて旅した比叡山でみた椿堂を訪れたいと思っていた。
自分が稀有の美しさを見たものを妻とともに見たいと思ったのだ…
/椿堂
老人がかつて住んでいた土地を見ている。
地主が生きていた頃、その好意で住まわせてもらっていた土地だ。
家は取り壊されていたが、庭にあった桜はまだ残っていた…。
/桜
金物屋のベテラン店員と、中学教師の触れ合いのような友情。
かつて人々が持っていた「取り立て」「お預け」システムの時代を生きていた店員の話に、教師の胸には自分の叔母との思い出が去来する。
/船底の旅
若くして死んだ甥の愛した女の土地で暮らすおけい、
男運に恵まれなかったすずの雇い主の紀代、
怪我の入院で先生の見舞いを受ける逸子。
ふとした思いに触れて、彼女たちはゆっくりと微笑む。
/氷の枕
夫の定年退職後の旅に出た老夫婦。
旅館の女将には、夫の名前に見覚えがあったのだ…。
/松風
取り壊す前日のお屋敷で、使用人の老人が巡らす想い。
「わたくしがあの屋敷へ参るのも、今日が最後でございます。ただ、さびしうございます」
屋敷に、庭に挨拶して回った老人は、まるで屋敷の溜息のような音を聞く。
それはこの屋敷からの最後の挨拶だったのだろうか。
/挨拶