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北京に向かう飛行機の中で読み始め、中国語の夢でうなされた北京のホテルで読了する。
夢の中で、一言もわからない言葉で人々がしゃべっている。
なのに、それが中国語だと鮮明にわかる。
中国語を学んできたのだから、聞き取れる語はあるはずなのにー、という夢。
この本をチョイスしたのは、異言語ストレスに直面する自分を何とか支えようとするつもりであったのかー。
内容としては、ソシュールの言語論と戦後民主主義の出会ったもの、とでも言おうか。
今やこういう意見は、絶滅寸前かもしれない。
言語の本質はパロールにあり、文字は副次的なもの。
日本語は漢字語を取り入れたために、表記の体系も複雑で、同音語も多く、聞いてわかりやすい言葉でなくなった。
特に特権的な知識人は難解な漢字語を多用して人々をけむに巻いている。
ごく単純に言えば、論旨はこんなところ。
中国語学習者として、音の大切さは身に染みて理解できる。
今だって、それで苦労しているのだから。
そして、漢語を廃した新しい日本語とはどういうものかにも興味が引かれる。
確かに、日本で暮らすことを選んで来日した「日本語人」のためにも、シンプルな日本語は必要だ。
が、一方では、漢語を廃したときどうなるのかというイメージが全くわかない。
それに知識人が難しい言葉を弄して空疎な議論を隠すことは、漢語がなくなっても、英語などの借用で取って代わられるのではないかという気もする。
読んでいて、これは現代の本居宣長なのかなあ、とも思えてくる。
個々の話題として面白いこともあった。
ドゥンガン語という、キルギスタン、カザフスタン、ウズベキスタンに広がる回族の言語の話。
言葉としては中国語なのに、旧ソ連に編入されたためにキリル文字で表記する。
漢字を今でも常用するのは台湾を含めた中国語と日本語だけだという。
表意文字はこの先、消えていくのか?という思いに駆られた。
ロシア語の話も出てきて、モンゴル語やチュルク語からの借用も多いということも初めて知った。