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西陣更紗とかで読んだ。内田樹の本からこっちへ来た。読んでたときは知的好奇心を(たいていのところで)感じながら読めたが、今ではちょっと内容を思い出すのが厳しい。やはり感想はすぐ書かねば…。日本の「精神史」研究がなかったこと、外来思想とは、伝統とは…。日本のアイデンティティを考えるために読みたかった本。日本では、思想を歴史的に位置づけることができないということ。外来なのか、伝統なのか。仏教は精神的雑居性を認めるが、キリスト教は整理する思想であること。それと神道の包容力。これが、嫌い思想すら含む日本の「伝統」を形づくってきた。思想の内在的な批判が、西洋ではマルクス主義から、日本では古来から行われてきたこと。ただ近代では、日本の社会的文脈抜きに、現実の日本での検証を経ずに思想に基づいた行動が取られていたこと。そもそも戦時に西洋の宗教に変わる国民を統一するものとして「國體」の思想が生み出されたこと。近代組織のロジックと村落共同体のロジック。
すんごい網羅的になっちゃった。上野は1章の途中までかな。1,3,4章が好き。特に1章はすんごく勉強になる。時々頭の中で思考に持ち出せるようにしたい。
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メモ
第1章
・歴史→伝統への恣意性
・欧州人の自己批判。前提としてのキリスト教との対峙による緊張感
・過去の堆積がまったくない。にもかかわらず、今日に至ってなお普遍的なテーマである「民主主義」や「人権」に対して、「もうそれはいいよ」という無関心。
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岩波青本が誇る名著の一つ。
巨人丸山の思想に賛否色々あろうが、この人物を巡って今も議論が起きるということはやはり「痛いところ」を突いているからだろう。
この意味で丸山の思想自体が日本の「共通知」となり、社会科学の礎となっている。
意味がよく分からなくても我慢して読まなければならない本は幾つかあろうが、この本はそれに当たる。ともかく必読の書。
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長男が学校で読んで感激して薦めてくれた『「である」ことと「する」こと』を読む.著者の主張は近代になって登場した政治というシステム,特に民主主義では「である」(社会や制度の状態)という価値よりも「する」(行動とその結果)ことの価値が大切にされるべきであるということ.なかなか読み応えがあるし,考えさせられる.
「民主主義はやや逆説的な表現になりますが,非政治的な市民の政治的関心によって,また「政界」以外の領域からの政治的な発言と行動によってはじめて支えられている」.私自身に猛省を促すような言葉だけれども,この「非政治的な市民の政治的関心」が社会全体に薄れてきたこと自体が民主主義の危うさを示しているのかもしれない.政治にカリスマが求められ,社会全体でトップダウンの効率的な経営が求められるのこの世で本質的に時間のかかる民主主義は生き残れるのだろうか.
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[2013-01-16]
1回目読了。
Ⅳの「『である』ことと『すること』」は、Ⅰの「日本の思想」をより平易な表現で分かりやすく説明している。
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日本の思想=神道の「無限抱擁」性と思想的雑居性。
つまり、あらゆるものを受け入れつつ、なにものをも受け入れない。
→cf 柄谷行人「日本精神研究」によれば、分裂症的気質になる、とのこと。
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「開国」による押しつけられた「近代化」
上のような日本の「寛容の思想」を原理的に否認したものが、明治におけるキリスト教であり、大正末期からのマルクス主義。
=思想の雑居的寛容という伝統ゆえに、日本が持つ寛容性を否定する近代思想に対する激しい不寛容というディレンマ。
→日本は近代化しきれずにきた国家。
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「動物化するポストモダン」の以下の記述を参照。
⇒「十分に近代化されていないこの国は、逆にもっとも容易にポストモダン化されうる…日本では近代的な人間観が浸透していないがゆえに逆にポストモダン的な主体の崩壊にも抵抗感なく適応することができる。」(p28)
→60年代に入り、和辻や三木等が世界の最先端を行く思想だとして再評価された歴史。
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図書館で書庫から出してもらったら、古文書のようなクタクタの本が出てきました。
内容は、ところどころ言っている事が分かる程度の理解で、全体を通してはまったく歯が立ちませんでした。でも、最後まで目を通した自分を評価したいです。
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著者による論文4本からなる新書。内容は我が国の思想の根底を探ったものである。
コメントとしては、第一に、これが新書か!と言いたくなるほど、文章が難解である点である。確かに、内容が抽象的かつ高度なので、仕方ない面がある。しかし、一文が長く、主語が把握しづらいなどの、いわゆる悪文も含まれていたので、何とかならなかったのか、と思った。第二には、現代でも当てはまる主張が含まれているという点である。例えばには、組織や専門領域がタコツボ化し易いという主張である。具体的に、時が経つにつれ、専門領域や組織の細分化が進むようになるが、専門領域や組織の交流がなくなり、タコツボ化してしまう。これについては、現代の我が国においても言えること(例えば、いわゆる原子力ムラ)であり、これを打開するにはどうすべきかは、悩ましいことであるが、考えないといけないことであると言えよう。
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日本の思想という、今にも繫がる視点からかかれたもの。
ヨーロッパが共通の基礎的連帯があるが、日本はない。(昔は國體意識はあったが)なので、ササラ型ではなくタコツボ型なありかたである。そこでは、分化していて相互のコミュニケーションが不足しがちである。そこで、登場するのがマスコミ。マスコミは共通の場を作る一方でその理論を浸透させようとする。だが、マスコミ自体もやはりタコツボであるから共通のコミュニケーションがない。
タコツボでは、「である」という状態が特に意識される。
本来「する」領域でも「である」が居座っている。なので、「である」で見てしまい反省できないことがある。
「である」により、政治も専門家のなかに閉じ込まれてしまう。たこつぼ?国の制度も「である」で判断しがち。とにかく、「する」でみないと民主主義や政治が自己目的してしまいがち。
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丸山眞男と聞いてまず想起するのは、何と言っても『論座』の赤木智弘氏の論文『「丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。』である。
格差の拡大再生産がまかり通る社会を転覆させたい、そのためなら戦争状態も吝かでない、という赤木論文のイメージが強烈だった。
マルクス主義が一時的に社会科学を席巻した背景には、超学問形態的な体系を進んで取り入れるという、日本の知的世界の下地があった、という本書の指摘は非常に面白かった。翻って赤木氏からすれば、観察者に徹して上から目線にあれこれ指摘する丸山の態度が鼻持ちならないのだろうか。
何にせよ、難解な文章で、多くのミスリードを犯してしまっている気がする。要再読。
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(1999.02.11読了)(1998.10.01購入)
(「BOOK」データベースより)
現代日本の思想が当面する問題は何か。その日本的特質はどこにあり、何に由来するものなのか。日本人の内面生活における思想の入りこみかた、それらの相互関係を構造的な視角から追究していくことによって、新しい時代の思想を創造するために、いかなる方法意識が必要であるかを問う。日本の思想のありかたを浮き彫りにした文明論的考察。
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本書との出会いがなければ,おそらく私は政治学を志そうとはしなかったでしょう。そんなきっかけとなった本の一つです。
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「である」ことと「する」ことの違いや、日本の思想の発達の方法、政治についての解釈など、非常に興味深かった。まだ十分に理解はできていないので、また読んでみたい本。
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内容は非常に難しいが、必死に主張を追っていくとまぁ言っていることは共感出来るところもあるし、一方でバイアスがかかった捉え方をしているのでは?と思うところもある。(1960年に書かれた本なので、自分は当時の日本人の価値観をしらないが)
ただ、読んでいて思ったのは、
これって何を目的に色々主張しているの?
この主張の意味って何?
ということ。
以下は本書とは全然関係ないのだが、読んで思ったことを書く。
なーんか社会の根源にある(かもしれないし、ないかもしれない。客観的には誰も認識出来ない)問題っぽいのを抽象的に語ってみせて、
これが今顕在化している色々な問題の全ての原因だ!みたいに言ってアジってるだけじゃないの? とも思った。
社会学者はいつもこんなこと言ってるイメージ。
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I・II章は,自分の知識(と読解力)不足のためか,消化不良だった。
しかし,読みにくい文体だなぁ。約50年前の本ということもあるけど,複文・暗喩が多くて,一文も長い。こんなこと言ってたら類書は読めないのかもしれないけど。
また挑戦しよう。
III章は,日本の大学が「タコツボ」化しているところまでは納得できたが,それを社会全体に敷衍していくところは「うーん」といった感じ。別に日本社会だけじゃないだろうし…。
また,
「あらゆる集団のタコツボ化というこの現実というものを十分ふんまえて出発するということが,いろいろな意味で大事なことであるにもかかわらず,とかくそういうことが忘れられがち」(147頁)
とあるけど,なぜ大事なのかは書かれていない。それまでの記述で十分わかるだろうということか。
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全部は読まなかった。丁寧に読んだのは「思想のあり方について」のみ。「『である』ことと『する』こと」も含め、他の章はほぼ流し読み。
自分の教養のため、と思って手に取った一冊だったが、国体とかイデオロギーの話はやはりピンと来なかった。
日本がタコツボ社会で、特殊だ奇妙だという主張はやや乱暴に思えた。アメリカも往々にしてタコツボ社会のように思えるし、現代ヨーロッパ(の中流階級以下)も概してタコツボなのではないかと思う。クラブとかサロンがある社会はヨーロッパ上流階級にしか当てはまらない議論なのではないか。