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面白かった。
宇野常寛・朴順梨・小林よしのり・萱野捻人・与那覇潤
5人の対談と宇野氏とそれぞれの人たちとの対談。
ナショナリズムとは何か?ネトウヨとは?
インターネット?ネットメディアとは?
安倍政権とは。左翼は?
と、とても面白く。共感する内容も多くいい本だと思います。
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ここ数年「ネトウヨ」の裾野が拡大していると感じている。私は自分のことを保守的な考えであるとしているが、どうもそっち系の人達の考えが理解できない、というより気味が悪い。この本はそんな気味悪さの原因が書かれている。「週刊誌も書籍も読者が喜ぶからという商売至上主義で憎韓・反中の書籍ばかり、日本の言論は著しく劣化している」「今この国の社会には隣国の人々を蔑まないと自信が持てない、卑しい人々が増えている」そしてこの本の結論はこうだ「排外主義に対し妥協なき戦いを完遂するため、自分自身の中の卑しさと手を切り差別を生まないための戦いを続けること」心に留めておかねばならない。
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ネトウヨと呼ばれながら、右翼的思想(歴史観)を持たず、国益に反する言動を取っていること。阿部首相が「爺ちゃんの名にかけて」(笑)政治を行っていることは、なんとなく理解できた。 以下、引用省略
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同名のシンポジウム討論の書籍化。
宇野常寛、與覇那潤、萱野稔人、小林よしのり、朴順梨の5名が、ネトウヨ=排外的ナショナリズムの問題について討論する。
そのほかに「宇野×萱野」「宇野×與覇那」の対談も掲載されている。
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非常に良い本だった。ネトウヨとパヨクの論争に疲れている人にぴったりである。いままでもやもやしていたものがコンパクトに整理されている。これを起点に、ネット右翼関連の本を読むのが良いだろう。
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森友文書に端を発したこのところの二元論の論争が極まった(と思いたい)今日において、大変興味深い対談だ。問題を個々の、やれネトウヨだパヨクだなどと矮小化せずに、二元論がもたらす分断こそが無意味であり、害悪なのだと読み取った。そのどちらにも同じ低いレイヤーでの価値、論争に絡めとられることなく睥睨していくことを自ら誓うとともに、この状況こそを敵視していくべきと感じた。トラウマと劣等感に多くを拠る政治を展開する安倍晋三が分断による利を得る漁夫とはとても思えないが、原因となった以上安倍政権には反対していく所存だ。ならび、真の漁夫を辛抱強く、慎重に見極め、拒み続ける姿勢を保っていきたい。
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計3本の対談を収録。ネトウヨの台頭に対し、リベラル側も具体論を以て相手に対応せず、「ネトウヨはバカ」という印象論による逆レッテル貼りしかしていないという宇野氏の指摘する状況は本書の刊行から5年経過している現在も変わっていないように思える。また、ネトウヨ的な言説に陥らないためのひとつの処方箋として、宇野氏や小林氏のサロン的取組に見出される「オタク的な『情報戦』に終始しがちな今の『政治』や『外交』のイメージを、生活実感や、生の人間関係込みのものに広げるむことで補っていこうという発想」は重要と感じられた。
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ネトウヨというのは本当に存在するのだろうか。本書を読み終えてわからなくなった。
無責任なレッテル貼り、という言葉が好きな人がいるが、その人の個人ファンクラブがネトウヨなの? 中韓がムカツクからやりかえしたいという反射的な発想がネトウヨ? それだとネトウヨという呼び方自体も無責任なレッテル貼りのような。けど無責任なレッテル貼りってネトウヨの特技だよね?
朧げながらみえてくるのは、ナショナリズムと国益とネトウヨは、同一線上には必ずしもない、ということだ。ナショナリズムへのカウンターは別の形のナショナリズムだ。けれど、ネトウヨには必ずしも信じる国益があるわけでなない場合も多い、らしい。
で、リベラルは、ネトウヨは馬鹿だ、と罵って満足する。
印象操作と具体論を使い分ける政権に対して、リベラルは印象操作オンリー。なるほどねえ。
さて、本書はシンポジウムの加筆修正が中心になっているのだが、考えが異なるであろうメンバーの差異がそれほど強く出ていない。小林よしのりはネトウヨの誕生に影響を与えたといわれるが、そのためか、かなり自分の思想が届く範囲を限定して語るようになっているらしい。まあ一口でいえば物足りないが、しかしなんか言うだけで攻撃されてしまうのだろう。そしてその小林を交えたシンポジウム、というものを開けば、それで今度は他の参加者も攻撃されうる。
議論の中身を吟味しろ、物語をつかめ、文脈をつかみ、歴史感を持て。要するにそういうことなのだが、それが出来ないのが「ネトウヨ化する日本」ということだ。冒頭に書いたレッテル貼り合戦のような卑しさこそが。