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良書。
●以下引用
キケロ/すべての物事の始まりは小さい
枡野俊明/頭に浮かんできた構成内容を、そぎ落とし、そぎ落とし、もうこれ以上そぎ落とすことができない、というところまで削ぎ落していくのです。何事も足していくのはたやすいことですが、引いていくということは、大変勇気のいることです。これを行うには余程の経験と、それに基づく自信がなければ、容易にできません。
ダイアログ・イン・ザ・ダーク/何も見えない暗闇のなかで本物を感じる力を取り戻すことができるでしょう
野口晴哉/体の勢いをつくり、体の力を発揮するためには
、笑う時は声をあげて笑わなければならない。泣く時は泣き、怒る時は怒る。気取りのために体中で泣き、怒ることもできないようなことをしていては、活気が興ってこない。
古今亭志ん生『びんぼう自慢』/人の心のふれ合いてえものは、暮らしのよしあしとは違いますねぇ。お互いが理解し合って、助け合って、一緒になって笑ったり、泣いたりする。あたしなんぞ、いまでもあの時分の、なめくじ長屋の生活てえのが、とってもなつかしく思い出されて来ますよ。
朝倉文夫/この瓢という、自然の作った形には解脱しきった禅寺の老僧のように、嫌味もなければ、世辞もない、淡々として水の如く、何日在っても目障にはならない、といって無用では決してない。それを取り去れば、そこには大きな穴が音もなく空いた感じを与える。置いても如何にも物を置いたという感はない。こんな置物が人工で出来得るであろうか。どんな名工もこの自然の作った形には頭が下がるであろう
福岡伸一/私たち生命体は、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」でしかない
世阿弥/秘する花を知る事。秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず、となり
中谷宇吉郎/余り早くから海坊主や河童を退治してしまうことは、本統の意味での科学教育を阻害するのではないかとも思われる
杉本貴志/我々は、日々の生活の中に感動を発見しなくてはならない。たとえば、普段手にする事の多い大根やトマトに我々は何かを見つけないと、我々の日々は豊かにはならないのである。
三谷龍二『木の匙』/多くの人の手に触れ、時のふりいにかけられ支持されてきた、たしかな道具。はたして僕は、小さな匙のようにこの世に必要とされているのだろうか。確かな居場所をこの世に持っているのでだろうか、と考えると恥ずかしくなってくる。小さくても自分の居場所をこの世に持っている、そのことはすごいことだと思う。
山極寿一『サル化する人間社会』/同情心とは、相手の気持ちになり痛みを分かち合う心です。この心がなければ、人間社会は作れません。共感以上の同情という感情を手に入れた人間は、次第に「向社会的行動」を起こすようになります。向社会的行動とは、「相手のために何かしてあげたい」「他人のために役立つことをしたい」という思いに基づく行動です。人類が食べ物を運び、道具の作り方を仲間に伝えたのも、火をおこして調理を工夫したのも、子どもたちに教育を施し始めたのも、すべて向社会的行動だろうと私は思います。
吉本隆明『15歳の寺子屋』/たくさん手を動かしてると、何かやる時にひとりでに手が動いてくるということがあります。
ジャスパー・モリソン『ジャスパー・モリソンのデザイン』/作る者のエゴにより、物の有用性や日常に溶け込む自然な力を違う力に帰られてしまうことがある
甲野善紀/古武術が総合武道であるというのは、道具の観点から見てもいえます。攻撃を受けたとき、状況に応じて剣であれば剣で、なければありあわせの棒切れ、食器、手ぬぐいなど、それもなければ素手で対応します。
忍術の伝書に「ー器をもって諸用を弁ずる者を忍びの巧みな者という」との言葉があります。このことを「一器他用」といい日本文化の特色のひとつです。
いしいしんじ/
覚えたてのひらがな、初めての習字、絵の具遊びなどのとき、その人間のからだは全身がペンや筆だ。
五味太郎/読みたくて読んいる人の図書館、聴きたくて聴いている人の音楽会、、、、、自分が建てる前提で見る五重塔。ぜんぜん違うよね。
★山本夏彦『ひとことで言う』/
文字は言葉の影法師だとギリシャ人は見ていた。ソクラテスもイエスも問答しただけで自分は書いてない。書いたのは弟子たちである。本を読むのは死んだ人と話をすることだ。死んだ人は返事をしない。十年二十年たって読み返すとハタと思い当る。すでに書いてあるのを発見してようやく問答がなりたったのだ。
人間の知恵は古典に尽きている。それに加える何ものも現代人にはない。
須賀敦子『時のかけらたち』/
出会いは、音もなく、ふいにおとずれる。それまで本質を秘めていた垂幕がはらりと落ちて、対象と自分をつなげる根源のつながり、まるで地下トンネルで結ばれたふだんは見えない網の目のようなつながりが、そのとき、地上にかたちをあらわし、対象と自分があたらしい、いきいきとした関係で結ばれていることに気づくのだ。
山崎尚コーラ/
植物に触っていると、絶対的なものと信じきっていた、自分の持っている、一秒、一分、一時間んお時間感覚が、実は相対的なものだと気がつく。、、、日本社会で生きていこうと考えるならば守るに越したことはないが、しかしたとえ日本における社会人失格になったとしても、人間としては、生物としては、全然失格ではないということを、忘れないでおきたい
エンデ/
時間をケチケチすることで、ほんとうはぜんぜんべつのなにかをケチケチしているということには、だれひとり気がついていないようでした。じぶんたちの生活が日ごとに冷たくなっていることを、だれひとりみとめようとはしませんでした。
でも、それをはっきり感じはじめていたのは、子どもたちでした。というのは、子どもにかまってくれる時間のあるおとなが、もうひとりもいなくなってしまったからです。けれど時間とは、生きるということ、そのものなのです。そして人のいのちは心を住みかとしているのです。
大竹昭子/道の先にぽっかりと空いた見えない穴ぼこのようなもの、それが路地であり、歩行の気分がそれによって一変するところに人生の出会いにも似た不思議さがある
川本三郎/
寅さんは金はないが、暇だけはたっぷりある、だから飛行機や新幹線に乗る必要はないし、タクシーを飛ばすこともない。ローカル線にゴトゴト揺られて、あとは気のむくままにぶらぶら歩く
★畠山直哉/
出来事の記憶が途絶えたら、時間だけが流れ去り、物語/歴史は止まり、そこで終わってしまう。物語/歴史を生き長らえさせるには、新しい誰かが、人の記憶を受け継ぎ、自分の想像力に移し替え、それを自分の時間と交差させ、新たな織物を織り続ける必要がある。30年後の未来に残っている、このわずかなものから、忘れ去られつつある事物から、そして集められるだけのすべての写真から、言葉から、他者の記憶を僕たちは想像し続けなければならない。それを怠れば、一つの物語/歴史はたちまち消えてなくなる。
木村秋則/
大豆を植えたら、いちばん最初に出るのは何でしょう。
芽ではありません。根です。大豆に限らず、ほとんどの種がそうです。まず根が出てから、芽が出る。人間は地面の上から見えているから、どうしても土から顔を出す芽にばかり注目してしまいます。だけどよく考えてみれば、根の方が先なのが当たり前です。
★カレル・チャペック/
自分の庭にしゃがむがいい。そのほうが、わたしの目にうつる春のながめは、かえって大きい。立ちどまればいいのだ。そうすれば、ひらいた唇としのびやかなまなざし、やわらかなな指とさしのべた腕、生まれたものの弱弱しさと、生きようとする意志の不適なひらめきを諸君は見るだろう。そして、そのとき、諸君の耳に、はてしなくつづく芽の行進むのどよめきが、かすかにきこえるだろう
高橋陸郎/
教養とは開かれた心のこと
日本語の詩詩の中で、最も優れたものは、何も言っていないものだ。-雪をつかむ、雪はいつか溶けて、冷たかったという記憶を残すだけで何もなくなるでしょう。それが表現の窮極だと彼は言っています。(折口信夫)
珠寶/
花をすることは、
自然の摂理へと
両足をそろえて
飛び込むことと
こころえるべし
白川静『漢字』/
人びとは風土のなかに生まれ、その風気を受け、風俗に従い、その中に生きた。それらはすべて「与えられたもの」であった。風気、風貌、風格のように、人格に関し、個人的と考えられるものさえ、みな風の字をそえてよばれるのは、風がそのすべてを規定すると考えられたからである。自然の生命力が、最も普遍的な形でその存在を人びとに意識させるもの、それが風であった、人々は風を自然のいぶきであり、神のおとずれであると考えたのである
★ポール・ギャリコ『雪のひとひら』/
雪のひとひらは、ひとりごちました。「わたしって、いまはここにいる。けれどいったい、もとはどこにいたのだろう。そして、どんなすがたをしていたのだろう。どこからきて、どこへ行くつもりなのだろう。このわたしと、あたりいちめんのおびただしい兄弟姉妹たちをつくったのは、はたして何者だろう。そしてまた、なぜぞんなことをしたのだろう」
『俳句への道』/高浜虚子
客観写生という事は花なり鳥なりを向うに置いてそれを写し取る事である。自分の心とはあまり関係がないのであって、その花の咲いている時のもようとか形とか色���か、そういうものから来るところのものを捉えてそれを謳うことである。だから殆ど心には関係がなく、花や鳥を向うに置いてそれを写し取るという事である。
しかしだんだんとそういう事を繰返してやっておるうちに、その花や鳥と自分の心とが親しくなって来て、その花や鳥が心の中に溶け込んで来て、心が動くがままに、その花や鳥も動き、心の感ずるままにその花や鳥も感ずるというようになる。