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投稿者:ぽにょ - この投稿者のレビュー一覧を見る
結局今も昔もプロパガンダの方法は変わらない。ネットなどの情報網が発達している今の方がプロパガンダは効果的か?これを読むと、いかに人が成長していないかがわかる。本書をを読むと、人には情報を得て、それを考える力が求められていることがわかる。しかし、それができていない日本人が多くて、悲壮感みたいなのを感じる。
プロパガンダのパターン
2020/05/31 13:23
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投稿者:笹の旗 - この投稿者のレビュー一覧を見る
参考になりました。10章で構成され、各章で一つの法則が解説されています。読了して、日常の身近なところでも、見聞きすることがあると実感したところです。
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読み終わってないけれども
集団的自衛権が盛り上がっているいま
読んどくべき本
そうかこうやって戦争に導かれるんだな
今もこの道のりを着実に歩んでるな
戦争なんて他人事や過去の話じゃないな
『戦争広告代理店』とともに
こうやって誘導されちゃうんだなと
客観視できるようになるいい本
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「異教徒の命を奪うのは『殺人』ではなく、『徴悪』である。」
戦争に突入する際、またその最中に使われる10の言葉。われわれは戦争をしたくない。しかし、仕方ない。戦争をするには国民の支持が必要である。それがなければ、ヴェトナム戦争時のアメリカのようになるだろう。大義名分を掲げ、世論を味方につけなければならない。マジョリティを引き込む。自分たちは正しいのだ。それを批判するのは敵だ。
10の言葉は、いたるところで使えそうだ。社内政治。
覚えておいて損はない。
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戦争正当化のためのプロパガンダは、昔から使われている手法であることを述べた本。確かに!と自分の実感に思い当たる記述が多く、納得しながら読めた。
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内容が悪いわけではない.
実際示唆に富む内容だと思う.
しかし,目次を読めば事足りることも,また事実.
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「われわれは戦争をしたくはない」「しかし敵側が一方的に戦争を望んだ」から始まる10の法則。
第一次世界大戦など過去の戦争における事例に見る、いわば「戦争あるある」。
裏にある経済的な利益や政治的な野心は隠され、国と国が戦い、人々が死んできた。
情報に流されやすい人類の愚かな歴史から、今も愚かな我々は疑うことを学ばなければならないのだろう。
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1928年に出版された10の法則がいまだに当てはまることに衝撃。民衆が、何が真実なのか見極める情報判断力がないと、歴史が繰り返されるばかりということか。
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"戦争は、どちらの側にも正義があり、どちらの側も残虐な敵であり、どちらの側の大義も神聖なるもので、どちらの側でも、その大義を疑う者は非国民となる。
この地球上のどこかで絶えず行われている戦争。戦争そのものを根絶することの難しさは、人間の心理からくる本質的なもの。戦争が政治の延長ととらえている政治家がいる限りというか、そう考える人が選挙で政治家として当選する環境がある限り、戦争の根絶は困難なものとなる。"
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松尾堂 2015.6.21 中野信子推薦
週刊spa 2016.1.12-1.19号 中村文則推薦
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しばらく積読状態だったが、ウクライナ情勢により、引っ張り出してきて読破。
以前読んで大変感銘を受けた戦争広告代理店と内容としては近く、第一次、第二次、コソボの紛争あたりの各国のプロパガンダや発言をまとめている。間違いなく今のウクライナとロシアの情報戦にもそのままあてはまる。内容は、目次を見ればそのまんまでもあるが、過去や現在の中国の反日プロパガンダや戦時の日本にもそのままあてはまりそうだ。
結局人間のやることは洋の東西を問わず、似たようなものなのか、本当にあったかか確証が取れないような残虐事件が敵方を憎んだり、世論を味方につけるために使う。今ならSNSで拡散されるといったところか。
宗教戦争時代の聖戦だの相手に罰を与えるのだのも戦争プロパガンダとして取り扱っているのが興味深い。確かにその通りだが。
P.25
戦争が終結すると、連合国側も双方に非があったことを認めはじめる。
一九二五年、元仏大統領ポワンカレはこう述べている。
「当初、ドイツおよびオーストリアは、意識的かつ熟考のうえで対戦を引き起こす意図があったわけではないだろう。彼らがその時点で、組織的な戦略を抱いていたことを確信させるような資料はいっさい見当たらない」
イタリア首相のフランチェスコ・ニッティも、戦争終結後、敵国を一方的に有罪にするのは戦争の定石だと認めている。
「欧州全体を巻き込んだ悲劇的な大戦の責任は、決してドイツおよびその同盟国だけにあるとは言えない。(中略)しかし戦時中、われわれはみな彼らだけに責任があるとし、それを攻撃のよりどころとした。そして、ひとたび戦争が終われば、戦争の原因をあらためて論じることもない。(中略)ようやく外交資料を丁寧に読み直せるようになり、時間をおき冷静に考えられるようになってみると、(フランスの同盟国であった)ロシアの動きこそが、戦争紛争の現実的かつ深刻な出発点になっていることがわかる」
P.37
好戦的な者たちこそ、自分たちが哀れな子羊であるかのようにふるまい、争いごとの原因は原因はすべて相手にあるのだと主張する。多くの場合、国家元首は、これは正当防衛なのだと世論を説得する(あるいはまた、自身にもそう言い聞かせているかもしれない)。(中略)敵国にこそ原因があるという考え方は、第二次世界大戦以降も繰り返されている。
P.41
NATOは当初、セルビア人が、コソヴォのアルバニア人に対し、民族浄化をおこなったとみなし、それに介入したつもりだった。だが、後年、欧州安全保障協力機構(OSCE)の国際政治専門家は、ドイツ政府の内部文書に以下のような記述を認めている。
「三月二十四日、NATOがユーゴスラヴィア空爆を開始。ベオングラードは、コソヴォのアルバニア系住民に対する暴力行為でこれに応酬する。だが、空爆が始まる以前、三月二十四日以前のコソヴォでは、ユーゴスラヴィア警察によるアルバニア人の暴力行為がごく限定的にみられただけであり、アルバニア人全体を対象とする『民族浄化』は存在しなかった」
しかし、ユーゴスラヴィア空爆の要となる欧州諸国の国民的な同意を得るに��、空爆依然から民族浄化が始まっていたと思い込ませる必要があったのだ。
戦争の責任はすべて敵国にあり、とくに、その指導者たる人物がその原因をつくっている。
P.44
たとえ敵対状態にあっても、一群の人間全体を憎むことは不可能である。
そこで、相手国の指導者に敵対心を集中させrことが戦略の要になる。敵にひとつの「顔」を与え、その醜さを強調するのだ。(中略)指導者の悪を強調することで、彼の支配下に暮らす国民の個人性は打ち消される。敵国でも自分たちと同様に暮らしているはずの一般市民の存在は隠蔽されてしまうのだ。
P.50
敵方の指導者は、その異常な姿が真実であろうとなかろうと、非人間的な怪物であり、狂人として国民に報道される。
P.58
多くの場合、経済効果を伴う、地政学的な征服欲があってこそ、戦争ははじまる。
だが、こうした戦争の真の目的は国民には公表されない。(中略)そこで、戦争プロパガンダは、戦争の目的を隠蔽し、別の名目にすり替えようとする。
P.76
開戦の動機は、人道的な者でも愛他主義でもない。ただ、開戦時、国劇の必然性を疑う世論に対して、説得力のある理由を示すことが重要だったのだ。
P.80
戦争プロパガンダではしばしば、敵国の残虐さが強調される。(中略)ここでいうプロパガンダによくみられる現象とは、敵側だけがこうした残虐行為をおこなっており、自国の軍隊は、国民のために、さらには他国の民衆を救うために活動しており、国民から愛される軍隊であると信じ込ませようとすることだ。(中略)現在、いくつかの論文で指摘されていることだが、連合国側のドイツ批判は、集団心理と現実の戦況とがからみあうなか、まったくの作り話というよりも、自然発生的な感情がプロパガンダに巧妙に利用されたという説がある。(中略)政府のプロパガンダは、こうした自然発生的な感情を増幅させただけのことだ。
P.95
第一次世界大戦の昔と変わらず、あまり感動的な実話が集まらないと、メディアは話をつくることも辞さない。プロパガンダには、とにかく「美談」が必要なのである。
P.100
どの参戦国にとっても、戦争の根源が暴力であることに変わりはない。人間的で穏便な戦争など絵空事でしかない。戦争に人間味を求めても無駄である。戦争プロパガンダの主張とは裏腹に、戦争が暴力である以上、フェアであるか否かを問うのは無理なことだ。
ヴォルテールは、『哲学的コント』のなかですでにこう指摘している。
「戦争の法は存在しない。戦時下において悪を抑制するのは法ではなく、恐怖や利得なのである」
P.111
特定の兵器の使用が禁止されるか否かの基準は非常に微妙なものであり、しばしば偽善的な見解が示される。大人地雷廃止運動についても同様のことが言える。(中略)ベルギーのように地雷禁止運動を支持し、地雷使用者への怒りを表明する国は、たいがい地が必要ない国、つまり紛争のリスクが少ない国だ。一方で、主要な武器生産国は、反地雷キャンペーンにまったく協力してしていない。(中略)つまり、どこの国も、自分たちが使う可能性のない兵器(または使うことができない兵器)だけを「非人道的」な兵器とし���避難するのだ
P.135
アナトール・フランスはーー彼自身も「100人の声明」に参加hしているのだがーーこう言っている。
「戦争において、もっとも嫌悪すべきものは、戦争によって生じる廃墟ではない。戦時にあらわれる無知と愚かさだ」
P.162
ひとたび戦争が始まると、もう誰も、公然と戦う理由を尋ねたり、本来の意味を「ねじまげる」ことなく和平を口にしたりすることはできなくなる。メディアは政治権力と密着した関係にあり、いざとなると本当の意味での意見の多様性を守ることができないのである。
P.175
たとえ戦争でなくても、ふたつの陣営が対立するとき、手探りで話し合いや交渉を模索する人々をあざ笑うかのように、対立を煽る言説が必ずと言っていいほど出てくる。(中略)いつの時代もひとは、憎悪を掻き立てられ、正義に奮い立ち、弱者に同情する。それはいかにも「人間らしい」感情の動きであり、文化を支える情熱ともなる。プロパガンダにまったく心を動かされない人間がいるとすれば、よほどの冷血漢か、利己主義者だろう。感情を責めるつもりはない。だが、人間らしい心を失うことなく、そこに流されない。そんな姿勢が必要なのだ。『熱い心と、冷たい頭をもて』と言ったのは、イギリスの経済学者、アルフレッド・マーシャルだが、情報の海で溺れそうになったとき、感情に流されそうになったとき、本書がふと足を止め考えるためのヒントになれば、役者として嬉しい限りである。
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手に取った経緯は忘れたが、現在のウクライナ情勢もあり、興味深く読めた。個人的には、旧ユーゴスラビア紛争に関する言及が多かったことも、関心を持って読めた理由の一つ。
いつの時代の戦争にも共通している内容で、結局情報戦をいかに制するかが、戦争をする上で重要ということ。
現代はSNSが発達し、様々な情報に簡単にアクセスできるようにはなったが、昨今のフェイクニュース問題のように、情報が常に溢れているがゆえに、手に入れた情報が本当に正しいものかどうかを見分けることが逆に困難になっているようにも感じる。
結局は自分で情報を吟味できるよう、メディアリテラシーを身につけることが大事だが、その点において本書のプロパガンダの法則を知っていることは大きな助けとなる。手に入れた情報を鵜呑みにしない=一度疑うという、一歩引いた場所から見る視点を常に意識したい。
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この本を読んだら、ニュースの見方が変わるかも。一つ一つ解説される10の法則を読みながら、ロシアとウクライナのニュースが頭に浮かんだ。この本に解説されているプロバガンダの法則の通りに、各陣営から見解が発表されているのを思い出してゾッとした。凄く、面白い本だ。
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『戦争プロパガンダ10の法則』 アンヌ・モレリ 著
「人生を変える書物というほどではないにしても、物の見方を変えてしまう本がある。(中略)この本を一読して以来、テレビのニュースを見ていても、新聞を読んでいても、ふと思うのだ。ああ、これも、ポンソンビーの指摘していた『あれ』ではないかと。」 最後にある翻訳者の「訳者あとがき」の冒頭部分ですが、とても頷けます。
英アーサー・ポンソンピー卿が第一次世界大戦を踏まて1928年に出版した「戦争の嘘」をベースに、原著出版の2001年頃までの出来事を盛り込み再構成したものと言えます。目次の10章のタイトルを見るだけで凡その内容はわかります(目次はAmazonにあり)。「戦争の嘘」以降の戦役でも、この10の法則が適用されると書かれていますが、まさに今のウクライナにもぴったりです(日本の太平洋戦争の時も)。
これを知ったからと言って、どうアクションにつなげるかは難しいですが、「物の見方を変え」る示唆に富んだ一冊です。
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本書ではポンソンビー卿がWW1後に提唱した戦争プロパガンダに関する10項目の法則が筆者が各項目ごとに取り上げるプロパガンダの例や解説を通して、法則は現在も大きく変わっていないということが論じられている。なお、本書は筆者が新しい結論を導き出すというよりは、法則の普遍性を検証していくため、やや冗長に感じる部分もあった。読む人を選ぶと思う。
本書では戦争における具体的に行われた両陣営のプロパガンダを法則ごとに並列して見ることができる点がとても面白いと思った。そうしたお互いの言い訳を知ると、戦争の大義名分などただの虚構であり、相手と戦うという意味のみにおいては両陣営とも、動機づけややり方も大差はないものだということを意識させられた。