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デモクラシーにおける「多数の専制」という表現には鳥肌がたった。多数は個の意思を奪う。多数は個人の政治への無関心を生む。多数は暴走すると歯止めがきかなくなる。多数は個人が画一化を拒否することを許さない。多数は人々を凡庸さへと順応させる。また「全体の全体に対する支配」というのも言い得て妙。デモクラシーと全体主義は紙一重ということか。それにしても著者のトクヴィル礼賛は異常。その気持ち分からんでもないが。
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経済思想史の大家による自由に関する本。トクヴィルの「アメリカのデモクラシー」の内容をもとに、アダムスミス、福沢諭吉の思想との関連性を研究し成果をまとめている。JSミルやハイエクなど自由主義者との関連、功利主義との相違など多角的にかつ学術的に述べられており、参考になった。
「(トクヴィル(以後記載なきはトクヴィル))自由な労働は賃金を受け取る。奴隷は教育を受け、食料をあてがわれ、保護を受け、衣服を支給される。主人が奴隷の保持のためにする金の消費は少しずつ、細々と続き、なかなか気づかない。労働者に支払う賃金は一時的に出ていき、受領者を豊かにするだけのように見える。だが実際には、奴隷の方が自由な人間を雇うより高くつき、奴隷の労働の方が生産性が低い(奴隷の仕事が結局は高くつくことは、アダムスミスが「国富論」の中で指摘している)」p8
「平等の時代には、ちょっとした特権も強く嫌悪されるため、あらゆる政治的な権利は徐々に国家の代表者の手に集中していくのである」p12
「デモクラシーの下では、あらゆる信仰と愛着の対象が個人の私的判断にゆだねられる結果、物質的な安逸を追求し、公的事柄への関心を弱め、私的な福祉が生の最終的な目標となり、卓越性、公徳、偉大さへの情熱が衰える」p13
「豊かさは、競争力を弱め、人々の間の厳しい利害対立を緩和させる力がある」p15
「一般に人間の愛着は、力あるところにしか向かわない。愛国心は征服された国では長く続かない。ニューイングランドの住民がタウンに愛着を感じるのは、そこに生まれたからではなく、これを自らの属する自由で力ある団体とみなし、運営に労を払うに値すると考えるからである」p44
「(アダムスミス)正義のルールを犯さない限り、個人の自己利益の追求は知らず知らずのうちに社会福祉の増進につながる」p45
「フランスの大革命では「平等」がその旗印となっていたのに対し、英国の革命は「自由」を大義としてきた」p65
「(マルクス)歴史は階級闘争によって発展するのであって「国家間の闘争」によって決定されるのではない」p98
「言論は、少数であればあるほど、力を発揮するという特性を持つ。弾圧されればされるほど、その思想や言論が広く支持を集めることは、帝政ローマ時代のキリスト教をはじめ、宗教改革時代のプロテスタントへの弾圧、その後のさまざまな歴史上の思想運動を思い浮かべれば明らかだ」p170
「(言論出版の自由のパラドックス)出版の洪水は、結局、言論内容の質の低下と百家争鳴の状態を生み出し、個々の言論の重みを奪い去る」p172
「(カーネギー)(市場競争)結果の不平等は避けられないから、その不平等を公的部門ではなく私的部門が再配分機能を果たすべき(寄付など)」p192
「デモクラシーが人々を個人主義に走らせ、あげくは利己心のみのバラバラの個人を生み出し、「公」の道徳を衰えさせる危険をはらんでいる」p199
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要旨は、「デモクラシーのもとで、自由と平等とは究極的には両立しない」であると理解した。
アダム・スミス、トクヴィル、福沢諭吉を猪木氏が改めて読み解いていく。
個人は自分の自由を追求する。そこで生まれうる格差をコントロールして平等を実現しようとすれば、「専制」を生む可能性がある。
共同体に前向きな関心を持つにはどうしたらいいか。そこには正義に基づく共感・同感の感情が必要になる。トクヴィルは、米国は地方自治を充実させて訓練する方法を採った、と見抜いた。福沢諭吉は慧眼で、わが国には「徒党はあっても衆議がなく、意思決定はしばしば嫉妬に流される」という趣旨のことを書いている。今もまったく変わっていない。
かといって、アンチデモクラシーに陥っても対案はない。自由を制限し平等を提供する、そのバランスのために「自由を譲り渡す相手は・・・『国家』であり、『多数』なのである」(P338)。
お堅いテーマにも関わらず相応の読者を集めているようだ。
「デモクラシーのもとで、自由と平等とは究極的には両立しない」。こういう基本認識のもと、衆議を重ねることに関心を深めている人が徐々に増えているということだろうか・・?