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隈研吾を人類学的手法で、分析評価するという本であると思ったが、
そもそも人類学的手法が、よくわからないので、
一体何をどのように、隈研吾を分解し、解体し、評価するのか?
ということが、読みながらも、よくわからない。
そして、隈研吾は、あまり出てこない。
隈研吾のスタッフたちの奮闘ぶりを、追いかける。
こんな手法で、隈研吾を人類学的に評価できるのか?
と悩みながらも、読んでいく。
その現場における混乱は、リアルタイムのように
というか ドキュメンタリーのように、叙述される。
ブリュノラトゥールの「科学がつくられているときー人類学的考察」
のなかで、科学者がどうやって科学を作っているのか?
という流れを受けて、ブリュノラトゥールの弟子ソフィーウダールは、
建築家はどうやって建築を作っていくのか?を明らかにしようとしている。
アクターネットワーク理論の中で、建築家を捉えようとした。
この研究は、1999年から始まり、丁度 愛知万博のプランが作られていたときで、
隈研吾も、プロジェクトの座長であったが、途中で辞任する。
ウダールは、万博の経緯をつぶさに見ながら、
結果として 隈研吾を追っかけるのである。
愛知万博が、「大きな物語」に対して、
ブリュノラトゥールは、解体しようとしている。
隈研吾が、愛知万博に違和感を感じ、そして「小さな場所」からの建築という発想は、
ブリュノラトゥールの考えに近いものがあったことで、
その独創的かつ挑戦的な思想がどこから来たのかを調査することになる。
「小さな場所」「場所を与える」「場所を贈与する」
隈研吾は、建物の不可視性、素材の非物質化、庭師としての建築家をテーマとしている
とウダールは認識して、それが研究対象になっている。
隈研吾は、「もちろんいいですよ」と受け入れた。
そして、隈研吾の民族学的調査が始まり、民族学的データが集積された。
(ここに、民俗学的という言葉があるのが、おもしろい)
民族学的なデータは、実際の建築物やその美的質、哲学的思想との共鳴に関連する。
作品を導く様々な意図、作品の本質を隈研吾から聞いたが、
仮説として、事務所や日々のルーティンワークの中に見いだせるのではないかとした。
日常の細部の集積の中から、導き出していくことができるかだった。
つまり、場所や素材を通して、隈研吾の建築を示そうとすることだ。
思想と実践との間の結びつきを別な仕方で構築すること。
細分化し、ディテール、瑣末な事象、小さな素材から建築を扱う。
つまり、プロセスとしての建築、隈研吾や様式、素材の占める位置、構想のための媒体、
コンテクストについて、明らかにしていく。
その手法は、場所から始まる。全く、隈研吾の手法と良く似ている。
場所から、全ての現実が立ち上ってくるのだ。
建築思考の理論的な枠組みではなく、建築アプローチへの具体的な方策を
探っていくことを手法とする。
隈研吾がいう「自然というものと人工物というものが一つの���和」
「建物の中から外の自然がどう見えるか」と考え、それぞれの場所の個性を掴む。
それは、日本の庭師のやり方であり、非オブジェクトあるいは反オブジェクトを自然の中に刻み込みたいという意志がある。
隈研吾は、典型的なポストモダン建築の具現化した M2ビル。
それは、その後「権威的で自己中心的な建築」として批判する建築物から始まった。
建築家が、構造物の創造主のように振る舞う。
そして、物質の粒子化という溶けた建築への進んでいく。
森に棲む見えない存在や力と再び関係を結ぶ。
それは、ブリュノラトゥールの思考の延長線上にあるようにも見える。
環境と客体、主体と客体、時間と世界と連続したものとして捉える場所の論理。
物質の溶解とオブジェクトの死を唱える。隈研吾は場所に精通した人として登場する。
場所の雰囲気を感じること。場所に耳をすます。
その場所にある何かを感じる。場所から与えられる。
確かに、ウダールは、日本人特有の感性を民族学的なアプローチをうまくしている。
山口県のきららガラス工房。
その場所から、たくさんのヴァージョンを生み出す。簡略化するよりも、複数化して、重ね合わせる。その手法は、庭の方法となる。それは、多層世界を作り出している。
隈研吾の創造の原動力としての木。
木材固有の性質、テクスチャー、柔軟性、軽さ、かおり、森とのつながり。
21世紀建築に最もふさわしい素材。そして、日本的である。
六本木に、「木と水に満ちあふれた空間」「水の印象と木の香り」を作る。
スダレレーバー(禅)、ホワイトオキニス(水の泡)、水/ガラス(ウォーターガーデン)
異質なもののつながり。
ほっそりして、より垂直的で、より繊細。重々しさがない。
翻訳不可能なほどに表現力に富むものである。
創造行為や建築生産と文化との間の緊張関係。
建物は、文化的アイコンとして機能。唯一性。複製不可能。
伝統に起因する美しさや空間的印象を帯びる。
伝統的な表現を着想し、文化を調和させる。
文化をどう扱うか?どのように文化を表現するか?
どんな役割を文化に与えるのか?文化とどう強調していくのか?
文化とは、素材のようなものであり、使用可能なリソース。
商業空間の構造、伝統的な自然なテクスチャー、瞑想、静けさ、禅の庭、生け花、空間の曖昧さ、和の質、調和のとれたクオリティ、日本的感性、竹と木、帯、和紙、テクノロジー・デジタル技術。
日本的空間は、季節の移り変わりや1日の時間変化に従って、内部にも外部にもなる。
外部から、内部への連続性。
空間のホスピタリティ、曖昧さの精神。はかなさ。寛容さ。
空間を曖昧なままにしておく。
静けさを創出し、音を和らげ、派手さや刺激を緩和する能力。
日本文化を、増幅し、昂進させる。
プロジェクトの整合性と統一性を図る。
マルセイユのFRAC(現代美術地域基金)
隈研吾は、「消えること意味、姿を隠し、覆い隠し、埋れさせ、溶解させ、粒子化し、ピクセル化する。」その探求は、効果であり、建築的現象である。
ピクセルは、水を通過させ、熱を通過させ、光を透過させる。流動性、透明性。
軽くて、気持ちのいいうねりを作れるのか?満たすこと、空にすること。
小さな存在が、途中で何度も定義されていくこと。
ピクセルが編集されることで、より高解像度、より高精細にする。
断片化と溶解、消失の哲学。
溶解する建築とは、つまり集合する建築でもある。
エピローグ
いかに、オブジェクトを回避するか。
調和と同調 あるいは素材のマトリックスをつなぎ、ピクセルと雲をつなぐ。
素材の特性を知り、素材を信頼し、素材自信に知性が宿っている。
小さいもの、あるいは軽いものの重要性を援用する。
非素材化、脱領地化、をヴァーチャルテクノロジーで拡張する。
変化可能で、複合的な存在の様態を許容する。
この論調は新しい建築論の解釈の方法論を生み出している。
小さなリズムと粒子感を 生み出すことで、新たな視点を生み出す。
そこには、一切ストーリーを探さない。
ふーむ。わかったようで、まだまだ 雲がかかっているような不思議な感覚。