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自前の軍隊を持ち、人民を味方につけ、ライオンの獰猛さと狐の狡猾さを身につけること、これが君主の「徳 virtu」である。
現実を見据えた、政治のあるべき姿を示してくれる書。
訳文は読みやすい。
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国を治める統治者として必要なことを書き示したマキャヴェッリによる『君主論』
岩波文庫の『君主論』を読んでから、光文社古典新訳文庫の『君主論』を読んだが、表現が平易でよりわかりやすいという所感。
やはり、
リアリストなマキャヴェッリで、
塩野七生氏がマキャヴェッリを友とするのもわかるような気がする。
マキャヴェッリが言う君主としての在り方は、個人にも通ずる。
身体を鍛えることと、頭を鍛えること。
ここでいう頭を鍛えることというのは、
歴史書を読み優れた人物達を模倣すること。
「優れた人物は、自分より以前に称えられ栄光を授けられた者がいれば、その人物の立派な行為や行動をつねに心にとどめ模倣しようとしたのだから、それと同じようにしなければならない」
まさに、
偉人・賢人・哲人の生き方の模倣。
古典から学ぶ価値もここにある。
なぜなら、その時代を代表する世界最高の頭脳が書いた本であり、人物達なのだから。
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借りたもの。
現代でも読まれる理由を少し理解した気がした。『君主論』の指す“君主”とは世襲的な王侯ではなく、人を束ねる人物が必要とする手腕と求められるスキルについてを指摘したものだった。
平時ではそうした一面を学ぶが、本質的には乱世において国防の重要性――具体的には自国軍の保持――を説いたものだった。
(時々神話も混ざっているけど、ルネサンス期は神話も歴史の一部だったので)古代ローマの戦記などから過去の戦争を、そして当代の戦争を検証し、戦争の勝敗を決定付けるものが何だったのかを明確に指摘。
ルネサンス期とはいえ、まだ教会権力が強いため宗教観が強かったであろう時代に、宗教的解釈――「罪」のために神から「罰」を受けたため、戦争に負けたという考え――を否定する姿勢が、非常に前衛的ではないかと思った。彼は人文主義者だったようだから、なおさら。
現実的な手法に言及するのは、長期にわたって為政者の権力が宗教(神のお墨付きを貰ったという)の力によって保障され、それが教会の世俗化、権力そのものになったことを理解し、それが何の意味もないことを気づいていたのかもしれない。
何よりマキャヴェリはサヴォナローラが大嫌いだったためではなかろうか…彼が就任したのはサヴォナローラ失脚後だったが。その傷跡を一番理解していたのかもしれない。
古山浩一『ボッティチェリとリッピ (イラストで読む「芸術家列伝」)』( https://booklog.jp/item/1/487586437X )などから鑑みるに、サヴォナローラの影響下では娯楽が否定され、厳しい清貧の強制があったようだし……指揮、国力の低下も招いたのではないか?
巻末の解説にもあったが、現代では女性蔑視ととられる描写があり私も癇に障ったのだが、当時の価値観を加味して読まないと、この本の真価を得られない。そのため薄い本ながら読むのに少々時間がかかってしまった。
マキアヴェッリ/バラエティ・アートワークス『君主論 ─まんがで読破─』( https://booklog.jp/item/16/10187977 )とも併読。
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自前の軍隊を持つべき=自身の能力を高めるべき
市民に恨まれないようにするべき=部下や仕事仲間に恨まれないようにするべき
市民を守るべき=部下や仕事仲間を守るべき
獰猛さと狡猾さも持つべき=そのままの意味で解釈可能
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マキャヴェリの主張をいくつか
・中央集権国家と地方分権(封建)国家では後者の方が崩すのは簡単だが支配を続けるのが難しい。前者は政府や王の忠実な僕が支配しているため切り崩しが難しいが、後者は地方の領民と結びついた諸侯であるがゆえ裏切らせるのは簡単だ。しかし、その後の統治には注意する必要がある。
・植民(移民)を送り込むこと、国内の弱小勢力を支援することも領土の支配にあたり有効だ。
・優れた軍備のないところに良き法律はない。傭兵ではなく自前の軍を持つべき。
・君主は善良であるだけではいけない。ライオンの獰猛さと狐の狡猾さを持つべき。
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フィレンツェを事実上治めていたメディチ家の新当主となったロレンツォに対して君主政体とはどの様なものか、君主のあるべき姿とはどういう資質を備えているものかを訓示したもの。また自分の軍隊を持つことの必要性というもう一つのメッセージもある。