投稿元:
レビューを見る
興味深い内容でおもしろく読んだが、訳語の選択にクセがあって若干リーダビリティを阻害するきらいがある。
投稿元:
レビューを見る
2016.09.08 汽車(鉄道)の発展に伴って19世紀の前半からイギリスで始まった通勤。会社と家を別々の場所に持ち行き来するというスタイルは、ロンドンが一気に都市化し居住環境の悪化が進む中で、中流層(チケット代を出せるエリート層の人々)から始まった。通勤からスタートした移動は、人に自由を与え、職業選択の幅を広げ、経済的な発展にも大きく寄与したという。ICTの発展で今後通勤はなくなるのではないかという声があるが、通勤を推奨する名だたるIT企業が多いその実態からも今後ともなくならないだろうという。通勤は、家からも会社からも開放されたもう1つの大切な時間であり無くてはならないもののようだ。
投稿元:
レビューを見る
通勤はいまでこそ日常的な活動ではあるが、かつては紛れもなく革新的な行為だった。それは過去との決別を意味し、新たなライフスタイルの扉を開く鍵でもあった。通勤の短い歴史の大半において、人々はそれを良きものと考えてきた。概して通勤は苦行というよりもむしろ憧れの対象とみなされてきたようで、地球規模で言えば現代もそうだ。
ヴィクトリア朝時代、最初の鉄道ブーム期に始まった通勤という活動は、移動の自由を象徴し、その自由をつかもうと挑戦した勇気ある人々に新たな地平線を望ませてくれた。(p.14)
1900年ごろまでには、列車でらえ乗合馬車であれ地下鉄であれ、それらを利用した“通勤”問いう行為が、ロンドンとその周辺、半径50キロ圏内の地域を変貌させていた。最初は裕福な層が、次には中産階級が郊外へと逃げ、それまでは野原だった場所に広大な定住地を生みだした。職場と家庭の分離、そしてそれらをつなぐ通勤が、英国社会の中産階級の新たな慣習となった。こうした変化のスピードは、そこに関わった人々をも驚かせ、その結果は嘆かわしいものとされた。(p.63)
自転車通勤は数が最も増えているというだけでなく、通勤に関して最も肯定的な考えを持つ人々でもある。彼らは、日々、職場に行き来するための無為の時間を、活力を得られる有効な時間として利用し、それを自分でコントロールできると感じている。自転車通勤をする動機を調査したところ、彼らがそれを楽しむ原因が明らかになった。自転車に乗ると(多幸感をもたらすという神経伝達物質)エンドルフィンが放出され、さらには環境に寄与する喜びが湧き出てくるのだ。(p.174)
屋根に登る人々の無謀さも、先に述べた「集団的強靭性」の一種かもしれない。この場合、人々が結束して立ち向かおうとしている脅威とは、彼らの行動を規制しようとして鉄道会社が打ち出してくる対策だ。程度の差はあれ、鉄道運営者を敵視する傾向は、どこの通勤客にも共通しているように思われる。(p.198)
強制されなくても人が通勤を続ける理由はいくつか挙げられる。通勤には職場と家庭生活を切り離す効果があるのだ。職場でも家庭でも、実際に顔を見せてその場にいることが重要で、私たちはそうしたことを必要としない生物へと進化しないかぎり、また、狩猟採集本能がなくならないかぎり、労働の場と休息の場を往復するための移動手段はなくならないだろう。(p.316)
従来、通勤の動機は別の場所へ行って利益を得ることであり、移動手段そのものにはなんの利点もないと考えられていたが、最近では移動中に行う活動と移動行為そのものにも意義があることが明らかになってきた。通勤中は無為の時間ではなく、通勤者は携帯できるさまざまな楽しみを貪欲に求めてきた。通勤車両内は、携帯電話などの新製品や新たなコミュニケーション・ツールが社会に広く浸透する前の“実験の場“ともなっている。(p.348)
投稿元:
レビューを見る
通勤の歴史を総ざらいできた。P317では『将来、働く必要がなくなったり、致命的な感染症が世界規模で流行すれば、人と接することが時代遅れの活動になるのかもしれない』と新型コロナウイルス感染症後の通勤についても触れていて先見の明があると感じた。