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音楽を聴いたり踊ったり演奏したり。音楽を「する」こと周辺に現れる視点や問題についてのコラム集。
音楽に限らず、言葉や風景やビジュアルアートに至るまで、五感から入力された情報は自分が会得しているコードによって意味として変換される。
音楽を様々な方法で楽しむとき、それぞれが自然に自分の感性に従って味わっていると思っているが、実は自覚できていない枠組み(コード)を通して知覚理解している。
意味として変換できない音はノイズとして知覚される。
その枠組みは1つではないし、枠組みを広げたり壊したり増やしたりすることでより良く音楽と関われるのではないかというのが本書の主題(だと思う)。
流通している多くの音楽は、すこし意地悪な言い方かもしれないが、調的和声(和音)テクニックによる情動の操作を目的としている。
平たく言うとコード(和音)進行でイメージを作り、そこに共感することで楽しくなったり切なくなったりと気持ちが変化している。
この手法が確立されたのはベートーヴェンくらいからだという。18世紀から19世紀くらい。
ノイズミュージックや現代音楽、民族音楽をはじめとして、コード進行に頼らない音楽やたくさん存在するし、音楽の歴史を見ればむしろマジョリティだ。
調的和声音楽以外の音楽や、そもそも音楽を「する」ということ自体に目を向け、受け取り方のよすがとしている枠組みを自覚・相対化することで、鑑賞することをはじめとする音楽とのかかわりが楽で豊かなものになるという筆者の主張(?)にとても共感する。
本書で西洋クラシック音楽から始まる調的和声音楽を相対化するエピソードや切り口がたくさん紹介される。
音楽理論はもちろん、記譜法や録音方法などの音楽の記録方法について、認知科学的な面、フェミニズムやASDにも絡めて書かれている。
また、アート全般に言えることだが、いわゆる「小難しい」表現がどうして生まれるかについての詳細な説明も面白かった。
コラム集なので、明確な結論があるわけではないが、かえって他の様々な文化との関係が横断的書かれているため、広い視点で考えさせられる部分が大きくとても楽しめた。
和声音楽が悪いわけではなく自分でも聞くしTPOとバランスの問題だと思う。
しかし、日本では特にその傾向が強いように思う。そのネガティブな面として過剰なノイズ性の排除が上げられる。
音響的なノイズリダクションだけではなく、奏法的にもコード化されない音が排除傾向にあり、高度に洗練され整った音楽がシェアを広げている。
切ない気分になりたいからそれを喚起するコード進行の曲を聞き、その気分に浸る。
すぐ「効く」ことは良いことでもあるが、いかにも現代っぽい。すぐ効くがすぐ切れる。
自分の音楽体験(音楽に限らずアートや読書も含め)を顧みると、すぐ効く音楽が必ずしも自分にとって大切な音楽とは限らない。
むしろよくわからない(意味化されてない)けど聞いてしまう音楽のほうが体験として深く残り、自分を形作る大切な要���となるし、世界そのものを知覚理解する幅を広げることにつながっていると思う。
個人的には、もっと不真面でへたくそでふざけてて狂った音楽もききたい。