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帯の「最後の瞬間、彼はピアノを弾いていた。」に引き付けられ手にした本。後ろを見ると、「余力をまったく残さず書きました。これ以上のものは、書けなかったと思います。」という藤谷氏のサイン入りの言葉。
今年、「船に乗れ!」を読んで感動した記憶がよみがえり、もう、買うしかないでしょ!と即購入。
早速読んでみたら、なにこれ~!せった君の友人、作家の島崎哲って、「船に乗れ!」の津島サトルじゃん。おまけにピアノの北島先生まで出てくるし~。もう、「船に乗れ!」の前日譚、後日譚といったところ。
相変わらずサトルは肥大した自意識に悩まされているが、せった君という友達がいたから、音楽の道を外れても、まっとうに生きて来たんだなあ~。
「世界で一番美しい」というタイトルが何を指しているかは、作品を読むと、切なさや哀しみとともに胸にストンと落ちてくる。
ーー美しい人間とは、人を美しくする人間のことだ・・・
この作品を読んで、私も少しは美しい心になれたかな~
最後の数頁でうるうるきていたが、ラスト1行で我慢できなかった。
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北島先生始め、「船に乗れ!」の登場人物もちらほら。
主人公がピアノからチェロに転向し、高校のときの音楽の道を断念し大学を二浪したとこまで似てる。パラレルワールドなのかな?
しかし、「船に乗れ!」に比べると、やっぱり劣る。。「船に乗れ!」がピュアストーリーだったのに対し、この作品は性描写も多く、音楽青春小説と思って読んだのに、なんだかがっかりだった。。
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図書館で。
船に乗れはすごく揺さぶられた作品だったなぁ、と思いだし他の作品も借りてみました。せった君という純真の塊のような存在と俗っぽい人間のお話。
個人的には永沢さんが悪いんじゃない?と思ったりもする。理由も告げず消えるのはちょっと無いよね、しかも消える前に嫌いなそぶりも見せなかったなら薄情じゃないか、と思ったり。が。女性は他に好きな人が出来ると今まで好きだったハズの人なんか路傍の石ころ以下にしか思えないような扱いをしたりするから拗れるんだろうなぁ。それで相手が自分を嫌ってくれたら上々、ぐらいに思うんだろうけど本当はこじれる前にきちんと話し合った方が良かったんじゃないかと思う。結果論だけど。なんてつらつら他人事だから冷静に考えられるけどそう言えば若かりし頃、人間関係こじれさせた事あったなぁなんて過去をほろ苦く思いだしました…
まあでもあの時明らかにおかしい感じの彼をせった君の所に連れてったのはやっぱり彼女の責任だよな、うん。
音楽と人と世間とを一番結果として愛し愛されたのはせった君ではなかったのかと読んで思いました。
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今ひとつ響いてこなかった。
社会の中で「真っ当に」に生きていく難しさ、それに対して好きなことに無欲で没頭するせった君の対比だろうか。
作中に、人を美しくする人が美しいという記載があったがそれは腑に落ちた。素直な飾らない人の前では自分もそうで居られる。
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せった君と島崎哲は幼馴染であった。
せった君は音楽家、ピアニストであり作曲家、大いなる才能の持ち主。野心や、現世的な欲とはあくまで無縁で、ただ音楽と戯れ、音楽と共にあった人。
そんな彼を間近で見続けた島崎哲。せった君の音楽仲間で、最後まで彼の理解者。
けむりに魅入られ、自己正当化をとことん進めた挙げ句に破滅へ走った不協和音の津々見勘太郎はせった君を火事で消してしまう。
島崎哲と津々見勘太郎はどこか似ている。何者かになれる、ならねばならぬという青臭い思い込み。しかし、島崎が津々見にならなかったのは、幼い頃からそばにせった君がいたからだと考えられる。せった君という素直で音楽のことばかり考えるまっすぐで美しい人間の姿を見続けたからこそ、島崎は道を外れることなく成長した。
2019/06/18 13:39
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音楽に纏わる小説は、知りたくて決して解ることのできない厳しいような苦しいような側面を垣間見せる。絞り出すように書かれた随所に息を詰めながら、また、せった君の口調や折々精一杯に考えた末のことばに沁み入りながら読ませていただいた。
美しい、とは圧倒的にその世界に集中していること、それは羨みとか妬みを完全に超えてただそこにある姿。生き方。
自分たちの生きた、ということが、尊い実りではなくても、大地へ落ち滲みていく一滴の雨であるように、虚しいところから目を背けないまま、美しいもの、幸福、思いやりを創造しようとするおこないが生の本質、との言葉に、思わず背を正し、深く息を吸う。
印象的なエピソード「五十の者から生まれたばかりの者へ、ずっと受け渡されてきた」一本の棒を念頭に、明日もまた。