紙の本
騙されました
2006/10/16 10:51
27人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:塩津計 - この投稿者のレビュー一覧を見る
「羊の歌」とは著者の加藤周一が未年に生まれたことからつけたもの。本書を読んだのは中学3年生で、当時通っていた駿台被害氏小金井校で、国語を担当していた故原先生から「面白いから読んで見なさい」と薦められたから。読んでみて確かに面白い部分はあった。著者の加藤周一は旧制府立一中(日比谷高校)から旧制一高、東京大医学部と進む大秀才で、その一中受験の情景描写がその当時の私の姿に重なって、そこだけは面白かったのだ。しかし、まさか、この加藤周一がいわゆる朝日新聞が大好きなゴリゴリの左翼で反米の進歩は知識人だったとは気がつかなかった。その後、加藤周一が吐き出す反吐のような反政府反米反安保の言動を知るに付け、なんで加藤の文章なんか読んだんだろうと後悔することしきりだった。子供に本を薦めるときは、よくよく考えねばならないと、そのとき思った次第である。
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『日本文学史序説』を執筆したり、大百科事典の編集長を務めたりした知の巨人の回想録。
多くの知識人の自叙伝などを読んで思うことは、幼い頃から本に囲まれて育ち、
世界との距離という意識が根付いていることである。僕は小さい頃はあまり
本を読まなかったから、自分に決定的に損なわれているそのような感覚に
絶望しながらこの本を読んだが、一つだけ嬉しかったのは加藤が僕と同じ夢
を見ていたことである。
それは幼い頃に病床に伏す度に何度も見た夢の話であり、巨大な車輪に押しつぶされる
というものであった。僕も小さな頃から現在に至るまで(最も幼い頃のように
熱狂的に熱病に心酔することもないのだが)同じような夢を見ていた。
その夢の中で、僕は自分の吐いたゲロに押しつぶされそうになる。自分の吐いたゲロが
雪山を転がり落ちる雪玉のように段々と大きくなりながら、僕を追いかけ押しつぶすのだ。
僕はその夢が怖かったが、熱でうなされると何だかその夢が見たくなるものだった。
そのことに自分が自分であることの確認を求めていたのかもしれない。
まあ、今となっては覚えていないけれど。
様々な人と様々なことを話すけれど、このようなことはなかなか話すことは出来ない。
そんなことを知の巨人と語らえたのは、本のなせる凄い業であり、
これからも読書をしたいという気持ちになるのである。
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[ 内容 ]
「現代日本人の平均に近い一人の人間がどういう条件の下にでき上ったか、例を自分にとって語ろう」と著者はいう。
しかし、ここには羊の歳に生れ、戦争とファシズムの荒れ狂う風土の中で、自立した精神を持ち、時世に埋没することなく生き続けた、決して平均でない力強い一個性の形成を見出すことができる。
[ 目次 ]
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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昭和の偉大な頭脳が自らの人生を振り返り、その中から時代を考察する内容。今まで読んだ本の中で、一番美しい日本語のエッセイだと思います。何度も読み返したい一冊。
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さすが、読み応えありです。第二次大戦前後の日本の様子、この方だから書ける視点があり、面白かったです。ただちょっと漢字等の表記が古く、読みにくいかな。
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裕福な家に生まれた幼年期から、太平洋戦争終了の青年期までの回想録。
すんなり面白く読めたけど、
思い返して心に残ったのは、ほんの少しだけ触れられているお芝居を見たという記述。
とても鮮烈な印象を受けました。
それ以外は、うーん。
読んでいて、楽しかったのだけれど。
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平均的日本人の自伝というが、特殊だと思うが・・・。しかし普通のことを学び続けたことは一般的知識人とも言える。
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必要あって久しぶりに読んだら、あまりに面白い。こんなにも引き込まれる本だったとは。何歳で読むかによってこれほど印象、評価がかわる本も珍しいかもしれない。でも本当のところ、それはこの本のせいではなくて、現在の僕の状態のせいかもしれません。
内容の紹介の必要はない名著だけど、いちおう書いておくと、加藤周一の自伝。戦後知性の頂点による自伝なんだからつまらないはずはない。
しかし、東京は渋谷宮益坂の左右に広大な土地と大量の貸家を所有する元陸軍大佐を祖父とし、その娘を母(病気で寝ている子どもに琴をひいて聞かせるような人)とし、多くの財閥系有力者の主治医である父(これも熊谷の大地主の息子)が経営する医院を兼ねる邸宅(渋谷の祖父宅の隣)に住み、公立学校の現職教員を家庭教師に雇いつつ、戦前期にもかかわらず超リベラルな教育を享受、さらには飛び級して東大医学部に進む自分を「現代日本人の平均にちかい」と表現できるのも、また別の才能である。富の偏在や貧困に対するあまりの無理解。そんな精神で戦前の右傾化を理解できたのか。戦後進歩派の栄光と悲惨。
著者の誕生から終戦までが本書。続編は終戦から安保まで。
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評論家・加藤周一の自伝。幼少期~終戦(26歳)までが描かれている。医学部生でありながら仏文学研究室の学生や教員と語らい過ごしていた…。正に、戦時中の隠れ家的な大学生活に羨望を抱かざるを得ない。また、戦時中の空気感を見事に描いており、しかもその文章が非常に読みやすい。著者の他の文章も読みたくなった。
九州大学
ニックネーム:Roa
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日本が戦争に突入する過程・その渦中を、当時のインテリ大学生がどう見て、どう生きたか。戦争に関する客観的な分析の本よりずっとおもしろい。
社会が「国民精神総動員」に向かっていたとき、著者は自分なりの世の中の流れへの解釈・批判を捨てなかった。むしろ、捨てられたらどんなに楽だろうと思いながら、捨てきれなかった。
信じきれないスローガンを掲げる軍国「日本」よりも、開戦の日に観た文楽の世界に現れる「日本」が、著者にとっての親しんだ故郷であった。
戦時中の東京を、生きていたのではなく、眺めていた。
つまりその場に生きながら、歴史の中の東京を見ていた、著者の証言はとても重いと思う。
社会の流れが、自分にとってどうすることもできないものでも、それについて知りたいと思う、理解したいと思う。
そのことについて、ベトナム戦争で死んだ子供のことを、気にしたところでどうすることもできないのに何のために気にするのだろうか、というエピソードにつなげている場面がある。
「『知ったところで、どうしようもないじゃないか』―たしかに、どうしようもない。しかし『だから知りたくない』という人間と、『それでも知っていたい』という人間があるだろう。前者がまちがっているという理くつは、私にはない。ただ私は私自身が後者に属すると感じるだけである」。
だからこの人は学者なんだなあと感じる。
とても謙虚で正確な言葉を使う。
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評論家の加藤周一が、みずからの半生を振り返った自伝。上巻では、著者の少年時代から、敗戦を迎えた医学生時代までが語られています。
「あとがき」で著者は、「私の一身のいくらか現代日本人の平均にちかいことに思い到った」と、韜晦していますが、本書に描かれた著者の姿は、西欧の文明の香りを身にまとった祖父や、合理主義を報じる医師の父のもとで生まれ、文学や科学に対する早熟な関心を見せるなど、およそ「現代日本人の平均」とは言い難いものです。
若い早熟な知性が、知の世界への上昇を夢見るとともに、足下の人間関係や軍国主義の日本に対する思いを屈折させていく様子が見事に描かれており、優れた自伝文学になっているのではないかと思います。
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この書物は、帝国主義、世界大戦など困難な時代を背景に、旧制高校や帝国大学などで学びながら、教師、友人や家族とのつながりのなかで、また医師という自らの職業の実践を通して、時代に流されることなく「人の生命こそもっとも重いもの」との考えを育み、反戦を訴えてきた筆者の大叙事詩である。
筆者は、能や歌舞伎など、日本の伝統芸能にも若いころから親しんでいるが、とくに灯火管制の敷かれた1941年12月8日の新橋演舞場で、まったく観客がいない中で自身が観客として体験した文楽の場面など興味深いエピソードがたくさんあった。
ショパンの音楽とのかかわりも興味深い。ロマン主義の中でもショパンの音楽は独特な位置を占めていて、深い内省が美しい音楽の至るところに秘められている。蓄音機や演奏会の体験を通じ、ショパンの音楽は筆者を惹きつけてやまなかった。
一つひとつのエピソードが、困難さを背景にしながらも、ロマン主義的なストーリーを形作っており、読んでいるだけで例えばラフマニノフのピアノ協奏曲第二番を聴いているような気さえする書物だった。
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戦前から終戦までの時代の雰囲気がよく伝わってくる。
特に、日常の何気ない風景や、街の佇まい、自然の美しさなどに心を動かされるところが印象的である。
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終戦までの半生をつづった加藤周一さんの回顧録。
"旅行者は土地の人々と別の風景を見るのではなく、
同じ風景に別の意味を見出すのであり、またその故
にしばしば土地の人々を苛立たせるのである。"
加藤さんはこう書いているが、まさにここでいう旅行者
のような視点を常に持っていたのが、ほかでもない
加藤さん本人だったんだろう。
だからこそ、大本営発表に沿ったことしか書かない
当時の新聞からでも、その微妙な書き方の変化を
嗅ぎ取って、終戦を予測することもできた。
今の世界的な不況(と言われている状況)や、舵を
失った日本の政治は、こういう視点で見るとどう
見えるのか。
ぜひ聞いてみたかった、と思わせる説得力が著者の
言葉から感じられる。
昨年の岩波新書創刊70周年記念フェアでこの本を
購入し、その少し後に加藤さんの訃報を聞いた。
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作者の幼少期〜医学部卒業後すぐくらいまでを描いている。どこまでが事実でそうでないものがどれくらいあるのかは(まだ調べていないので)わからないが・・
開戦の日、他に誰もいない文楽の劇場に一人赴く筆者や、開戦後も仏文研究室で教授、友人たちと文学について論じ合う箇所は、一見すると無責任な高等遊民たちのようにも思えるが、筆者やその仲間たちは、何かと比較した結果あえて他のものを無視しあるいは軽視し、芸術至上主義的に振舞っていたのではない。戦時中であれ平時であれ、彼らは好きなものに忠実に、ただ淡々と没頭しているように感じた。こうした態度こそが、作者の文学ないし芸術への純粋な愛を示しているのではないか。
しかし、文学に没頭できるというのは、そうでなくとも優秀な東京大学の教授、学生と対等に議論し、文学を楽しめるということは、並みの人間にはできない。なんでもないように書いているが、相当の実力を伴わないと仲間に入れてもらうことはできない。それは、私自身が体験したことだから。私自身の劣等感と今でも強く結びついていることだから、わかる。ただ、当時の大学生はそもそも今と違い、作家横光利一に議論をふっかけたり、今日でも著名な教授たちに自分たちの意見を伝えることも難なくできたのかもしれない。少なくとも自分には、そんなことはできなかった。
幼少期の記述も、いかにも良家の子息という感じの所感で、田舎育ちの私には、決して作者がいうように「平均的な」人間を描いているとは言えないのではないかと感じた。一方で、自分自身が「世間知らず」であることに作者は最初から自覚的であり、あくまで冷静に、できるだけ中立的な視点で筆を進めようとしていることはわかったし、戦死した旧友を思う気持ちや、自分に全く関係のないはずのベトナム戦争の話を知りたがる(知っていたい)という態度も、冷徹そうに思える作者の、人としての真摯さ、人間らしさの伝わる箇所ではないかと思った。
福永武彦、渡辺一夫先生、小林秀雄など、人物との交流が同時代人として具体的なエピソードで語られているのがたいへん興味深かった。