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仏教初学者で唯識論の勉強をしたいと思い本書を手に取りました。結論から言えば大変満足しています。文庫本でページも300ページ弱ですからすぐ読めるかと思いましたが、思った以上に中身が濃かったです。これは良い意味で期待を裏切ってくれました。線を引いた箇所の数があまりにも多いので、本書の良さを端的に説明できないのですが、唯識思想だけでなくそのほか仏教全般にも通じる智慧を本書は多数散りばめている印象を受けました。「唯だ心(識)だけが存在する」、しかし識は「非有非無」、つまりあるけれどないものです。座禅では「心を無にする」といいますが、まさにその状態は心がありません。つまり心は空だというわけですが、その先があって、心を無にすることで、絶対的な真如の存在を覚知できるということのようでした(もちろんものすごい修行が必要だと思いますが)。
本書によれば、唯識論は宗教と科学と哲学の3つを含んでいるとのこと。科学的な側面として、本書では量子力学の話をされていますが、確かに最近話題になっている量子コンピューターなどは、仏教的な側面があると感じています。これまでのコンピューターがゼロかイチの値をとるビットの集合体で情報を表していたのに対して、量子コンピューターでは量子ビットがゼロとイチを同時にあらわすことができます。ゼロでもありイチでもある、あるいはゼロでもなくイチでもないわけです。量子力学が発展すればするほど、仏教の宇宙観が世界的に広まるのではないかと個人的には期待しています。
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唯識について誰もが分かる本ではないかと思う。
かつ、分かるが故に分からないというところまで案内される。
末那識や阿頼耶識の存在はヨーガをしないと分からないし、五識や意識の本当の使い方も仏教でいう修行を行わなければ分からない。
何より、正聞熏習と無分別智の両方の理解と実践が欠かせない。
それを行ってもなお仏様には届かないのだからとてつもない。
仏教哲学の中の唯識は特に論理的で腑に落ちる。
しかし腑に落ちても末那識や阿頼耶識まで落ちているのか、そもそも意識して理解できているのか、本当のところは分からない。
私たちは私たちのことも分からないのに、何かを分かったかのように振る舞う。
私たちも自分を分からないと思えて初めて学びが始まると思う。
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三蔵法師が命を懸けて追い求めるほどハマった唯識思想を平易な言葉で解説した本。
正直半分も理解できたか怪しいが、少し理解できただけでも、何やら途轍もない思想に出会ってしまったと感じた。
唯識の思想とは、簡単に言うと、すべての存在は心の中に認識されて初めて成立する、とした思想だ。具体的にどういうことかは、作中のピラミッドの例がわかりやすい。ピラミッドを見て、人はピラミッドがあると言うが、よく見れば、ただそれを構成している石があるだけ。石を積み上げたものをピラミッドと名付け、認識することで初めてピラミッドは存在する。
ここまでだとヨーロッパ的唯心論と変わらないが、唯識の思想はここからさらに進む。唯識では、心は仮にあるものと捉える。認識対象があるとき、認識主体(心)は関係的に存在するが、認識対象がなければ、認識主体(心)もない。つまり、認識主体(心)は「あるようでなく、ないようである」ものである。以上のように、唯識は三段階で深まっていく(唯識無境⇒境無識無⇒空)。そして、「あるようでなく、ないようである」境地、二分法的思考を超えた「空」の境地まで行きつくと、本当に重要なのは「識」ではなく、「唯」であることがわかる。言葉による認識を剥がし、生の存在を見つめ、存在そのものに到達したとき、あるのは「唯だ、唯だの世界」だ。
これがなぜ仏教なのか、このような思想が仏教の目標である苦からの解放に何の関係があるのか。仏教では、苦の原因は無明、すなわち、現実を正しく認識できないことであると捉え、正しい現実認識とその方法を説いている。唯識はその正しい現実認識である。
現実認識を変えるための思想だ。途轍もなくて当然であった。
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人生観が変わる。
言語世界が異なるから、異次元にも感じるが、その言葉によって、日々の迷いに明かりが差すようだ。言葉に身を委ねてしまいたいような思考停止と、しかし必死で食らいつきたいような思索の活性化というアンビバレントな感情。宗教や哲学とは本来的にそういうものだろうか。
反復して身体化させたい。そしてこの感覚を伝えたいので、抜粋して記す。ブクログでは感想ではなく、メモ機能を多く使うのだが、以下はその内容だ。
一切不離識、唯識無境
すべては心の中にある。心を離れてものは存在しない。心の外にものはない。
仏教は、大まかに言えば、原始仏教→部派仏教(小乗仏教)→大乗仏教という順序で展開。
唯識思想はヨーガを実践し自己の心のありようを深層から浄化することにより、迷いから悟りへ。
唯識思想は西遊記の三蔵法師としても有名な玄奘によって中国に齎された。玄奘は膨大な経論を訳出したが、成唯識論の訳出は中国仏教史上画期的な事業だった。弟子の窺基が後に法相宗を興す。法相宗は唐の留学僧により日本に伝わった。
一人一宇宙で他人は入れない。これを人人唯識という。3人が同じ1本の木を見ていたとしても、実在する1本の木があるのではなく、一人ひとりの心の中に木の観念があるという考え方。
ここでは、一人ひとりの頭の中の世界を、具体的世界とし、心の外に存在する観測され言葉で語られる世界を抽象的世界とする。私たちは同じ世界に住んでいると思っているが、そうではない。一人一宇宙に閉じ込められている。
深層に働く自我執着心を末那識。人に会うと眼識が働く。憎い人という感情は、末那識が作用する。それを言葉で発するのが意識。それら全てを統括するのが阿頼耶識。
元の抽象世界は、無色無名である。他人は、ただの他人であって、そこに憎さを見いだすのは、自らの思いと言葉である。二元対立のように比較をしてしまい囚われる。それを本来の無色、生の世界に帰す力が、唯識思想が強調する「念・定・慧」。
求めても得られない苦 求不得苦
言葉と影像が結合関係に入った途端、外界にものが認知される。→言語ゲーム一元論みたい
それに対する執着が二つ。自分への執着とものへの執着。我執と法執。
そして、全ての苦は、執着から生じる。
無明、無知こそ四苦八苦の根本原因。無明だから、執着するのだ。電車の席に座れた時、それは運が良かったから座れたのだが、他人が立っているから、椅子を作ってくれたから座れたという現象の背後にある法則「理」に対し、別のものの見方をしてみる。そうすると、自らは生かされている事に気づき、我執が無明から解かれる。この我執による目の濁りを煩悩障とよぶ。
他者があって自己がある縁起の理。物理・心理・倫理を包括する理。実態概念ではなく、関係概念でものごとを観察すること。
死別し会社も辞めた丸裸の自分から、真如の理が見えてくる。もの、役職などへの執着をなくす。
地獄とは自と他が対立した世界
極楽とは自と他が一如になった世界
意識のス��ットを何に照射するかによって世界が大きく変わる。頭の痒みを思い出したり、荷物の重さを感じたり、過去の出来事を強く意識して愚痴を言ってみたり。
正しい法を正しく繰り返し繰り返し聞くこと
阿頼耶識に届けること 正聞薫習
言葉が阿頼耶識の名言種子となり、一切の現象をつくり出す
唯識派は神のような超越者を立てない
りんごを見たときの赤い、丸いと言う属性は、深層の阿頼耶識から生じるものと理解する
阿頼耶識は原語アーラヤ・ヴィジュニャーナの音訳だが、アーラヤは蔵、倉庫
一瞬一瞬に生じては消えていく不連続の連続体があるだけ。刹那に生滅する業の相続体がある。
プラトンは霊魂、デカルトは精神といった
山の中に1人隠遁して修行、清らかな心になっても、それだけでは決して真の人間の生き方ではない。人々の中で無分別智に基づく行為を展開しなければ、仏教本来の修行ではない。エゴをなくしていくこと、何もできないのであれば静かに微笑んで座っている。
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末那識と阿頼耶識→執着と深層意識。難しい仏教用語だ。読み終えるのは無理と思ったが、マインドフルネス、瞑想の経験が生きたのか。五感や心(の動き)、関係(相手)はあるのにその主体たる「自分」はない、ない自分をあると思い込み、その「自分」に執着して苦しみ悩み、ときに罪悪までおかしてしまう。「無我である」「我は空である」が唯識思想、唯だ心だけが存在する。難解だが面白かった。