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自分を守りすぎてチャンスを逃してしまっていたのかもしれない。人生のリスクやマイナス面を過度に恐れて行動できないそんな経験があなたにもあるのではという問いかけ。ギクッとする箇所満載だがだからこそ自分を見つめるときに読みたい一冊。
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脱するには、一歩踏み出すのみ。
結局家族など甘えやたてがあるから回避する。
そして自分で選択する。
好きな領域で行動を広める。
安全基地を作り自分で解決する術をもち一つ一つ乗り越えていく。
小さな変化を起こす。
神経質も一つの発達障害なのか?
なんか障害ってつく疾患が増えている。
回避性の人が回復を遂げた時、同じ人とは思えないような変化が見られるようになる。行動することに不安がなくなり、自分にブレーキをかけ過ぎなくなる。
自由に動けると感じ
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小学生の頃から、なんとなくいつも気だるくて集中力も持たなくて、根性ないな自分と思っている。それを病なのだと?決めてくれれば開き直れるのに。と思って買ってしまった。逃げではないけど、少しでも肯定的になりたくて。
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「自分に自信がなく、人から批判されたり恥をかくのが怖くて、社会や人を避けてしまう。それが回避性パーソナリティの特徴だ」。自分のことかと思うくらい当てはまっててビックリ。「私は回避性パーソナリティです。愛着スタイルは恐れ・回避型です。これを読んでご理解よろしくお願いします」と、自分の取り扱い説明書として周囲の人に配って回りたいくらい(笑)。性格自体は変わらないからそれを悩んでも仕方ない。例に挙げられている星新一やビアトリクス・ポターのように、自分らしく生きるしかない。
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わかりやすく、自己分析にもなるが、改善策はなかなか難しい。家族の理解とか、愛着障害って、自分自身では解決が難しいし、長期化してると余計複雑化してるし。
母親への帰結が多過ぎるのも気になる。そんな完璧な母親なんて存在しなくない?それを実現させる周囲の理解もどんどん無くなっていくし。
とにかく、まず自分で決めて、自分で行動していくのが最優先かな。
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タイトルを見ると衝撃的な内容かと思われますが、至ってそれは杞憂と感じます。多分、一度ぐらいはそう思う事が人生であると思うのですが、その思考がどのような形で起こるのか?それが分かりやすく書かれている印象。読んでみて、案外気持ち良く理解出来た印象です。悩む時は、このような書籍も読んでみるのは良いかもしれません。
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回避性パーソナリティ障害の当事者、必読。
「読むカウンセリング」とも言うべきか、読んでいるうちになぜか「一歩踏み出してみよう」という意欲が出てくる。
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自分にも当てはまるところがあるかもと反省しつつ、周囲にそういう人いるなあと思うこともあり。腹を割って話す相手を慎重に選びがちなうえに、大丈夫だと見極めた相手にはときに執拗に追い込むような失言をしてしまう。対人関係のバランスが取れない状態。相手の反応がある程度予想できる範囲での会話が自然かと。注意したいと思いました。
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回避性パーソナリティという言葉を知らなかったので読んでみましたが、これはなかなか難しい(生きづらい)症状だと思う。
この面倒臭さは、生まれ持った性格というよりは、かなり後天的に形成されるパーソナリティだと思う。
もちろん、発達障害などにより生きづらさがこじれてなってしまうケースも多いようなので、突然そうなってしまう訳ではないようだが、本人も周りも気付けずに苦しんでいる人が多いように思う。
個人的にこの回避性を持っていたであろう人が身近にいて、悩んで悔やんだ苦い記憶が蘇った。
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・自分のことは自分で決める。主体性を持つ。
・困ったら助けを求める、人に頼る。居場所を探し出して安全基地にする。
・人生は有限であるということを忘れない。
この3つを学びました。
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回避性パーソナリティ障害。ひとと会うのが面倒くさい。リスクが怖い。
井上靖と星新一のエピソードが興味深かった。
著者は「母という病」の人。
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岡田尊司さんの本は、普通に読み物として面白くて好きです。
お仕事関係で精神的な障害について学びたくて手に取りますが、興味深く読んでいます。
もっと深めたい、もっと知りたいと思っています。
対処法がなかなか難しいなと思うけれども、どのような心理でそういった行動、理論が働くのか?を学ぶのは大切なことだと思います。
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生きるのが面倒くさいと常々感じるが、自分には定職もあり、交流も恋人もある。本書は回避性パーソナリティー障害についての解説のため、タイトルにつられて手を伸ばした期待に応えるものではなかった。
ただ、星新一や井上靖、ビアトリクス・ポターなどの著名人にも回避性の傾向がみられ、彼らの生き方についての考察は大いに参考になった。自身の意思で選択をしていくことが生きる意欲につながるとのこと。受け身のサラリーマンになって以来、年々生きるのが面倒くさくなっているので、納得の納得である。
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ベートーヴェン、モーム、ブラームス、森鴎外、井上靖に村上春樹。
著者が、回避性向をもつ人物として挙げた人物たちです。そのパーソナリティーのために恋愛や人生において困難な状況に直面せざるを得なかった人物として挙げられたのは、錚々たる著名な音楽家や作家達であることに大変驚きました。
その性向のため、自分の内面や弱点をさらけ出すことが出来ずに、健全な対人関係を構築できず縮こまってしまう人格について、筆者は自身の体験からくる共感と励ましの言葉をかけているように読めました。
回避的性格がどのように形成されるかについて、親との関係性、愛着については多くの事例が書かれています。自分と親との関係性がどのようなものであったか、振り替えられずにはいませんでした。
著者は、回避性の人は自分から変えたいという気持ちを強く持って、小さなことでも自分で決めて、行動を起こすことが重要といいます。家族や周囲も、本人に強制するのではなく、カウンセリングなどを通じて家族自身の問題に向き合うことが、結果として本人の変化につながる、と。
「これは自分の人生なのだから。自分の好きに使っていい、自分のための時間なのだから」、という筆者の言葉に勇気づけられる回避性パーソナリティーの人は多いでしょう。
余談ですが、自分の人生の主体性を自ら取り戻すことに成功した例として、星新一のケースが紹介されています。その父親である星一氏については、本書を読むまで全く知りませんでしたが、そのバイタリティ溢れる生き様に大変興味を惹かれました。星新一が父をモデルとして書いた「人民は弱し、官吏は強し」という小説を読んでみようと思いました。
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回避性パーソナリティ障害とは何か?回避性になるメカニズムとは?愛着性障害、社交不安障害、発達障害との違いや関連は何か?回避性と現代社会の考察、偉人の人生から読み取れる回避性、回避性の人々が回復する過程とは?といった内容。
回避性パーソナリティ障害とは、否定されることや恥をかくことを非常に恐れ、自己抑圧的になることで社会生活に支障をきたす障害、ということらしい。まったく他人事でないどころか、判断基準にほとんど当てはまってしまうので、これは完全に自分事だ。ただ、その判断基準を作っているのがアメリカの精神医学会という点は気にかかる。アメリカで作った判断基準をそのまま日本人に当てはめていいのだろうか?アメリカと比べたら日本は同調圧力が強く、恥の意識が強いだろう。そこで否定されることや恥をかくことを非情に恐れ、自己抑圧的になるのは自然なことではなかろうか。土地に根付いた文化や風習、気質のようなものを無視して、このような判断基準をグローバルに適用するのは違う気がする。日本なら普通の範疇の人がアメリカでは鬱病扱いかもしれないし、アメリカでは普通の範疇の人が日本ではADHD扱いになる、ということは起こり得ると思う。
回避性に至るメカニズムについては、親の子に対する無関心・ネグレクト・過干渉、いじめ、生まれ持った気質などが関係していると説明している。これらの点については概ねわかる気がする。けど、回避型だの恐れ・回避型だの不安型だの、ここまで細かく分類する必要あるのかね。放置でもなく過干渉でもないちょうどいい距離感の親っていうのも相当難しいし、ないものねだりだと思う。
回避性の人が世界的に増えているのは、現代人の進化・適応の結果ではないか?と考察した章は興味深かった。コミュニティや他人との深い関わりを避ける個人主義の広がり、少子化による親子の距離の変化、ITメディア等の発達による情報過多によって、体験が画一化し主体的な体験が難しくなる等、どれも考えさせられる点が多かった。ついでに言うとポリティカル・コレクトの広がりも一役買っている気がする。差別、DV、セクハラ、パワハラ等の被害に会いたくなければ、あるいは糾弾されたくなければ他者と関わらないのが確実だろう。
回避性から回復するには、安心できる居場所を確保して少しずつ人との関わりを拡張していくこと、と説明されていて、そうなんだろうと思う。ただ、「居場所」の問題は難しい。家庭や学校や会社が居場所にならないからいろんな問題が起きている訳で、それ以外の居場所は一体どこにあるのか?最近よく「依存先を家庭、会社など一つに集中させずに分散させよう」なんて言われている。個人的には、コアとなる居場所があって初めて依存先の分散が意味を持つような気がする。コアとなる居場所がないまま単に依存先を分散させても、精神的にグラグラしたままではなかろうか。
それにしても、心の在りようになんでもかんでも病名付ける傾向は年々顕著になっていてモヤモヤする。何かというと「共依存だ」とか言い出すのもムカムカする。何より自分自身がその言葉を知ったせいで、「あの人ADHDっぽいな」みたいに自分だけでなく他者をも判断し裁くようになっているのが腹立たしい。知らないほうが良かったのではないか、とすら思う。
世の中には「発達障害で依存症で社交不安障害で双極性障害です」みたいな、もはや心の病のデパートですね、みたいな人もいる。それはそれで本当なんだろうけど、「業」の一言で済ませてはダメなんだろうか。あるいは「キツネ憑き」ではダメなんだろうか。心の在りようを現す言葉は、もっと非科学的で非論理的な、曖昧な線引きのできない、ふわふわした素朴なものであってほしい。心ってそういうもんでしょ?