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自伝的エッセイというか、何か意思表明みたいな感じ。
贔屓目無しにここまでの日本人作家は近年いないと思う、まぁ妙な性への拘りみたいなところは???ではあるけれども、それも含めて村上春樹の世界なんでしょう。とにかく自分のできる最善の策を生活面の細部から打って身を投げるという行為はやはり敬意を表するに値します。まさに健全な肉体に健全かつ不健全な精神が宿るってやつです。この本はどこかで読んだ内容ばかりといえばそれまでですが、一つに纏まっているところに十二分の価値があります。
さておき当方はそんなにこの作家のファンという訳ではないですが、この作家を正当に評価できない・しない人達の論調は何処かズレているような気はしますな。自分の感性を信じることは極めて重要ではありますが、それを超えて世界が注視する状況を正視できないのはやはり何かを掛け違えていると真摯に襟を正す必要はあるんだろうなと。まぁ愚者の戯言ではあります。
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内容自体はかなり正直にぶっちゃけている。熱心な読者が読むことを想定されていると思われ、現在のハルキスト的状況についても、述べられているのだが、そういった中身を有する本であるにもかかわらず、メディアは出版業界をめぐる事件の一つとして紀伊国屋の買切りを報じており、中身に触れてから報道しとるんかいな、という思いが。
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2015年83冊目。
村上春樹さん自身が言う「トンカチ仕事」という言葉がとてもしっくりくる、それくらいストイックで地道な作家。
「その光景はどこから生まれるの?」と、一見して「閃き」の作家にも思えるかもしれないけれど、実はとにかく規則を大事にし、身体を鍛え、多くのものを地道に溜め込み、じっくりと長い時間をかけて(危険も犯しながら)深い場所を探っている。
作品ごとに挑戦項目を決めて、創作を通じて自らを高め続ける姿勢は、彼の作品がそんなに好きでない人にも響くと思う。
もう一つすごいのは、「総体の受容」と「解釈なき提示」ができること。
「総体的な物語」と「治癒」の関係は密接にあると感じていて、“whole”は“heal”“holy”“health”と語源が同じということにも表れている。
その癒しは「この言葉に救われた」というような断片的である以上に、もっと深くて捉えどころのない、やはり「総体」的なものだと思う。
物語全体を一緒にくぐり抜けることによって得られるもの。(もちろん断片的に力になるシーンもあるのだろうけど)
この本は村上春樹さんの作品をあまり読んだことがない人にも読みやすいもの。
作品を多く読んでいて更に深く創作哲学に触れたい場合は、インタビュー集である『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』がオススメ。
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こんなにストイックに、そして深い根っこの部分で繋がって心を揺さぶり続ける作家にこの先出会えるのだろうか?
こんな素晴らしい作家と同時代に生き、出会えたことを幸せに思う。
村上春樹の小説家としてのあり方そのものが、自分のやりたいように好きにやっていいんだ!という生き方のヒントと励ましを与えてくれる。
まずは十全に生きること。
そのためには魂の入れ物である肉体を確立させること。
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15/09/11。
11/29読了。時間かかり過ぎだが、一気に読むより、じっくり読めた。極めて上質のエッセイ。今日は少し寒いけれど日向ぼっこで洗濯物に囲まれて読み終えた。幸せ。
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村上春樹が自らの職業である「小説家」について、読者に語りかけるような文体で解説したもの。といっても、小説家一般のことではなく、あくまでも個人的体験としての小説家についての解説である。
本書は、紀伊国屋が販社を通さずに初版の九割を出版社から直接買い取ったことでも話題となった。それはどうでもよい。発売数日後でもAmazonで普通に買えるし。
村上さんは、括弧書きで小説家の「資格」という言葉を使う。もちろん小説家になるのに資格試験を受ける必要はない。村上さん自身も、小説とは間口の広いもので、そのためか小説家はこの世界に入ってくる人に対して寛大だという。それでは、小説家の「資格」とは何か。それは、村上さん自身がそう語るように小説を書くことが楽しいことでないといけないということなのかもしれない。書くことは、音楽を演奏するのと似た感覚だという。それを村上さんは「自由でナチュラルな感覚」と呼ぶ。
小説家の「資格」とともにこの本で書かれているのが、帯でも「自伝的エッセイ」と銘打たれているように小説家となったきっかけやどのように小説を書いているのかなど小説家の「実践」についてつづられている。自身、非常に個人的であると言うだけあって、一般的な小説家とは違っているのかもしれないが、小説家としての実践についてとても自覚的で興味深い。
もちろん、過去にも何度も紹介されて有名な小説家になることを決めた神宮球場のエピソードにも詳しく触れられている。「「自分は何かしらの特別な力によって、小説を書くチャンスを与えられたのだ」という率直な認識」(p.53)という言葉が印象深い。
村上さん自身があとがきでも書いているように、本書の内容にはどこかで読んだことがあるような内容も多い。具体的には、『走ることについて語るときに僕の語ること』や『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』などで似たようなことが語られている。人称や固有名などの文体や小説技法のこと、海外での出版売り込みのこと、長編小説は午前中にきっちり十枚程度書き上げること、などがそうである。そういったことが端正にまとめられているが、新しい情報は少なかったかな、というのが正直な印象だ。
その中でも「第十回 誰のために書くのか」の章にある「著者と読者の間のナチュラルな、自然発生的な「信頼の感覚」」というのは実感がある。村上さんの書くものに対するある種の信頼があり、それが本書も含めて村上さんの書籍は出版されれば読者として常に読むという行為につながっている。村上さんは、小説を書くことは、スロー(低速)で効率の悪い作業だという。言いたいことを表現するのであれば、もっと手短に直接的に言うことが可能だと。それはもちろん読む側にとっても同じだ。また、村上さんが言うような信頼関係を取り結ぶのにも時間がかかる。それでも小説という形を取るのであれば、それは強制ではなく、「ナチュラル」にしか発生しない。そうか、「ナチュラル」であることがテーマであるのかもしれない。
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紀伊国屋による買い付けはどのような影響を与えたのだろうか。もし仮に買い取りが前提のために地域の本屋さんまで本が行き届���ず、結果、在庫があったAmazonから購入するといった行動を読者がすることもあったのかもしれないと思うと、もしかしたら地域の本屋さんでなくネットで本を買うという習慣が作られるきっかけを作ったということになった人もいるのではないだろうか。
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小説家という生き方を貫く姿勢が素晴らしい。尊敬する。自分も前向きに一つ一つ目標を乗り越えていけるようにがんばろうと思わせてくれる。
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「それで小説の出だしを、試しに英語で書いてみることにしたのです。とにかく何でもいいから『普通じゃないこと』をやってみようと。
もちろん僕の英語の作文能力なんて、たかがしれたものです。限られた数の単語を使って、限られた数の構文で文章を書くしかありません。センテンスも当然短いものになります。頭の中にどれほど複雑な思いをたっぷり抱いていても、そのままの形ではとても表現できません。内容をできるだけシンプルな言葉で言い換え、意図をわかりやすくパラフレーズし、描写から余分な贅肉を削ぎ落とし、全体をコンパクトな形態にして、制限のある容れ物に容れる段取りをつけていくしかありません。ずいぶん無骨な文章になってしまいます。でもそうやって苦労しながら文章を書き進めているうちに、だんだんそこに僕なりの文章のリズムみたいなものが生まれてきました。
僕は小さいときからずっと、日本生まれの日本人として日本語を使って生きてきたので、僕というシステムの中には日本語のいろんな言葉やいろんな表現が、コンテンツとしてぎっしり詰まっています。だから自分の中にある感情なり情景なりを文章化しようとすると、そういうコンテンツが忙しく行き来をして、システムの中でクラッシュを起こしてしまうことがあります。ところが外国語で文章を書こうとすると、言葉や表現が限られるぶん、そういうことがありません。そして僕がそのときに発見したのは、たとえ言葉や表現の数が限られていても、それを効果的に組み合わせることができれば、そのコンビネーションの〝持って行き方〟によって、感情表現・意思表現はけっこううまくできるものなのだということでした。要するに『何もむずかしい言葉を並べなくてもいいんだ』『人を感心させるような美しい表現をしなくてもいいんだ』ということです。……そして机に向かって、英語で書き上げた一章ぶんくらいの文章を、日本語に『翻訳』していきました。翻訳といっても、がちがちの直訳ではなく、どちらかといえば自由な『移植』に近いものです。するとそこには必然的に、新しい日本語の文体が浮かび上がってきます。それは僕自身の独自の文体でもあります。僕が自分の手で見つけた文体です。そのときに『なるほどね、こういう風に日本語を書けばいいんだ』と思いました。まさに目から鱗が落ちる、というところです。」
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「これはあくまで僕の個人的な意見ですが、もしあなたが何かを自由に表現したいと望んでいるなら、『自分が何を求めているか?』というよりはむしろ、『何かを〝求めていない〟自分とはそもそもどんなものか?』ということを、そのような姿を、頭の中でビジュアライズしてみるといいかもしれません。『自分が何を求めているか?』という問題を正面からまっすぐ追求していくと、話は避けがたく重くなります。そして多くの場合、話が重くなればなるほど自由さは遠のき、フットワークが鈍くなります。フットワークが鈍くなれば、文章はその勢いを失っていきます。勢いのない文章は人を——あるいは自分自身をも——惹きつけることができません。
それに比べると『何かを求めていない自分』というのは蝶のように軽く、ふわふわと自由なものです。手を開い��、その蝶を自由に飛ばせてやればいいのです。そうすれば文章ものびのびしてきます。考えてみれば、とくに自己表現なんかしなくたって人は普通に、当たり前に生きていけます。しかし、〝にもかかわらず〟、あなたは何かを表現したいと願う。そういう『にもかかわらず』という自然な文脈の中で、僕らは意外に自分の本来の姿を目にするかもしれません。」
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「彼女(妻)の批評には、『たしかにそうだな』『ひょっとしたらそうかもしれない』と思えることもありす。そう思えるようになるまでに、数日を要する場合もありますが。また『いや、そんなことはない。僕の考えの方がやはり正しい』と思うこともあります。でもそのような『第三者導入』プロセスにおいて、僕にはひとつ個人的ルールがあります。それは『けちをつけられた部分があれば、何はともあれ書き直そうぜ』ということです。批判に納得がいかなくても、とにかく指摘を受けた部分があれば、そこを頭から書き直します。指摘に同意できない場合には、相手の助言とはぜんぜん違う方向に書き直したりもします。
でも方向性はともかく、腰を据えてその箇所を書き直し、それを読み返してみると、ほとんどの場合その部分が以前より改良されていることに気づきます。僕は思うのだけど、読んだ人がある部分について何かを指摘するとき、指摘の方向はともかく、そこには〝何かしら〟の問題が含まれていることが多いようです。つまりその部分で小説の流れが、多かれ少なかれ〝つっかえ〟ているということです。そして僕の仕事はそのつっかえを取り除くことです。どのようにしてそれを取り除くかは、作家が自分で決めればいい。たとえ『これは完璧に書けているよ。書き直す必要なんてない』と思ったとしても、黙って机に向かい、とにかく書き直します。なぜならある文章が『完璧に書けている』なんてことは、実際にはありえないのですから。」
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村上春樹が自身の小説の創作論を語った自伝的な一冊。
本人も認めているとおり、内容についてはこれまでのエッセイ等で本人が語っている内容との重複もところどころあるが、そうした断片的な情報をこうしたまとめて読める点で貴重。
読み終えて思ったのは、村上春樹が極めて誠実な作家だということ。例えば、1960年代後半の学生運動について、語る以下の発言は、言葉の持つ力という点について、極めてまっとうで誠実に感じ、印象深い。
「どれだけそこに正しいスローガンがあり、美しいメッセージがあっても、その正しさや美しさを支えきるだけの魂の力がなければ、すべては空虚な言葉の羅列に過ぎない。僕がそのときに身をもって学んだのは、そして今でも確信し続けているのは、そういうことです。」
(本書p37より)
そういう誠実さが僕にとっても魅力的なわけであり、良いかどうかは分からないけれど、出る作品を読もうという信頼に繋がっているのだということを実感した。
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小説家という職業を選び、その道を歩むことになったこと、そして35年間その道を歩み続けて来た村上春樹の小説家とは何かを標した自伝的な本。「風の歌を聴け」は、「何も書くことがないということを書こうと思った。」というくらい、無心で自分自身と向き合って紡ぎだしたもので、それが若い、何かを抱えて鬱屈とした時代に思いっきりヒットしたんだと思う。
小説家はわりと体力を要する職業のようだ。「ラッシュアワーの電車に1時間乗ることに比べたら、好きなときに1時間外を走るくらいなんともないことです。」そのような生活を積み重ねて、創造力がより強固な、安定したものになってきたという。健康になるのだけれど、それだけのことじゃないんだと日常感じていた。それが何かはわからないけれど。そんな風に語る彼の中で、その何かは日常を輝かせる、磨きをかけた言葉とその言葉が纏う雰囲気を持ってハッキリとした存在になっている。
学校教育について触れているのも珍しい。ステレオタイプな人間を作って行くこと、教師の側も狭い目的意識で世界をバランス良く見る視野が失われている。村上春樹らしい所は、そのステレオタイプな集団教育自体を否定するのではなく、個人的なものとの間を大切にしないといけないと警鐘を鳴らす。
小説家の道を選ぶかどうかは別にして、自分を見つめながら、ある種の諦めや希望を持ったまま、繊細なのに意外と強気に自分らしい道をいけばいい。強いメッセージを感じる作品。ジャズも小説も、好きで好きで仕様がない。そんな熱くなれることを大切に、そして丁寧に、日々積み重ねて。
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又吉騒動を予見したかのような小説家寛容論、とくにいらない芥川賞論や、最近パクリ騒動を予見したかのようなオリジナリティ観、学校教育というものへのつまらなさくだらなさや不信感またその逃げ場のサードプレイスとしての書物観、などなど数年前から書き溜められていたという講演風エッセイというわりには、様々にアクチュアルな今の日本の事象に絡みついてくる柔らかい言葉で綴られた「自伝」でありながら、深いところでの信仰告白があり、村上氏は基本なんというか「期待しない」が「信じる」というスタンスが基部にあり、無論謙遜含みつつであるが村上氏自身の作家能力に対してもその姿勢だし、また創作行為および文学ジャンル全般へ「期待しないが信じる」という姿勢を強く貫かれている。
逆に「期待ばかりしているが信じていない」という態度は我を含めて様々な領域で観る事例であるけども、何事にも不毛な結果しか招いていないし、またそういう態度をあからさまに出す人は、我を振り返って思うけど、自分自身へも様々な事象へも、妙に「期待ばかりして」妙に「信じていない」。
その「信じる」って何かっていうと別にスピリチュアルとかそういものでなく、変なレトリック使うと、こう「あけっぴろげの何かを預けてしまう」というか「もうこっちの思惑はどうでもよいから、そっちにすべて預けます」という、一番大事なものを頑強だけがとりえな金庫の中に抱え込まずに、そっちの本来の様々に自生する力に託すという姿勢であり、なんかこの姿勢が、氏の様々な問題の解決能力の基部になる重要なタフな楽天性なような気がします。
最悪の事態はあれど事態は必ずにそれ自らのうちで解決に至れるのだという確信を持たれている。
なので、波間に浮き沈む藻屑状況に目先だけで一喜一憂もしなければ期待もしない。ただ、底の深く重い流れの潮は信じ、その流れにおらっと身を放つ姿勢の、妙な開き直ったサッパリとした覚悟があり、それが潔くよく気持ちよく、また非常に公正にみえ、であるからこそ、読んでいるこちらまで不思議と快活に「しょうがないじゃないか」と開き直った気分になれるような、妙に自己啓発的な本でもありました。
もっとも、自らを「ごく普通の人間」と自覚される「村上春樹」という世界文学作家の修行僧にも似たストイズムは一切普通ではないユニークな位置に到達しており、第二の「村上春樹」という作家は今後あり得ないだろうなと思いますが、実作者が語る世界文学上の様々な作家のエピソードを裏付けするような「とにかく若いうちに多くの本を手に取った方がいい」というメッセージを発してくれてよかったなと思います。
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紀伊国屋が9割買い占めて、書店売りにこだわったという話題の本。文左衛門が大儲けした話とどうも重なってしまうのだが。それを、紀伊国屋のWebで予約して購入。ちゃんと発売日に手元に。
内容は、村上春樹の小説家としての成り立ちから、書き方、読者のこと、文体のこと、文学賞のこと等々。彼の考え方は、読んでいるとわかることも多いが、それが、彼の論理で伝わってくる。自分の文学の研究という感じか。読んでいると、自分の本の読み方、小説を書いている同僚のこと、プレゼンと小説の書き方の共通点・相違点、原型、などいろいろ考えさせられる。
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紀伊国屋書店が9割買い占めたと話題になっていた。
なので、紀伊国屋書店で購入。
珍しい視点で気軽にさらっと読めた。
ある意味、メイキングと言えるのかも知れない。
冒頭部分の村上が捉える小説家像は、そのまま大学教員と置き換えても通用する気がする。
単純に比べると同様な職業とは言えないはずなのだけど。
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早速読みました。久しぶりに、違和感なくすっと読みました。やっぱり、村上さんの文体は、私の好みなのかもしれません。小説家とは、どんな職業なんだろと、興味わきました。
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紀伊国屋が初版10万冊のうち9万冊を買い占めたことでニュースになった本書。イオンの未来屋書店においてあったので、衝動買いしてしまった。
小説家とはどういう人間か。小説を書くとはどんなことか。孤独な作業である。
誰でも小説を書くことは出来るが、書き続ける、それを職業とすることはかなり難しい。
一冊目の「風の歌を聴け」は、一度書き上げたが面白くなかったので、出だしを英語で書き、それを日本語に訳した。これがその後の村上春樹の文体となった。へ〜え!!
最初の2冊は、家族が寝静まってからキッチンのテーブルで書いた。「キッチン・テーブル小説」
長編小説を書くのはマラソンに似ている。健康でなければならない。
長編小説は大体海外で書いてきた。邪魔が入らないから。
「物語を語るというのは、言い換えれば、意識の下部に自ら下っていくことです。心の闇の底に下降していくことです」という。
そういえば知り合いのある精神科医が「普通の小説家は地下1階まで降りていくが、村上春樹は地下2階まで降りていく」と言っていたことを思い出した。
「登場人物たちがひとりでに動きだし、ストーリーが勝手に進行し、その結果、小説家はただ目の前で進行していることをそのまま文章に書き写せばいいという、きわめて幸福な状況が現出します」・・・「多崎つくると~」では登場人物の女性の一言で、村上春樹は物語の方向を変更し、語らなければならなくなった。登場人物に小説家が動かされたのだという。
「ある意味においては、小説家は小説を創作しているのと同時に、小説によって自らをある部分、創作されているのだ」そうだ。
このエッセイは村上春樹がどう小説を書いてきたかということを通じて、どう生きてきたかという自叙伝・・・ワクワクする私小説となっている。