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本書は独身「ソロ」な人口が増えている日本に対して、旧来からの慣習、経済等を読み解いてまとめた一冊である。しかしながら歴史、経済、その他感覚などをまとめているため非常に煩雑になっており筆者が本当に伝えたかったことがわからない。新書にするには手間が広範にわたりすぎていて適していなかったと考える。
以下は本書の興味深かった点。
そもそも女性には結婚しないという選択肢がなかった為に、男性は結婚できたのだ。男性自身に自力で結婚する力がない。
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たくさんの資料を使っていろいろな角度から分析しているのはすごいです。ただ著者の考え方に自分としては必ずしも賛同できるものではないこともあり、★3つにしています。
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著者・荒川和久さんは、独身生活者研究の第一人者と言われている方。
ただ、著者については、年齢不明、独身か既婚か不明、です。
この本によると、2035年には、15歳以上の人口に占める独身者(未婚、離別、死別)率は、何と48%に達するとか。
つまり、人口の半分が独身という国になると。
271頁。
「少子高齢化と同時に、日本はソロ社会になります。人口の半分が独身者になるのです。これはもはや避けられません。であるならば、我々はそれにいかに適応していくかを考えるべきで、それは個々人が自己の自立を考えることと同じことです。独身とか既婚とか置かれた状態は関係ありません。一人ひとりがそれに向き合う必要があります。」
そうなのでしょうね。
自分は、今59歳で、事実婚の妻との二人暮らしである。
が、いずれは、どちらかが先に死ぬわけで、独身に戻る。
さて、その時はどうするかと、自問するが、正解というのはないだろう。
なるようになるさと、楽観的でいるしかないだろう。
ただ、準備というか、人とのつながりは、しっかりと広げていく必要はあるか。
う~ん。仕事を理由に忙しがってもいられない。
60歳になったら、フルタイムで働くのは止めたほうが良いような気がしてきました。
●2023年1月8日、追記。
---引用開始
厚生労働省が発表した統計によれば、2020年における日本国内の婚姻件数は52万5507件。これは1972年の統計の約半分で、今後もこの数字が上向く気配は見られないようだ。
---引用終了
●2023年6月10日、追記。
本日の聖教新聞に、著者・荒川和久さん、登場。
顔写真を拝見。
中々のイケメン。
しかし、変わらずに年齢不詳。
「今後、つながりの接点を増やすために意識してほしいのは、『自分の中の多様性』です。自分という存在は一つではありません。人は、いろんな立ち位置で、さまざまな役割を演じることができます。自身の多様性を知れば、外とのつながり方も変わってくると思います」。
それから、
日本は2040年、人口の半分が独身者となる『超ソロ社会』になると指摘されている。
2040年というと、私の年齢は、79歳。
生きてはいそうだが、ブクログの更新はしているか微妙。
●2024年4月13日、追記。
昨日の朝日新聞に、次の記事あり。
---引用開始
2050年には全世帯に占める一人暮らし(単独世帯)の割合が44・3%に達する――。国立社会保障・人口問題研究所(社人研)は12日、「日本の世帯数の将来推計」を公表した。20年から30年間で6ポイントほど上昇し、単独化が加速する実態が浮き彫りになった。
---引用終了
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以下読書メモ
ーーーーーー
・高度経済成長期の日本は95%が結婚した、いわば「皆婚社会」であった。独身とはマイノリティであるという意識があるのは当然だろう。
・「社会というものはない。あるのは、男と女という個人と家族だけだ」これは、鉄の女と言われたイギリス元首相サッチャーが、今から30年前の1987年に発した言葉である。30年前にはまだ「家族」は重要な共同体として残っていたが、今や「家族」という存在すら危うくなりつつあるのだ。
・「リスク社会」や「個人化する社会」を提唱したドイツの社会学者ウルリッビ・ペック氏は、「昔、家族は、資本主義社会での心のよりどころだった。だが、個人化によって家族はリスクの場に変わりつつある」と分析した。ベックによれば、従来の伝統的集合体の概念である家族とは、「ゾンビ・カテゴリー(死に体カテゴリー)の好例である」と表現し、人間にとって家族とはもはや必然的共同体ではなく、選択的親密性であると言っている。
・ベックと並び評される社会学者ジグムント・バウマン氏も同様に、個人化について言及している。彼は、かつて個人は、地域や会社や家族といった中間的共同体の中で「固体」のようにまとまっていたソリッド社会にあったが、現代は、個人が流動的に「液体」のようにバラバラに動き回るリキッド社会となったと表現した。安心・安全・安定したそれらの固体的共同体が失われたことで、人々は自由に動き回れる反面、常に選択や判断をし続けなければいけない自己責任を負うことになる。
・人々は個人としての体験を価値化し、それを個人的集団とも呼べる、身近で小さなコミュニティの中で共有することにより、価値を再確認するようになった。さらに、現在、消費の目的はより個人的な内なる精神的価値の充足の方向に向かっている。
・ 勘違いしないでいただきたいのは、ソロ社会やソロで生きるということは、個々人が勝手に生き、他者との関わりを遮断する社会ではない。それはむしろ、従来の家族・地域・会社という旧型コミュニティとは別の、家族的・地域的・会社的な新たなコミュニティを生み出し、関係性を構築しながら相互自立していく社会である。
・人は安定した集団活動の維持のために協力し合うが、その維持に反する異分子に対しては徹底的な攻撃性を発揮するものだ。自分勝手な行動を認めず、義務を果たさない人間を吊るしあげ、ミスした人間を叩きまくり、集団からハミ出した人間に制裁を加え、助けを求める弱者すら足蹴にする。すべては社会的正義の名のもとに。
・むしろ、かつての女性にとっては結婚こそが、本当の就職でもあった。結婚は自らの経済基盤獲得のための手段だったのだ。大袈裟にいえば、死活問題でもあった。
・ ところが、前述したように80年代後半から総合職として入社した女性たちが、バリバリ働き出して、ある程度の収入を自身で獲得できるようになっていく。すると、彼女たちに 必ずしも結婚だけが経済基盤とは限らなくなってきた。つまり、無理して結婚する必要がなくなったのだ。これが未婚化を進めた要因のひとつだと考える。
・これによると、末子が0歳時点では6割の母親が無業となっている。子どもが大きくなるに従って仕事をするようになるが、そのほとんどが非正規雇用である。子どもを産んでも正規雇用のままでいられるのはわずか20%程度にすぎないのだ。
・ハラスメントとは、直訳すれば「嫌がらせ」ということだが、定義すると「他者に対する発言・行動等が本人の意図とは関係なく、相手を不快にさせたり、尊厳を傷つけたり、不利益を与えたり、脅威を与えること」となる。代表的なところでは、性的な発言や行動による嫌がらせのセクシャルハラスメント(セクハラ)、職場で職務上の地位や優位性を背景に業務の範囲を超えた肉体的、精神的苦痛を与えるパワーハラスメント(パワハラ)、職務などでの妊娠、出産、育児に関する嫌がらせのマタニティハラスメントなどがある。
・注目したいのは、夫婦双方とも相手の「精神的虐待」が「暴力」よりも上位にきているということだ。何がこの「精神的虐待」に当てはまるのか。罵詈雑言は当然として、本人にはハラスメント意識がない小言、嫌味や「お前は何もわかってない」などの見下し発言なども、それを日常的に繰り返すと該当する。家計や子育てに対する責任転嫁発言も多いようだ。
・特に、仕事に燃えた真ん中の30年と退職後とでは、自分自身の社会的役割が大きく変わっことに気付かなければいけない。今のあなたから、「仕事」「収入」「肩書」を全部取り払ってみてほしい。一体何が残るだろうか?すべての男性に「何も残らない」と断言するつもりはない。が、少なくともこの3つがあなたの30年間のアイデンティティのよりどころであったことは否定できない。妻もまたそこを頼りにしていたはずだ。退職後はその3つがなくなる。それまでの自分とは違うのだ。男たちはもう一度生まれ変わるために何が必要なのか、そういったことを考えるべきなのかもしれない。
・このように大小はあれど、消費全般に関わってくる欲求であることは間違いない。消費によって「承認」と「達成」という欲求を満たし、ソロ男・ソロ女は幸せを感じる。消費は彼らの幸せに直結する行動であり、家族がいない彼らの生きるモチベーションのひとつかもしれない。
・ ソロ生活者の幸福感が低いというのは定説になっている。その理由は次章で説明するが、それは結婚規範や家族信仰により、「家族によってもたらされる幸せが欠如している」という社会的暗示に依るところがあるだろう。だから、彼らはそれを消費によって打ち消そうとするし、消費の対象には、単なる所有や体験だけではない「幸せに直結する精神的価値」を求める。価値を認めないものに対しては1円でも1秒でも惜しむが、一度価値を認めれば、惜しみなく金も時間も注ぎ込むことができる。それはもはや論理的に説明しろと言われてできるものではなく、「エモい」としか表現できない領域に達している。これこそが、ソロ男女たちの「エモ消費」であり、ソロ男女の大いなる消費の原動力だ。
・ むしろ、結婚していても、家族がいても、冷たく寂しい食卓の人たちだって大勢いる。年頃の娘とは一緒に食事すらしてもらえないようなお父さんなら、こういう場所でささやかに「エモ」を感じ取っていただきたいとも思う。
・学者���ニエル・カーネマン氏は、「幸福とは、自分の愛する人、自分を愛している人とともに時間を過ごすことだと言っても、あながち言い過ぎではない」と言っているが、彼の言う「自分の愛する人、自分を愛している人」が、恋人や家族や親子であるとは限らない。自分と興味関心や価値観の合う人または「考え方を同じくする人」との交流でも幸福は十分感じられる。さらには、人であるとも限らない。「好きなことと、ともに時間を過ごす」のもまた幸福の形であろう。
・幸福とは、結婚しているか子どもがいるかという「どんな状態であるか」が大事なのではなく、どんな状態であろうと幸福を追求する行動力があるかどうか、そして、どんな小さなことでも幸福を感じられるかどうか、その心の持ち方である。そういう意味で、「結婚したいけどできない」とネガティブに考え、行動を諦めてしまっている未婚男女のほうが不幸の闇は深い。
・人は、自分と違うものを許容できない。多様性を認めようとか日では言っても、悲しいかな、人間の本質というものはそういうものだ。自分たちと違う考え方や行動をする人間を異分子化し、異分子を異分子として可視化することによって、「自分たちは一緒だよね」という仲間意識を強くする。そのために異分子は異分子のままで存在してくれなければ困る。共通の敵がいることで、仲間は仲間として強固な絆を確認できることと同じなのだ。
・ 「ぼっち」と「ソロ充」は、ひとりでいる状態は一緒でも、心の有り様が180度違う。前者が受動的であるのに対して、後者は能動的選択であることも大きな違いだ。「ソロ充」とは孤立ではなく自立である。
・「ソロで生きる力」とは「精神的自立」を意味するが、自立とは何者にも依存しないということではない。むしろ、依存することのできる多くのモノや人に囲まれて、自ら能動的に選択し、自己決定できる人こそが「精神的自立」と解釈したい。
・ 繰り返すが、「ソロで生きる力」とは、ひとりでいる状態に耐えられる我慢能力ではない。ソロで生きる力のためには、誰かとのつながりが前提となる。片や、心の中で誰ともつながっていないという人間は、大人になっても赤ん坊と一緒なのだ。不安のために目の前のリアルな人やモノだけに依存してしまうということになり、現実にひとりにされると、世界から見捨てられたという絶望感を味わうようになる。
・依存が先がひとつしかなく、選択の余地がないということは、自己決定権がないということだ。多くの心理学者が実験で明らかにしているように、自己決定権がないと我々は無力感に襲われ、何もできなくなってしまう。つまり、依存型とは絶えず受け身の立場で自己決定すらさせてもらえない人間であり、自立型とは、それがたとえどんなささいな事案であろうとも、自分の意思で能動的に選択と決定をしている人間であると言える。「ソロ充」の話と関連付けると、受動的な「ぼっち」は依存型人間で、能動的な「ソロ充」は自立型人間となる。
・そして、もうひとつ「ソロで生きる力」とは、「自分自身を愛する力」でもある。ドイツの社会心理学者エーリッヒ・フロム氏は、著書『愛するということ』(紀伊國屋書店)」に「ひとりでいられるようになることは、愛���ることができるようになるためのひとつの必須条件である」と言っている。つまり、「愛だのなんだの言う前に、まず自分の足で立て。話はそれからだ」ということである。誰かにもたれかかるのも、誰かを支え続けるのも、それは愛するということではない。そして、一番大事なのは、親子愛や夫婦愛、男女愛よりもまして、真っ先に愛すべきは自分自身という点である。
・未婚男女は幸福感が低く、自己肯定感も低いことはすでに述べたが、特に、結婚に依存しがちな「結婚したいのにできない」という男女は、自分自身を愛せないし、むしろ嫌っている。二言目には「どうせ俺なんて」「どうせ私なんて」という言葉が必ず出てくる。彼らに共通して自己肯定感を得られないのは、他者から愛されないという事実(と彼らが認識しているだけ)に強く引っ張られている点だ。
・ しかも、人からの愛を求めるくせに、いざ愛されると疑ってしまう。こんな自分が他者から愛されるはずがないと思い込んでいるからだ。そうして、愛されたいという欲求が満足されることもなく放置され、餓鬼のように飢えて、そんな姿にますます自己嫌悪に陥るという悪循環だ。そのくせ、彼らの願いは、常に「愛してほしい、認めてほしい、わかってほしい」と、すべてが受け身で依存的なのだ。「愛する」という能動の概念はなく、常に「愛されたい」のだ。
・しかし、結婚という形に依存したままの「受け身の生涯未婚者」たちには、確実に欠落しているものだ。彼らにまず必要なのは、「精神的に自立することで自分を愛せるようにする」ための方策である。表面上の婚活支援がまったく役に立たないのは、彼らの問題の本質を見ていないからだ。なんでもいいから結婚させれれば済むという話ではない。そうした人間が今まで結婚してきたからこそ、配偶者に極度に依存しがちな日本人夫婦を生み出してきた。むしろ、明治以降の結婚制度と戦後の皆婚時代が、本質から目をそらせる結果を招いたと言える。江戸時代までの日本人、特に町民・農民たちは、十分に「ソロで生きる力」を備えていた。
・首尾一貫した存在としての唯一の「本当の自分」なんてどこにも存在しないし、逆説的だが、場面や環境に応じて登場するキャラや仮面の「嘘の自分」も嘘ではない。ひとり部屋でくつろいでいる自分も、上司にぺこぺこ頭を下げている自分も、彼女に男らしい一面を見せている自分も、どれもこれもすべて「本当の自分」なのである。
・作家平野啓一郎氏は、「一人の人間には、色々な顔がある。つまり、複数の分人を抱える。そのすべてが〈本当の自分〉であり、人間の個性とは、その複数の分人の構成比率のことである」と言っている。分人とは作家の彼らしい素敵な表現だが、「個人」を表す英語individualから否定の接頭辞iを取ったdividual=分人としている。
・多様性の時代とは、違う価値観を持つ人たちがいる社会ではなく、ひとりの中の多様性が認められる時代なのだ。なぜこれが大事かというと、前節で「依存すべきものがひとつしかなく、選択肢がない状態が依存である」と書いた。「一人十色」とは、自分の中に分人が10人いるということだ。そうすれば、依存する対象が10倍に増える。つまり、ソロで生きるためにも、この分人的な自己の��らえ方が重要になるのだ。「本当の自分」が、たったひとりしかいないと
・それらはすべて自己の内側に向かっている。ソロで生きるためには、内にこもるより、まず外に出たほうがいい。そして、人と出会い、会話をし、そうした人との関わりのなかで自分の中にいるたくさんの自分自身を活性化してほしい。もちろん、出会った人全員が結果としてプラスに作用するとは限らない。しかし、それは結果である。その時点で判断することではない。マイナスに作用すると判断した他者とはつながりを断てばいい。それこそ、つながりを選択する行動である。
・ 自分を愛せない人ほど、自分に厳しく、自分に厳しいがゆえに、他者にも厳しい。自分がこれだけやったのに⋯⋯と、自分が果たした義務と同等の義務を相手に要求しがちだ。自分を愛するとは自己受容できることであり、同時に他者にも寛容になれるということだ。義務を果たしたかどうかで他者を判断することとは違う。
・ 彼の言う液状化した社会(リキッド・モダニティ)の中では、個人レベルでも相対する人間に応じて、カメレオンのように変わり続けなければならず、それは、確固たるアイデンティティの確立が困難になるからだろう。しかし、私はむしろそういう流れを肯定的にとらえている。
・ コミュニティでさえも、もはや帰属先や依存先としての唯一の場ではない。選択肢のひとつとして多様化し、細分化していく。本気のコミュニティであるかどうかはもはやたいして重要ではない。つまり、コミュニティは、我々が生きる上での目的ではなく手段となった。それは、我々が人とのつながりを実感するための通過点であり、自己の社会的役割を確認するとともに新たな「本当の自分」を生み出すきっかけの場である。そうして自己の中の多様性を成長させていくことこそ、自分を愛することを可能にし、ひいては他者に対する寛容につながっていく。そういう意味では、コミュニティは融解したのではなく、その存在意義や解釈が変わったのではないか。
・ 米国の社会学者タルコット・パーソンズ氏は、まさにそれを定義し、「家族とは、子どもの社会化とメンバーの精神的安定という2つを機能とする親族集団」と言っている。これに異論はない。子どもの社会化に関しては、「ソロで生きる力」の育成のためにも親の協力が不可欠だからである。が、その機能を果たすために大前提となるのが、家族としての経済的安定なのである。
・ 仕事を休んでまでも家族のために無償で奉仕することが偉いのだ、とか、そうした利他的行動などがとかく称えられるのだが、むしろ逆だ。働いて金を稼ぐことそれ自体が、税や社会保障の部分で社会に還元しているのであって、それを自己中心的な利己捨てるのは間違っている。育児や家事を外部に発注することも然りだ。外部に発注し、経済を回すことは結果的に社会の役に立つ。それなのに、家族内で無償で処理してしてしまったら、勿体ないではないか。
・2016年4月7日、「世界でいちばん貧しい大統領」と呼ばれたホセ・ムヒカ大統領が東京外国語大学で来日講演会を行った。その中に以下のような言葉がある。
「ぜひ家族を持ってください。家族というものは、単純に血のつながった家族ということでは���りません。そうではなくて『考え方の家族』という意味です。同じように考える人です。人生をひとりで歩まないでください」
結婚をし、自分の子どもを生み育てる集団だけが家族ではないし、それだけが人間としての社会的役割を果たすということでない。生涯未婚であれ、生涯無子であれ、社会の一員としてしっかり働き、金銭を循環させることで、聞接的に子どもたちをサポートしていければいいはずである。
・ 「他人と過去は、変えられないが、自分と未来は、変えられる」
カナダの心理学者で精神科医のエリック・バーン氏のあまりに有名な言葉です。自分の思い通りにならない他人を嘆いても、過ぎてしまった過去を悔やんでもどうにもならない。そんなことで時間を無駄にするなら、今の意識と行動によって自分と未来を変えよう、という非常に前向きな言葉です。
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明治以降の結婚制度によって配偶者に依存する夫婦関係を生み出し、逆に江戸時代までは十分にソロで生きる力を備えていた、というのが興味深かった。
データ多め。
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ソロ社会の不安はやはり老後だろう
身体が思うように動かなくなったときにどうするか?
サ高住などに押し込まれるのも窮屈だ。
終活ソロのためのコミニティ形成が急がれる
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一昔前なら当たり前だった皆婚社会、その起源が明治時代だったというのは知りませんでした。
それまでの江戸時代のような個々人が自立した社会というのは確かに現代人は色々と参考にすべき点が多いように思えます。
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ソロ活動系男子研究プロジェクトリーダーなる方による、結婚しないソロ社会についてのデータや考察
社会学者かと思いきや法学部卒の博報堂出身者。そこら辺のエセ社会学よりはるかにしっかりしてわかりやすくて説得力もある。
データから見える事実も、今後の予測や提案もとても興味深い。
多様性についての考え方や分人という概念もとても参考になる。