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特に前半が面白かった。こうしてみると、明治以降の書道史に対しての見解も、自分自身の中で刷新できた気がする。
以下引用
感じの本質が象形文字であることを考えれば、書画が起源的に同一であった時代は確かにあっただろう。
たとえ同じ文字でも意義、指示する事物、音が大幅にずれていることもしばしばあるのだから、イメージを喚起する作用はとうに失われているとみるべき
文字とはやはり究極的にはメッセージの道具なのであろうが、それを千差万化の形象のうちに表現しようとする書芸術は、さらに踏み込んでいえば、具象ならぬ具体性、および高度な思弁性の問題を見に帯び、かつそれを抽象的な造形表現と架橋していくところに最大の魅力がある
前衛書と漢字かな混じり。イメージと言語のどちらにより重点を置くかで、表現の効果が大きく変貌する現象がみられる。後者は、言語を書き連ねるという行為の中に、どのように高度なイメージ表現の戦略を盛り込むかというすぐれて今日的な課題を含有している
書の本質は視覚芸術としての美術一般と本当になじむものなのかという、美学的な問題がある。書は社会の中で現在通用している、あるいはかつて通用していた文字を、伝統的な筆紙墨という素材で視覚的に表現することにより成立している。
書を鑑賞するというのは、書かれた文字に託されたメッセージを読み取ることなのか、あるいはそれを超えた造形的な意味を認識することなのかという疑問
字でもなく絵でもない或るものとしての作品の構想
視覚表現の一角に強力に位置づけることを目的として始まった日展は、次第に主催者の書思想の許容範囲を超える表現を排除する
漢字が単独的な形象において漂わせていた未分化で仄暗い観念の魅力は、多字になると消える
文字を書かないでも、線というものによって書で有り続けるという主張の潔さばかりが先立つ。
書き手の内面に存在するという意味で、こちらからは名指すことのできない或る不定の価値や感情を付加された線が、空間の全体に一つの骨格を伴った動きを繰り広げているかのように見える
いずれにせよ、感じが一文字でも書かれていれば、そこには文学的な意味が発生するのだが、線は作者が所有する形のない感情のみを語り、その語り方は説明描写的ではなく、あくあで象徴的である、そしてこうした抽象的な効果は、音楽が持つものに近い
★彼は、形の約束を超えた必ずしも文字として読まれるかどうかわからない線の集合を創造するという行為にでた。文字発生の現場から、次々と未知の象形や記号に到達しようとするのではなく、自分のここころの調べを託した線が、漢字のように統一ある単位にまとめ上げられていく以前の純粋な遊走状態を目にみえる映像として提示した
書かれた文字がどんな文字か判別できても、意味と蟲日ついた文学性より、純映像的な性格の強い作例の方が存在感が際立っている
★★字画を書き記すべく宿命づけられていた書が、美術的な表現へと逸脱することは、それが単なるジャンルの移し替えに終わる���りは不毛である。しかし、非文字の性格に立つ書の存在が、文字とデッサン、書字と描画、書くことと描くことの対立などど定式化されてきた芸術の分節的機構に揺さぶりをかける、スリリングな問いかけになるとすればどうであろうか。そのとき、図形への「拡張」とは、書芸術の矮小化ではなく、まさしく芸術としてのポテンシャルを拡大する事態を指し示すための積極的な言い回しに転化するのではないか。
前衛書。それがまさしく書たりえている錯綜した文脈から切り離し、フォーマリスティックな鑑賞体験の場へと向かって、ある種の還元と単純化を強いる危険を冒すことはある。しかし漢字という名の表意文字との間に複雑な葛藤を経験せずして成育したアルファベット文明圏の人間がこの書を虚心に眺めるとき、彼らの脳裏にいかなる思いが去来するか。
ミショーのデッサンと、前衛書の様式との本質的な呼応関係
瀧口はこれらの諸論考の中で、書くことと、描くことというそれぞれ異なる芸術の範疇を形成するはずの二つの行為が交差する場について、執拗な考察を加えようとしている。アンフォルメルをその一つの極点とするような欧米の抽象絵画が、描く行為の内部から未知の記号を求めて書く行為に接近したのに対し、日本の前衛書は文字を捨てることによって、描く行為に変化しようとしているというのが瀧口の観察。現代の絵画と書とは、奇妙な一致点を見出しながらも、逆向きのベクトルを描いている
★★職業的な画家としてではなく、詩人として、純粋に無意識のなかから生まれる記号を書き留めようと、何年も実験をこころみている。しかしそのデッサン集「ムーヴマン」を見ると、すべての形態が人間を連想させると同時に、象形文字の生まれてくる原型のようなものの動きが感じられる。さながら象形文字をもたない国の人間が、生きた象形文字をもとめているかのようであり、未知の「千字文」をまさぐりつつあるとでもいたい印象を受ける
存在のアルファベットの探求
古代エジプトや中国の象形文字、子供のいたずら描き、先史時代の洞窟絵画をおもわせる不思議な記号を数十行にわたって書いている
★文字ではない、しかし何かの形を表そうというのでもない線
非形象的で、文字の連想のないものも多いが、文字をモティーフとしたものもある。これは、「宝探し」のような心理的効果をあたえて損をすることがある。いずれにしてもわれわれは象形文字のマンネリズムに食傷しているし、西洋人はなにか精神の文字を求めている。という状況の相違がありそうである。しかし究極において、われわれは通じ合う
ミショ―のデッサン、比田井の書線による「人文字
」は、書き手/描き手が人間の精神に測鉛を垂らしていくような作業を遂行するところに出現してくる普遍的な形象=記号なのかもしれない
石川は、上田が文字の上に押し付けているのが、結果として、漢字の辞書的な定義、類型化した平板な意義のイメージにすぎないとしている
辞書的意義に心を砕くのか、自身の感情や気分の表現に徹するのか
森田:書は文字を書くことを場所として、内のいのちの躍動が外に躍り出て形を結んだものである
→森田は、「場所」という言葉を、紙の上の物理的な面積と同一視するのではなく、形の約束である文字が、肉体と結びつきながら、書くという行為とのものを成立させるとき、つまり心と物質が書の中で出会うときにおける「場面の広がり」として見出すことを唱えている
★井上:書は線の表現であるといっても、文字を書くことの中で線が実現するところに書の複雑微妙な秘密がある。線が文字として統合されるのではなくて、文字を書くことの中で線はおのずから実現する。古典を見るまたは習うということも、その辺りの秘密を学び取ること。書は文字を書くことで有って、線をかくことではない。いい線をかいてやろうと思うとたん、書は一等級格を下げることになる
漢字を構成する線のスタイルや造形に細かな美意識をはたらかせたのは手島右けい。対して、井上は、「細部に神が宿る」式の発想には背を向け、一個の文字そのものが、そのつど彼にとって神や仏であるかのように、それを表現の対象に据えた事実を絶対化する。
→手島は「美術」的というかモダニズムかな。だから感動しない
井上の所論には、文字と余白についての一種の宇宙論的なイメージによる把握がある。
書という芸術行為が、二次元の平面に三次元的な奥行を含んだ文字を実現するというにとどまらず、紙面上に固定された位置を与えられていながら、そうした文字があたかも無重力空間に放り出されたかのごとく自由に躍動し、浮遊しだすかのような印象をはなつ
★漢字が、現実の重力を逃れて余白の表面を突き抜け、不可視の内奥へ向かって無限に深まっていくという事態を指示するために、彼は「宇宙」の語を用いようとする
井上有一がこの作品でしめそうとしたのは、文字が書かれるとはそもそもどういうことかという根源的な問題に関わるものであり、そのために、始原的な表現の場へと文字そのものを意図的に退行させることを望んだ
その姿態から受ける印象と、漢字に備わった概念とがあまりにも見事に一致しているために、かえって反発を招く。辞典に登録されている概念緒は場から出てない
文字の意味によりかかったいい字の表現ではなく、線や空間や材質が直接に訴えてくるような未知なる視覚効果の創造をのぞむ
★同一の文字が書かれている。しかし、その文字が自己の形態の内部に繋留させている意味内容や概念は、大幅にずらされていることがわかるだろう。書という行為は、基本的に漢字の形と音を破壊することはできな。しかし、その義に関して井上は、常用されていな書体の形を傷つけるのではなく、ずらすことにより、文字が切り取る概念の範囲を変動させることができることを示した
貧という漢字の形態=シニフィアンは、ここではいかなる意味内容=シニフィエを指示しているのか。その解釈は受け手にゆだねられている。国語辞典をめくっても、辞書を開いても、この書の姿かたちに即応する意義は見いだせない。
未知なる意味内容を劇的に付加することに成功した傑作
人間の言語活動のダイナミズムは、ラングとパロールの往復。ラングは起源が恣意的。個人の思考を規制する言語コード。パロールは、ラングに依存��るが、創造的な精神がパロールを用いることで、逆にラングの起源となり、言語の構造を組み替えることができる
漢字に伴う観念の常識を打ち破る変化をもって「貧」を書き継いだことは、書という芸術による惰性化した「言語ラング」への挑戦に相当する行為
これはどういう意図があるのかと聞かれる。しかし別に意図などないのです。
ボンド墨は、一画一筆にはたらかせる意識よりももっと細かな、無意識の筋肉の蠕動が紙の上に反映される。
★アンフォルメルの絵画空間には、読み解かれるべき一切の意味はないが、狭小な意味を脱却した上での超越した意味は存在し、そこに一枚の作品の価値が発生する
ベンヤミン:あらゆる言葉が、そして言語のまるごとすべてがオトマトペ的である。ここで注目すべきことは、話された言葉よりも的確に、その書体と意味されるものとの関係を通じて、非感性的な類似の本質が明らかになるということ。話されたものと、意味されたものとの間だけではなく、書かれたものと、意図されたものとの間、に緊密な関係がある
オトマトペ:非感性的な類似の作用、つまり聴覚的な情報を文字という視覚像で置き換えるなど、異なる領域に属する記号どうしの翻訳により、自己を取り囲む外界を模倣する能力を宿した言葉。
書くことを手段ではなく、目的としてきた書芸術は、文字を表現することにより、