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ポーランド人のブラッセは、ポーランド人の母とアーリア人の父の元に生まれポーランドで暮らしていた。ドイツ軍に捕まるがアーリア人の子どもであることから、自分はドイツ人であると宣誓すればドイツ人として生きていくこともできたが、祖国はポーランドであることを捨てず、アウシュビッツに収容される。しかし、写真の技術があることから、収容所の写真班として数人の仲間とSSの指示のもと、写真を撮る作業に従事することになる。
最初のころは、収容された政治犯たちの名簿作成(という名目)の写真を撮る。しかし、写真を撮られた収容者は、その後ガス室へ送られることが決まっていた。
収容所に収容者があふれ出すとともに、写真の対象は政治犯やユダヤ人たちからドイツ軍将校たちのポートレイトや、悪名高きメンゲレたちドイツ軍の医者たちの非人道的医学実験の記録写真の撮影へと変わっていく。
いつガス室へ送られるか、餓死するか、ぎりぎりの日々の中、生き延びるられることを望み、おのれの尊厳をいかに保つかを日々挑戦し続ける。
敗戦の色が濃くなる中、証拠となる写真の処分を命じられたブラッセは、最悪の事態を覚悟して写真を残す。しかし、自身の処分を覚悟で待った朝にドイツ軍の将校たちは現れなかった。ブラッセたちは、解放されたのだ。
自由の身となったブラッセは、収容所で、ほのかな思いを抱いたドイツ語の通訳に従事していた収容者のバシカを探し、決死の思いで持ち出したバシカのポートレイト写真を持って会いに行く。しかし、ブラッセの思いとは裏腹に、バシカは渡された写真を細かく破り捨ててしまう。
極限に追い込められた人々の想像を絶する体験は、どう読んでも辛くしんどい。こんな言葉で書くことすら、後ろめたさも感じてしまう。でも、読んでよかった。人間の尊厳は、自身で守るしかないのだ。それは、収容された側だけでなく、収容した側(ナチスやドイツ軍)にも言えることなのだ。
久々に、重いものを読んだと感じた。
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人とは どのような生き物なのだろう
人とは 何を抱いて生きているのだろう
人は 何をもって 人になるのだろう
過去に目を閉ざすものは
現在に対してもやはり盲目になる
改めて、心に刻む言葉です
このような本が
ちゃんと 出版され
ちゃんと 読まれていく
そんな 世の中で
ありたい
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芸は身を助くとはよく言ったものだ。写真家というだけで収容所でいい生活ができて、戦後まで生き延びることができたのだ。そして戦後になって、それらの写真を公開して歴史を証明した。ホロコーストでお馴染みの収容所の3カットの写真や、人体実験の写真を撮影していたブラッセさんの物語。とんでもなく壮絶な描写やメンゲレとの会話など生々しいものも多い。
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図書館で予約して借りた。新聞の書評を読んで、だと思う。表紙の写真を見て、「あ、これはちょっと」と思った。続いて口絵の何ページかにわたる写真の数々を見て、ちょっとしんどいものを借りてしまったなと思う。アウシュビッツの話が辛くないわけはなく、わかりきったことなのに。頭で想像するだけでなく、写真を見ると、より迫ってくるものがある。
その写真の多くを撮ったのが、このノンフィクションノベルの主人公ブラッセである。
アウシュビッツの収容所跡の博物館、シンドラーの工場跡の博物館で、数え切れないほどの写真を見た。あの時は今から思うと、感受性のレベルを下げていたように思う。そうでないとその場にはいられないような感覚。目を背けないではいられないような写真の他に、この主人公も関わったであろう、たくさんの肖像写真があった。1枚1枚ゆっくり見ようとも思えないほどのたくさんの写真。この本の口絵の写真をじっくり見ると、いたたまれなくなる。
あんなにたくさんの人を収容し、殺すくせに、3ポーズも写真をしっかり撮るよう命ずるなんて、なんという几帳面さだろう。整然と並ぶ赤レンガの建物、まっすぐな有刺鉄線など同様、さすがドイツ人といいたくなる。ただ、そうでありながら、人の命に関しては、ものすごく雑に軽く扱い、アンバランスだ。
主人公自身は、カメラの腕があるので、比較的マシな待遇を受け、生還できたわけだが、収容所の中で、おぞましい写真を何枚も撮らされ、どちらかというと語りたくない経験だったろう。
それをきちんと伝えてくれ、またしっかり聞く人に恵まれ、貴重な記録になったことは素晴らしいと思う。
こういうものを読むたびに、人間は一体どこまで残酷になれるのかと考えてしまう。平常時に残酷でない普通の人も、どうも残酷になるようだから、それが恐ろしい。そういう人間の闇の部分を避けるのは多分無理で、だからこそ、そういう状況を作らないようにすることに、世界中の人間がそれぞれ尽くすしかないのだと思う。
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アウシュヴィッツについて書かれた本は多々あるが、これはいままでにない視点からのものだった。
なぜ写真が残っているかわかった。
ユダヤ人以外の収容者、しかも長期間
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アウシュビッツに囚人として収監され、記録写真を撮影する部署である名簿記載班で強制労働をさせられたブラッセ氏の体験を元にしたノンフィクション小説。
どうして、同じ人間に対してこれほどおぞましいことが出来るのか。
これまでこういった本の写真に写っている人々に想いを馳せることはあったが、この写真を撮った人がどういう人物であったかを考えたことがなかった。
兵士か誰かが撮ったものだと思っていたからだ。
いままで、ホロコーストを生き延びた人々の本をいくつか読んできたが、それも当日10代であったとか、小さな子供であったとかいうものが多かったので、本書のように、当時大人(と言っても20代前半)であり、すでに自分の言葉で何かを語ることができた人の経験を読んだのはもしかしたら初めてかもしれない。
自分に能力があったからそれを活かして生き延びることができたブラッセ氏だが、それに伴う自責の念などは想像しても想像しきれない。
本書の冒頭にある写真を見ただけで、その瞬間に生きていた人が確かに存在していたと感じ涙が出てきた。
文章だけでも目を背けたくなることばかりなのに、実際にそれを目撃し、記録しなければならないということがどれだけ辛いことか。
写真を撮って、すぐに殺されてしまうということがわかっていたから、最高の出来にしようと思っていたところから、ある種の抵抗と、人間の尊厳を少しでも守り、残そうとしたブラッセ氏の心を感じました。
思い出すことも辛い経験を話してくれた人に対して、戦争を知らない私に出来ることは、事実を知り、もう二度とこのような恐ろしいことが起きないように考えることだと強く思った。
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まず巻頭の口絵写真を見ていただきたい。筆舌に尽くしがたい恐怖に怯えながら、レンズを見つめる少女たちの澄んだ眼差しを。
ナチスはアウシュヴィッツの収容者を厳密に管理するため、一人につき3ポーズの写真を撮影し管理していた。撮影者は同じ収容者、ポーランド人ヴィルヘルム・ブラッセ。政治犯として収容された彼は、写真家としての技術とドイツ語に堪能であった点を買われて名簿記載班に任命され、解放まで約4年間、ナチスの蛮行と犠牲者たちの姿を記録し続けた。
ブラッセの生前のインタヴューや資料をもとに、当時のようすを物語として再現したドキュメンタリー=フィクション。
アウシュヴィッツに収容される者は一人残らずブラッセのレンズの前を通り、記録された。
欧州各地から次々に送り込まれてくるユダヤ人、「ジプシー」と呼ばれ差別されていたロマ民族。 “ドイツ化”不能、政治犯等のレッテルを貼られたドイツ系の人々。さらには、人体実験の現場、丸太のように積み上げられ焼かれる人々、コレクションされた人体の一部。
それだけではなく、クラウベルクやメンゲレなどナチスの幹部たちのポートレートさえも。
その写真を見れば、史上最悪の虐殺行為をおこなっていた者たちも、ごく普通の人であったことがわかる。
そして犠牲者たち。彼らも同じ、ごく普通の人であって、決して、あんな仕打ちを受けるべき人々ではなかったはずだ。
ブラッセは苦悩しながらも撮影を続け、1945年、ソ連軍による開放間近の混乱のなか写真やネガを命がけで守った。
その写真が、当時から現在に至るまでアウシュヴィッツの実態を世に知らしめるうえで果たした役割は計り知れない。
ここに地獄があり、ここに現実がある。
いかに悲惨なものであろうと、私たちは彼の撮った写真から目を逸らしてはならない。
ブラッセは戦後故郷に戻り、ふたたび写真家としての仕事を始めようとしたものの、断念した。
撮影しようとした少女の背後に、無数の収容者たちの目が亡霊のように浮かんで見え、どうしてもシャッターを切ることができなかったという。
彼ほど広範囲、長期間にわたってナチスの非人道的行為を見続けたものは多くない。
『記憶を消し続ける。前日に目にしたことを日々忘れていく。過ぎていく時間をことごとく切り捨て、闇に葬り去る。未来に対しても固く目を閉ざす。夢も見ないし、幻想も抱かない。』
決して忘れることを許さず、記憶を留める写真を撮影しながら、正反対の掟を自分に課して生き延び、そのぶん戦い続け、苦しみ続けた彼の人生もまた本書の主題として注目したい。
ブラッセはアーリア人の血筋をひいていた。その気になれば、収容所からいつでも解放されたはずなのだ。しかし彼は、最後までポーランド人として生きることをやめなかった。
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図書館の本 読了
内容(「BOOK」データベースより)
被収容者の肖像写真を撮り続けた恐るべき体験!5万枚にものぼる写真に込められた心の叫び。政治犯として収容された青年ブラッセが見たものとは?
ブラッセが語ったことを物語り形式に組み替えてあるためだとは思うけれど、悲惨さがソフトに伝わる作品となっていた。
近頃アウシュヴィッツにはユダヤ人以外の囚人がいたという視点のものにおおくめぐり合うのはそういう時期なのか。
愛があったとしても、それは傷を癒しはしないのね。
Il fotografo di Auschwitz by Lucia Crippa & Maurzio Onnis
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ポーランド人の母とオーストリア人の父を持つアウシュビッツに送られた一人の囚人が写真家として、写真を撮り続けた話です。衝撃的で、考えさせられます。
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写真とは何だろう。
読み終えて、最初に感じた「疑問?」が、そういう問いかけだった。過去のある時点を映しとった、粒子のムラに過ぎない情報の媒体。勝手に解釈を変える人もいる時代なのだが、「意味」そのものは、見る人によって賦与されるともいえる。
アウシュビッツで「殺す人」を記録することを「殺す」人から強制された主人公が、解放後、二度とカメラを使えなくなったというエピソードが語ることを考えること。
それにしても、忘れてはいけないことがあるということ。あらゆる捏造されうる「事実」には、その時、その場で、そのように起こったという「事実性」があるということもまた、忘れてはいけないことの一つだと思った。
ブログにも感想を書いています。
https://plaza.rakuten.co.jp/simakumakun/diary/202006190000/
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アウシュビッツ強制収容所で「カメラマン」として働いたポーランド人収容者ブラッセの実体験を基にして書かれたノンフィクション小説。生き延びるために心の葛藤を押さえながらカメラマンとしてナチスのために働いてきたブラッセは、戦争の末期には自分の「特権」をナチスへの抵抗運動のために活用させるようになる。ブラッセの心の変化が読んでいて興味深い。
収容所生活を生き延びた人たちによる著書は多く出版されていて、邦訳も多数ある。本書もその1冊に含めることができる。他のテスティモニー(証言)本と比べると筆致が軽い印象を受ける。体験者自身による記述でないのが理由かもしれない。とはいえ、本書も当時何が起きていたのかを知るために読むべき書籍の1冊であることは間違いない。
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写真はまさに真実を写しだす。囚人たちの恐怖や絶望、残虐な人体実験、非道なSSたちの人間らしい一面さえも。本書はアウシュヴィッツに収監されながらも写真撮影の技術を買われ、生き延びたブラッセの話。いくつか見たことがある画像はこの人の撮影によるものだったのか。どんな気持ちで、葛藤を抱えながらシャッターを切ったのかと想像すると胸が痛い。
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どんな写真があるのかと期待して読んだのですが、写真は冒頭数ページにあるのみ。折角なら文章とその時の写真(見せられるもののみ)で当時の雰囲気を感じながら読みたかったです。
主人公であるブラッセは写真家という職、仕事に対する姿勢、そしてアーリア人の血を引いているという点からSSに優遇され、重用されていました。そのため、SS側の動きや考え、会話などが多くあり新鮮でした。個人的には写真を撮ってもらった後自殺したSSの女性の話が印象的でした…