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支配されている側から見た歴史はどうだったのかと思い読んでみた。
秀吉は、街づくりのビジョンがなかった?
天下が統一されれば、天災や飢饉もなくなると信じていたのでは?と思うくらい、無策、事が起きてからの対症療法で、しかも締め付けるのみ。
統治、国家の運営という能力は、秀吉にはなかったのかも。
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〇目次
・秀吉政権崩壊の序曲と京都-プロローグ
・不均衡な経済政策
・不穏な京の町
・影を落とす後継者問題
・天変地異と政権の動揺
・京都の人びとがみつめた秀吉の時代-エピローグ
豊臣政権の光と闇、特に闇の側面を京都の社会史に焦点
を当て著述している。時代は主に豊臣政権が全国統一を果たし、本格的に政権運営を行う文禄期。
京都や畿内人々が文禄期には社会不安を抱えながら生活した様子がうかがえる。一つは関白秀次の長子の夭折、太閤秀吉の子秀頼の誕生による後継者問題の浮上であろう(1593年)。関白方の家中同士で起きた刃傷沙汰、それに関わる三条河原での処刑の始まり。人々が豊臣政権に怯えていたであろう当時の情勢が生々しく伝わってくる。
さらに文禄元(1592)年から開始される朝鮮出兵によって生じた不均衡な経済政策は古都奈良の人々を苦しめた。いわゆる「ならかし」である。金を奈良の人々に貸し付け、その利息を金払いさせる。たまらず訴状に臨んだ奈良の町衆が逆に処罰され、さらに京・奈良の人々の恐れは高まっていく。
極めつけは、朝鮮出兵期に行われた狐狩りに陰陽師(唱聞師)の追放であろう。その後起きた文禄5(1596)年文禄地震により人々は豊臣政権の失政ぶりをひどく痛感したことだろう。
秀吉の「金くはり」も光側面では大きな経済効果を生んだことは否めないが、一方で「ならかし」に代表されるような形で貧困層も生み出した。
一つの政権、時期を見るときにはこのような光・闇の両側面で見ることの重要性を改めて感じた。殊に史料的制約のある過去の時代の性格づけについては両側面から捉える作業が難しいのだろう。後世の二次史料等による言説に惑わされてちまいがちである。我々は少しでも当時の人々の目線に立ち、言説に惑わされることなく、時代の様相を紐解いていく必要があるのだろう。
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戦続きの武士の妻が自由に出歩き、場合により蜜夫
の挙句に子を成す・・・自分が留守の間に秀頼を産
んだ淀殿への怒りからか秀吉は「蜜夫に残虐な処罰」
を下す・・・のこぎり引きやら火あぶりやら
この時期は周囲の女房の不行跡にも厳しいのは、他
の武士たちも同様の事が許容めいた空気があった?
土佐国長宗我部掟書
男留守のとき、その家に座頭・商人・舞々・猿楽等
(親類であっても)男いっさい立ち入り停止なり
秀吉も「舞々=唱門師=声聞師≒陰陽師」という日
常的に易や呪術を行う職業者を1593.10追放した
唱門師払いの儀あり、大阪において在陣の留守の女
房衆みだりに男女との義を問い、金銀多くとりそう
ろう罪によってなり
このことはルイス・フロイスの日本史にも
関白は名護屋に滞在中、運勢占いをする魔術者たち
が大阪城の女たちから十本の金の棒をとりあげた事
実を知ると激昂し、その地方にいるすべての魔術者
たちを召喚した
貴族の日記からも
所々陰陽師、尾州へ遣わされ荒地分耕作の儀、仰せ
付けらる旨、旧冬太閤様より仰せ出だされそうろう
と131人の強制移住(配流)が確認される
『戦国、風紀乱れすぎ事件』と記憶する(´・ω・`)