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古代から現代にかけて、世界史と日本史の裏話について解説されています。歴史小説を読んでいて偶然知っていたような内容が、全時代に渡って網羅されていて面白い本です。雑誌感覚で楽しく読ませてもらいました。
以下は気になったポイント(日本史関連のみ)です。
・今では、大化の改新ではなく、乙巳(いっし)の変、と呼ばれるようになってきた。首謀者は、中大兄皇子の叔父にあたる、軽皇子(かるのみこ)という説もある(p196)
・三種の神器が天皇特有の印になったのは7世紀頃、剣(熱田神宮)は神の鎮座の象徴、鏡(伊勢神宮)は太陽神の来臨、勾玉(皇居)は月神の象徴(p199)
・東国とは、7世紀においては、遠江(静岡西)と信濃(長野)より東側を指す(p203)
・木と火は陽、金と水は陰、土はその中間に存在し、それらの生長によりすべての現象が把握、説明されるのが、五行説である。陰陽五行説と天文歴法が結びついたのが、日本独自の陰陽道である(p210)
・平安時代の「一貫=10万円」を目安とすると、京都駅近くの土地は、一坪1万円ほどになる(p211)
・天皇の代わりに政治の実権を握ってきた摂関家(主に天皇の母系)から、父系の上皇に移ったのが、院政である(p212)
・奇数が陽、偶数を陰とする、10以下の整数で最大の陽数が九、陰数が八、陰陽思想では両者を足した17が強い数となる(p220)
・鎌倉中期になると、分割相続を続けると一人当たりの所領がどんどん小さくなるので、しだいに女性へは所領を譲らなくなった。南北朝になると、嫡子単族相続が始まり、相続が男子中心となった(p221)
・鎌倉将軍は、源氏三代の後、藤原(九条家)将軍を経て、皇族将軍となった。しかし成人すると幕府から追放されたので権力は形骸化(p224)
・土倉や酒屋は、金を貸す際に、借用書に徳政令不適用の文言をいれていたので、徳政令を出しても契約上の効果は無かった(p232)
・本能寺の前頃の織田信長の領地は、800万石程度で日本の約半分、毛利や武田が100万石程度(p242)
・日本に来日した修道会は、イエズス会の他にも、フランシスコ会、アウグスチノ会、ドミニコ会があり、それぞれ派閥を形作っていた、最大派閥のイエズス会でも、ポルトガル系、イスパニア系、イタリア系で対立していた(p246)
・織田信長の馬周り衆は、本能寺の変の時には、信忠とともに妙覚寺にいた(p251)
・江戸時代の旗本は、江戸城の警備や行政に携わる役職についていた。江戸城を警備する旗本は「番方」で5つのグループがあった(p273)
・100石取りの御家人は、100石分の田から年貢を受け散ることができるという意味、現在の金銭感覚では、年収300万円程度(p280)
・五人組制度とは、連帯責任、組のなかから犯罪者がでたら組中の者を罰した。年貢が納められないものがでたら残りの者が負担する、明治時代になり警察制度が整うと自然消滅した(p283)
・1700年には佐渡への遠島は廃止されたが、流刑そのものは、大宝律令で流罪が法制化された701年から、1908年(明治41)まで続いた(p288)
・江戸時代の刑場は、千住の小塚原(明治12)、品川の鈴ヶ森(明治4まで)、残酷刑が人目につく場所で執行されていた。処刑された死体は、埋葬されずに晒された(p292)
・町地は町奉行、寺社地は寺社奉行、武家地は大目付・目付支配であり、支配が独立していた。そのため江戸の範囲が違っていた。南は目黒川あたり、町奉行は朱引きより狭い(p301)
・薩摩は、琉球と薩摩領内に限って流通させる「琉球通宝」を3年100万両で許可されたが、実際はそれの3倍程度を鋳造した(p319)
・第一世界大戦中に流行した「スペイン風邪」は、当時の人口18億人のうち、3分の1の6億人が感染した(p338)
2015年10月10日作成