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悲しみに、美しみに、絶望しみに。
孤独のうちに。
目を養うよう努めなければ。
なんとなれば、いまは,,,。
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読む前からそんな予感がしていたけれど。
この本は、きっと何度も読み返したくなる。
忘れられない光景、大切な人々の顔が浮かぶ。
25のエッセイ、ひとつひとつが「私」のこころのありかに静かに響く。
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自分には少し難しかったけど美しい本でした。悲しみは『悲し』だけでなく『愛し』『美し』と書くこともできるそうです。悲しみのなかにあるいろんな感情を感じることが確かにあります。その気持ちを大切にさまざまな想いを味わいながら生きていきたいと思える一冊でした。
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いいですね。悲しみの秘義は、誰もが宿している詩情を、書くことの秘義を通して、読み手に託され、孤独をつかむ。ひがしちかの装画がすばらしい。ブックリストもいい。
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2016年40冊目。
読み始めてすぐ、あまりにも洗練された言葉に驚いた。
恐ろしいほど過不足がない言葉で綴られた25のエッセイ集。
語り得ないものへのまなざし、空白や沈黙への敬意、惑うことへの心持ち、そして悲しみのとらえ方。
心に残る多くの言葉に出会えた。
読んでいる最中、周りがしんとするような静寂さをこの本自体が持っているように感じる。
「たとえ一点の作品がなくても君は君の人格と生活の態度に因って高邁なる芸術家であった」
一番響いた言葉。そういう風に生きたいと思う。
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以前イベントで若松さんのお姿を見たとき、
なんともいえないやさしさ、やわらかさを感じたのを覚えている。
この本もとてもやさしい、やわらかい。
開く、ページをめくるひとつひとつがやわらかい。
わたしは死別を体験するのが嫌すぎて、
生まれてこなきゃよかったと思うことがある。
そういう気持ちを毛布で包んでくれるような本だった。
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「かなしみ」に耐えるための言葉。
書くことと読むことの相補性。
それぞれの章に引かれている文章の、なんと美しく魅力的なことか。
とりわけ、第14章の「できれば、声に出して、ゆっくり読んで頂きたい。一度でなく二度、読んで頂きたい。」のところ、素直にやってみることを勧める。私はそうして、「読むことで言葉を生みだすこと」を信じることができた。
もうひとつ、第17章、バウハウスのヨハネス・イッテン——理論家で冷静な人とばかり思い込んでいたこともあってさらに驚いたのだが——の「とても模写などできない、というのでなければ、芸術家とはいえない」が印象に残った。
その題材となったグリューネヴァルトの「嘆きのマグダラのマリア」の図像は検索すると見つかった。想像を超えて生々しく強い絵であった。
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25編のエッセー
心に残る詩や言葉を引用しながら深く自分の心を掘り下げていく,その佇まいに惹かれる.読み手があってこそ生きる本,そして書くことによって自分を知るというような在り方が素敵だ.短いながら1編1編が重く心に響いた.
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若松さんのトークは2回拝聴したことがあったのに、ご著作を読むのがこんなに遅れてしまった。
少し恐かったのだ。
大体「悲しみの秘義」というタイトルだけで、もう泣きそうになるではないか。
それ以外のご著書も、なんか痛いところを突かれる、いや弱いところを突かれる、いやちょっと違うな、痒いところに手が届くでもないし、とにかくちょっと恐かった。
でも、もう怖がらなくてもいいような気がする。
清らかで優しい、なんて陳腐な言葉で表してはダメだな…
涙で心が洗われるように、言葉で心が洗われる。
んー、うまく言えない。
こんな雑な言葉で感想を書いたら、なんかこの本を汚してしまう。
若松さん、ごめんなさい。
なんて、著者に謝ったのは初めてだ。
こんなガサツな私でも大事に大事に丁寧に読まずにはいられず、心を澄ませてくれる本だ。
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はじめての大失恋のあとしばらくしてこの本に出会う。きっと巡り会うタイミングだったのだ。電車の中でも涙がこぼれた。とてもとても心の深く染み込みときに突き刺さる言葉。コトバ。万葉集の時代から、人類はコトバで表現してきたのだな。嗚呼、わたしもコトバに救われる。
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◆きっかけ
俵万智さんの書評(https://allreviews.jp/review/813)を読んで読みたくなって。2018/3/21
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「誰かを愛しむことは、いつも悲しみを育むことになる。」
たしかにズシンと射抜かれたような気持ちになっているのに、それを言葉にできない。。
静かに自分と話をしたいとき、また読むことになる本だと思う。
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若松英輔 「悲しみの秘儀」 良書。生きる力が湧くエッセイ集。文章に 悲しみを乗り越えた人の 優しさ を感じる引用した本の言葉を借りて、著者の心の声を伝えている。
人生について
*生きるとは 人生とは何かを問うことではなく、人生からの問いに応えること
*人生には悲しみを通じてしか開かない扉がある
*絶望のあるところには必ず希望が隠れている
心を開くとは 他者を迎合することではない〜自らの非力を受け入れ、露呈し、変貌を切望すること
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「悲しみ」について、私は、できるだけ少ないほうが良いと思っていた。
「悲しみ」につながる出来事や経験は、できれば出会いたくないと思う。
しかし、若松英輔さんの著書「悲しみの秘儀」を読むと、「悲しみ」の価値が分かる。
「悲しみ」を知るからこそ、「喜び」が分かるということだ。
「悲しみ」につながる経験を、積極的にしようということではない。
人生の中で、予期せぬ出来事は、少なからず起こる。
耐え難い気持ちになったり、心に傷がついて、それがトラウマのように残ることもある。
「悲しみ」を転換して、「喜び」に変えることはできないだろう。
「悲しみ」は「悲しみ」として存在し、その存在があるからこそ、別の感情をよりいっそう強く感じとれるということだと思う。
本書の中で、若松さんは、恩師の井上洋治神父の遺稿を紹介している。
『宗教は考えて理解するものではなく、行為として生きて体得するものです。たとえてみれば、山の頂上にむかって歩んでいく道であるといえましょう。人は二つの道を同時に考えることはできても、同時に歩むことは決してできません』
この遺稿では、「宗教」について言及しているが、「宗教」を「生きることの意味」と言い換えてもよいだろう。
若松さんは、恩師の遺稿を受けて、
『人生の意味は、生きてみなくては分からない』と書いている。
人生において、自分が歩くことができるのは、たった一つの道である。
頭の中では、「あんな人生」「こんな人生」と複数の道を描くことができるが、
実際の人生は、たった一つだ。
どんな人生なのか。自分で生きてみるしかない。
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誰にも、記憶や心の奥の奥に柔らかく濡れている部分がある。日常ではその部分にうまく蓋をかぶせたり箱の中に隠したり、何重も扉を重ねたりして、他人にも自分にも見えないようにしまってある。あるいは、自分の奥底にそんなものがあったことを、本当に忘れているのかもしれない。
なのに、若松さんの文章を読むと、その存在を思い出す。というよりも、言葉が滲みて、その部分に届いてしまう。水を得たその部分は、干からび死にかけていた状態から息を吹き返し、私に、私はここにいると訴えてくるのだ。難しい言葉は何ひとつ使わないのにもかかわらず、なぜこうも、まさにその部分を語ることができるのか。
苦しくもなり、愛おしくもなる。