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定番の『いきの構造』、哲学的主著である『偶然性の問題』、偶然論と対をなす時間についての重要論文を集めた『時間論』、そして今回新たに本書が加わり、九鬼哲学の全貌がほぼ岩波文庫で読めるようになった。特に本書は、人間学や実存哲学をベースとする哲学概論、偶然論と時間論という九鬼哲学の真髄、同時代としては驚嘆すべき的確なハイデガーの紹介と批評、「いきの構造」に合い通じる日本文化論など、九鬼の全業績のエッセンスが凝縮されており、九鬼哲学への入門として最適であるだけでなく、その到達点を示す最晩年の論稿「驚きの情と偶然性」が含まれているという意味でも、九鬼ファンにとって外せない一冊である。
九鬼の文章は実に無駄がなくそれでいて気品がある。リゴリスティックな「意志」と運命を受け入れる「諦念」を基調とする九鬼の独創的な哲学がそのまま表れたような味わい深い文体だ。偶然性に直面して虚無に陥るのではなく、他にもあり得た可能性の中からただ一つ生起したこの一瞬を「驚き」をもって受け入れる。「ニヒリズムによるニヒリズムの克服」を企てたニーチェのひそみに倣えば、これは「偶然性による偶然性の克服(古川雄嗣)」と言ってよい。九鬼が円環的な時間というコンセプトに強い関心を示すのも、永遠の生に魂の救済を求めようとしたのではなく、一回的な生と永遠の生が殆ど同義であるという可能性を示すことで、過ぎ去る「一瞬」を「驚き」に満ちたかけがえのない「一瞬」に変えようとしたとみるべきだ。
「人間がただ一回だけしか生きることが出来ないで、我々の一歩一歩が我々自身の徹底的否定である死に向って運ばれているといふところに、人生の有つすべての光沢や強さが懸っているのである。・・・普通の意味の来世を信じる位ならば、私はむしろ厳密な同一事の永劫回帰を信じたい。なぜなら一生が厳密に同一な内容をもって無限回繰り返されるといふことは、一生が一回より生きられないといふこととつまりは同じことになる。」(人生観)