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今さら読んだんですが、もうどっかで読んだような気も……タコツボ文化論で出てくる「『うち』の新聞社では」というくだりが面白かったですね。60年代から変わってないのね。
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四章構成。
論文形式で書かれた第一章・二章は極端に難しく、何を言っているのかさっぱり分からなかった。
今まで読んだ本に何度も引用されている本だから、という安直な理由で手に取ったことを激しく後悔させられた。
しかし、講演形式で書かれた第三章・四章は非常に分かりやすく、面白かった。
日常における「イメージの壁」の形成と弊害、日本の「たこつぼ型」の性質とその形成過程、などを説明している。
まあしかし、読むにはまだ早すぎたかな…という感が否めない笑
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なぜ日本には自国の思想変遷を扱う研究が起こらないのか?日本を取り巻く思想の特徴を丸山真男が省察する。
ここではキリスト教思想とギリシャ哲学が生きづいた西欧型の社会様式を「ササラ型」、日本のように根柢を成す思想が欠落し、個々が独自の発展を遂げている様式を「タコツボ型」とそれぞれ形容している。
日本に独自の思想が生まれにくい環境の一因は、社会及びに学術界が「タコツボ型」だからであり、それぞれの学問は雑居すれども雑種を生むことが困難になっている。具体例として第Ⅱ章では「文学」「科学」「政治」の断絶が取り上げられている。
また、明治の近代化に際してタコツボを繋ぐ紐帯として「国体思想」が掲げられ戦後に崩壊したこと、社会全体を包括する思想形態が欠落した日本にとって社会主義思想が特別な意味を成したことなどにも触れている。
こうした本章の論旨に基づけばおそらく戦後の日本政治は日米関係を重視することで一致していたはずだ。冷戦と9.11の後に起きた国際情勢の変化は今後日本に大きな転換をもたらすように思える。果たして日本は独自の思想を手にするのか、それとも他から紐帯を取り入れるのか。個人的にはこうした現代の日本政治の側面に照らし合わせて読み進んだ。
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ビジュアルな表現でイメージしやすく読みやすい。1961年の著作だがま古びていない。タコ壷型の組織の群れとそれをつなぐ画一的なマスコミ。今もまったくそのままと感じる。丸山真男を読むならこれがよい。
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そもそも、日本に無理から西洋文明を入れ込んだのが、根本的な無理があったような気がします。それでも、時代は、それに順応しようとする活動が盛んですが。
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この本は、「日本の思想」「近代日本の思想と文学」「思想のあり方について」「『である』ことと『する』こと」、の四章にわけて、日本の思想について説明している。
1・2章は著者が過去に書いた論文をまとめ直したもの、3・4章は著者が過去の講演をまとめたものとなっており、前半の文章は難解であるが、後半は語り口調となっており非常に読みやすくなっている。
第2章が文学についてかなり深いところまで述べられていたため、理解できないところが多かったのが残念だった。しかし、文学の中にも思想に影響を与えたものが多く、思想の本だけでなく、文学作品にも触れて、その中に隠れている思想を読み解いてみたいという新しい興味が生まれた。
また、第4章の「『である』ことと『する』こと」では、日本の近代化においての価値の転換について述べられており、昭和30年代の講演が元であったにも関わらず、現在読んでみても全然古くさくは感じられず、色あせないものに思われる文章であることがすばらしかった。
全体としては、「日本の思想」というタイトルにも関わらず読み進めていくほど、日本にはファンダメンタルな思想がないという皮肉めいた結論を思い知らされた。
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西欧やアメリカの知的世界で、今日でも民主主義の基本理念とか、民主主義の基礎づけとかほとんど何百年以来のテーマが繰り返し「問わ」れ、真正面から論議されている状況は、戦後数年で、「民主主義」が「もう分かっているよ」という雰囲気であしらわれる日本と、驚くべき対照をなしている。p16
権力のロゴスの自覚(国家理性の問題)p43
私生活の上にアイマイに、しかも重苦しく垂れこめる官僚支配あるいは組織の圧力は、日本社会の底辺から立昇った家父長的精神が「機構的合理性」に注油されて、ふたたび天降ってきたものまでが、土着的な心情の実感からはまさに近代的制度一般、組織一般の必然的なロジックとしてうけとられることになる。p50
一方で、「限界」の意識を知らぬ制度の物神化と、他方で規範意識にまで自己を高めぬ「自然状態」(実感)への密着は、日本の近代化が進行するにしたがって官僚的思考様式と庶民的もしくはローファー的(有島武郎の用語による)思考様式とのほとんど架橋しえない対立としてあらわれ、それが「組織と人間」の日本的なパターンをかたちづくっている。p52
ゲーテ「理論は灰色で、現実は緑だ」p62
近代ヨーロッパにおいて、それぞれ由緒と来歴をもち、さまざまな論理的組合せにおいて発展して来た思想的要素がただ一つの「科学的世界観」に凝縮されて芸術の世界にもちこまれ、マルクス主義がその綜合象徴として機能したところに、日本のプロレタリア文学史の、いな、プロレタリア文学を始点として展開した昭和文学史の光栄と悲惨があったのである。p82
トータルな理論がトータルな現実と対応し、したがって「正しい実践」が理論からいわば内在的必然性に出て来るという想定が作用しているところには、人格的決断はつねに一般的=普遍的なものープロレタリアートとか人民大衆とか世界観とかーに還元されるから、それだけ政治的責任の意識は退行するし、状況を自己の責任において操作する可能性も見失われてしまうのである。p94
各文化領域における「自律性」の模索 p112
マルクス主義においては、理論とイデオロギーがあいまいに混りあって「統一」されていたし、「ブルジョワ」科学は逆にあらゆるイデオロギー的制約を否定し、方法論のマスターベーションで「自律性」を確保するのに懸命になっていた。p117
【イメージが作り出す新しい現実】
ある対象について多くの人々が抱くイメージが共通してきますと、たとえばアメリカってのはこうゆう国だ、あるいはソヴィエトっていうのはこうゆう国だというような、漠然とした、それほど体系的に反省されていないような一つの像ですね、その共通の像というものが非常に拡がっていきますと、その化けものの方が本物よりもリアリティをもってくる。つまり本物自身の全体の姿というものを、われわれが感知し、確かめることができないので、現実にはそうゆうイメージを頼りにして、多くの人が判断し、行動していると、実際はそのイメージがどんなに幻想でもあり、間違っていようとも、どんなに原物と離れていようと、それにおかまいなく、そうゆうイメージが新たな現実を作り出していくーイリュージ��ンの方が現実よりも一層リアルな意味をもつという逆説的な事態が起こるのではないかと思うのであります。p127-128
「である」ことと「する」こと p153
「権利の上にねむる者」p154
「世の中にむつかしきことをする人を貴き人といひ、やすきことをする人を賤しき人といふなり」(福沢諭吉)p174
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「タコツボ」「ササラ」の有名な議論
http://ishibashi.tumblr.com/post/6111575902
https://skitch.com/zerobase/8j188/pdf141-210
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4部構成。1.「日本の思想」、2.「近代日本の思想と文学」、3.「思想のありかたについて」、4.「「である」ことと「する」こと」。
1、2は確かに難解で、1960年代における言論界の時代背景の理解が欠如しているためか、何をいっているのか正直なところチンプンカンプンの箇所も多かった。
1、2で語られるのは、日本人が古来から多様な思想を受容し、意識下に潜ませてきたことによる雑多性と、その裏返しとして根本的な哲学を持たない傾向があること。そこへ明治以降、根本原理を重視する西洋思想を表面的に取り入れようとして生じた混乱について。戦前は天皇制が、戦後はマルクス思想が擬似的な哲学として位置づけをもったこと。
3、4は講演の内容がベースになっており、語り口も平易でわかりやすい。3では、日本で特徴的な「タコツボ」型社会について。4では、レッテル貼り、カテゴライズの結果としての「である」発想が日本の特徴であることを示しつつ、実際の行動を評価する「する」発想が求められることが述べられる。
本書は3、4を先に読むと比較的わかりやすいかもしれない。社会論としても奥深いが、人生論としても鋭い指摘が多い。一読ではなく、2回、3回と読み継ぐことで価値がわかってくる一冊ではあると思う。
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原子力ムラという極めて閉鎖的な利権集団が生まれる社会的文脈を理解する上で、50年以上も経過した本書の鋭敏な社会分析は今もなおその核心を捉えて離さない。
『Ⅲ 思想のあり方について』(1957年6月)、『Ⅳ 「である」ことと「する」こと』(1958年10月)は講演体なので、著書の思想に初めて触れる方でもすんなり読める。
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【To beかTo doか】
本書は4つのチャプターに分かれているのだが、私が読破したのは3・4章のみ。それ以外は元々興味がなかったので無視してしまった。印象深いのは、4章の『「である」ことと「する」こと』。現代社会は、既存の状態や、地位、身分ばかりを見てしまい(「である」こと)、ある状態から何が起こったのか、又はその人が何をしたのか(「する」こと)に関して、注意を払わないことが多いと述べる。このことを踏まえれば、筆者が職業としての政治を批判する理由も理解出来る。
これから人生を歩む中で、「自分は何が出来るのか」を常に問い、「であること」に安住することの無いようにしたいものである。
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Ⅳ.「である」ことと「する」こと印象的だった。
憲法第12条「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によってこれを保持しなければならない」。自由「である」という状態に安住するのではなく、日々自由になろうと「する」という努力によって、初めて自由でありうる。自由は与えられたものではなく、獲得していくものと強く感じました。
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それぞれ独立した四章からなる。
第一章の後半から第二章はほとんど理解できず……。2回読んでも同じことだったので、読み方が悪かったのではなく単に前提知識がなさすぎたということだろう。
第三章から第四章は講演が基になっているので比較的理解しやすかった。
日本のアカデミーが各分野で独立し、分野間の交流がない「タコツボ」型になっているのは、すべての学問の根っこたる哲学がない故という説明に納得。西欧ではまず哲学があり、そこから様々な学問が発展していったが、日本は明治以降にその各分野のみを輸入した。
第一章も、「機軸たる伝統思想のない日本」を説いている前半はわかりやすかった。
伝統思想がないから、逆になんでも吸収してきた日本。しかし「何もないのが神道であり、やまとごころである」といって漢意(からごころ)を排除しようとした国学者たちの矛盾を指摘した部分がおもしろかった。
明治の偉い人たちが西欧列強に肩を並べんとする新しい国の機軸として編み出したのが天皇制だった。個人的にはこれはあながち間違ったことではなかったと思うが、残念なことに著者がその誤謬を説いていくあたりから内容が理解できなくなってしまった。
さて、戦後またもや日本は「機軸」を失ってしまった(新憲法下における天皇の求心力的な意味で)。
戦前の天皇制に代わる機軸とは何だろうか?
漠然としたイメージでしかないが、個人的には「人と人とのつながり」がそれではないかと思っている。
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佐伯啓思先生の授業で扱ったのですが、難しすぎて分からなかったお(^q^)
私らの1mくらい上で丸山真男が一人ふわふわ喋ってる感じ。
という感想を友人と共有しました。
2章のキーワード・マルクス主義について誰か教えてほしい
一体なんだったんだ
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1961年の本。
でら面白い。
でもむずい。
もう50年も前の本なのに全然古くない。
「学問のすすめ(福沢諭吉)」を読んだ時にも書いたけれど、
これが「古くない」と感じてしまう社会状況事態が悲しいと思う。
けれども、
この「変わらなさ」をもう認めてしまったほうが、
よろしいのではないかな。
東浩紀も言っていたけれど、
そこからでしか、
今後の日本の思想は語れないだろうし。
「日本辺境論(内田樹)」と併せて読むと、
なかなかエキサイティングな感じ。
後半2章が抜群に面白い。
「タコツボ化」という言葉はこの人が初めて使ったみたい。
この頃から既に専門化(タコツボ化)が進んでいて、
マスコミがそれを繋ぐ役割を担っているという話があったけれど、
今ではその役割は「個人」に移りつつあると思う。
また、
「である」と「する」という二つの分類法は秀逸。
「である」論理、「である」価値から、
「する」論理、「する」価値への相対的な重点の移動というのは、
封建主義社会から民主主義社会への移行を意味している。
例えば、
武士「である」ことから自己を立ち上げるというような、
社会的な役割により個人の性質が決まるというのが「である」社会。
逆に、
各々の行動により個人の性質が決まるというのが「する」社会。
憲法十二条にある、
「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」
という条文がそれを端的に表しているけれど、
民主主義は人民が制度を耐えず監視し批判することによって成り立っているわけです。
しかし、
この本にあるように、
一方で「する」価値が猛烈な勢いで浸透しながら、
他方では強靭に「である」価値が根をはり、
そのうえ、「する」原理をたてまえとする組織が、
しばしば「である」社会のモラルによってセメント化されてきたことによって、
かなり倒錯的な状況になっていると言える。
「客である」ことで、まるで神か仏のように振る舞う人(「である」のいきすぎ)や、
「使う」見地から、なんでもかんでも商品に仕立て上げる人(「する」のいきすぎ)など、
この二つの価値のどちらが優れているということではなく、
適所に配置することが大切なのだな。
今でも十二分に通用する社会分析だと思います。