紙の本
「ランドセル体の半分ぐらいある おまえが上る水無月の坂 」 一番響いた短歌です!
2019/01/13 09:17
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:佐々木 なおこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
歌人の俵万智さん、同世代なので、いつも気になります。
彼女が息子さんを出産し、子育ての日々の中で生まれた短歌とそれにまつわるエッセイがつづられた一冊。
息子さんが幼稚園から小学生まで、
住む場所も東京、仙台、石垣島と変わります。
ご縁のある宮崎や二人ででかけたイギリスの話もありました。
私が特に惹かれたのはこの短歌です。
ランドセル体の半分ぐらいある おまえが上る水無月の坂
小学校一年生の息子を想う万智さんの気持ち、
おまえと呼びかける言葉がなんとも優しくて、心がキュンとなります。
息子だからおまえと呼べるのかなぁぁ。
私には娘がいて、おまえと呼ぶことはないだろうから、息子がいたらおまえと呼びたかったなぁなんて。
万智さんは子育ての真っ最中の中でこう思います。
ちょっとそこを引いてみますね。
一番たいせつなことは、ひたすら「隣ること」なのだ。
一番大切で、そして一番むずかしいことであるかもしれない。
うん、うん、そうだなぁ。
この短歌ははこれでした。
隣る人に我はなりたし ひたすらに子を受けとめて子を否定せず
なんか涙がでそうな一首です。
これって、子どもに関わらず、すべての人との関係でも言えることですね。
連載の子育てエッセイがまとめられたこの本、
万智さんは子育てはなにもかもが期間限定なんだとあらためて思ったとエピローグで書かれていいます。
そしてその尊い思い出は「もうこの本の中にしかない」と。
親というものは、この尊い思い出と共に、ずっと生きていくのだなぁとも気づかされました。
その後の万智さん親子は宮崎への住まいを移し、生活をしているのだそうです。
そこで万智さんは10年来心に温めてき若山牧水の評伝を書き始めているとあり、
私が次に読む本はこれで決まりました。
「牧水の恋」をこれから読みます。
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雑誌に掲載されていた子育て短歌ダイアリーの
後半部分。幼稚園から小学生時代を綴っている。
シングルマザーとして、親元の仙台に暮らしていた時
東日本大地震が起こり、落ちつかない一時期を
逃れていっとき避難のつもりで沖縄へ。
友人の住む石垣島へ滞在したのがきっかけで
その小さくて限りなくあったかいコミニュティー、
あふれんばかりの圧倒的な大自然!
体験を重ねるうちに、移住を決める。
インドア派を自称する俵万智さんが
免許もなく移動の不便もなんのその。
「助けてください」と心を込めた「ありがとう」を武器に?!
子供にとっては変えがたい経験を。
言葉を紡ぐものとしての、息子さんに触れる言葉たちは
とても、印象深い言葉が多く、良い作品でした。
子育てを過ぎてしまったひとにも、
真っ只中にいる人にも、
ともに、素敵な一冊になるのでは。
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万智さんの短歌はもちろん、息子さんとの日々の暮らしを綴ったエッセイはいつも楽しく読ませていただいている。
私にも3人の子ども、息子が2人いるので、「男の子ってそうだよね」と共感するところも多いけれど、万智さんの大らかで子どもを見守るあたたかいまなざしは、いつも見習いたい、私もそうでありたいと思う。
息子さんも成長して、プライバシーの問題もあるかも知れないが、これからも少しでも息子さんとのやりとりや暮らしの様子を読ませてもらいたい。
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◆きっかけ
2人目を出産して、生まれたての息子の顔を見ていたら、上の娘が生まれてから読んだ俵万智さんの短歌がチラチラと思い出され(生まれてバンザイ とか)、もう一度読みたい、もっと多くの育児系の作品を読みたいと思い、図書館にあった5冊を母にリクエストして借りてきてもらった。『プーさんの鼻』(歌集)、『オレはマリオ』(歌集)、『たんぽぽの日々』(エッセイ+短歌。短歌62首と52本のエッセイ)、『ありがとうのかんづめ』(エッセイ+短歌)、『ちいさな言葉』(エッセイ)。たんぽぽの日々については借りるの2度目。2018/4/3
◆感想
時系列的に、「たんぽぼの日々」の続きといった印象。卒園から、小学校低学年までの歌と育児エッセイ。これからの子どもらの成長を先取りで見るような感覚になった。言葉について、子どもの成長への付き合い方について、ところどころハッとさせられる箇所があり、まるで、育児書のような感じもした。同時に借りた5冊の中だと『ありがとうのかんづめ』は、唯一手元に置きたいと感じた。購入候補。2018/4/3
◆引用
p42…それでもいっこうにめげず、今度は冬休みの集中水泳にも参加した。このときも、同じ幼稚園の男の子たちと一緒だったが、レベルの差からグループは別。が、まったく気にする様子はなく、朝起きると「あ〜楽しかった。プールで泳ぐ夢見たんだ!」。水泳教室から帰ると「早く、明日にならないかなあ。明日
になって、またプールに入りたい……」とつぶやくほどの熱の入れようだ。
「ヘタの横好き」という言葉があるが、「好きこそものの上手なれ」という言
葉もある。冬休みの1週間が終了すると、さすがに、というかやっと、ワッペ
ンは「カニ」の一つ上の「タコ」になった。(中略)「どうだった?」と聞いてくる息子に、正直に言う。「いやー、すごいね。浮いてるわ、進むわ、潜るわで、お母さん、びっくり」「もう1回言って」(中略)何回言っても,そのたびに嬉しそうな顔をする。ほんとうに好きなことをやっていれば、人と比べてどうとかいうことは、気にならないらしい。徒競走の1件で、息子の性格を決めつけそうになっていた自分を、反省した。
p68…炎を眺め、火の匂いをいつまでも嗅いでいられる子どもに、
こんな刺激の強いものは必要ない、というのが私の基本的な考えではある。が、今の時代、まったくゲームやパソコンと無縁に子どもが過ごすことは、かなり難しい。
そこで考えたのが「こういうものは、おやつだよ」という諭しかただ。「ゲ
ームやパソコンやテレビは楽しいけど、そればっかりじゃあダメだよ。おやつ
が美味しいからって、おやつしか食べなかったら、体は大きくならないし、病
気になってしまうの。それと同じで、ときどき楽しむのはいいけど、そればっかりにはならないようにしようね」というわけだ。
今のところ、このたとえは息子にもよくわかるらしく、チョコレートの数を決めるように、テレビやゲームの時間も、私の制限に従っている。漫画も、「漫
画を1冊読んだら、字の本も1冊読む」という約束にした。百かゼロかではなく、バランスをとる、という方向だ。
ゲームをやっていれば���どもはおとなしいし、親だって楽といえば楽だ。が、それでは心の栄養失調になってしまう。いっぽう「禁止」ということになると、過剰な飢餓感が育ってしまいそうで、これはこれで怖い。小学生のころ、家で甘いものをまったく与えられていない友だちが、調理実習でこぼれた砂糖を、はいつくばって舐めていたことを思い出す。禁止の反動で、かえってある時期にゲームにのめりこんでしまう子どももいると聞く。ほどほどの免疫をつけながら、欲望をコントロールできるようになってくれたら、と願いつつ、親のほうでも手探りを続けている。
ゲーム、パソコン、テレビ、ダメとは言わないが おやつのようなものと教える
→ゲーム等についての基本的な考えや、でも無縁でいるのも難しいという感じかたが自分と同じでかなり共感。同じように感じているお母さんお父さんは結構いるんじゃないかな。周りの子らとのつながりや環境を考えると全くの無縁というのも不自然になってくるだろうとも思う。いずれ来るデジタルの波、子どもにどう説明したり与えていったりするのか悩みどころ。今回これ読んで、いいアイデアをいただいた。私も、この「おやつ」論(?)で説明してみようかな。
p78…危ないことしていないかと子を見れば 危ないことしかしておらぬなり
(前略)でも案外、この「ホルモン」という考え方は、悪くないかもしれない。(中略)女親からすると、「もうホント、バカなんだから」と思ってしまうようなことも、「ホルモンのなせるわざなのだ」と考えれば、ある程度寛大な気持ちで受けとめられるような気がする。あらがいがたい何かに突き動かされているのだとしたら、本人ばかりを責めることはできない。むしろ、そのホルモンと、どうやってつきあっていくか、その知恵を探らねば、という気持ちになる。
そういえば、以前アグネス·チャンさんが、思春期の男の子に対して「反抗的な気持ちになるとしたら、それはホルモンのせい」と教えることによって乗りきった、というお話をされていた。我が家はまだ低学年だが、近い将来、そういうホルモンも現れるのだ。覚悟しなくては。
前世は海草なのかと思うまで
プールが好きでブランコが好き
→下の子育児の参考にしよう。ホルモン。
p82…Xに交わる二つの放物線
「ダブルしっこ」を子らは楽しむ
私が1番愛読している育児書『子どもへの まなざし』(佐々木正美著.福音書店)に、次のような一節がある。「子どもは、子ども同士で遊ぶなかで、社会性を育ててゆく。たとえば出かけるなら、家族だけで行くのでなく、近所や親戚の子連れ家族を誘ったほうがいい。それがむずかしければ、子どもだけでもお借りするのです……」
我が家は1人っ子なので、この「子どもをお借りしてでも」という発想が、特に印象に残っていた。正直、甥っ子の面倒をみるのは大変ではあるけれど、男の子二人、本当に朝から晩までよく遊び、生き生きとした時間を過ごしているのを見ると、「これだね!」と思い、疲れも吹き飛ぶようだった。
1歳下のりんクンが、ゆっくりゆっくり話すことを「へえ、そうなんだ。ふーん」と、根気よく聞いてやる息子。(中略)息子は兄貴分でいられることが、そしてりんクンは弟分でいられることが(ふだんは「お兄ちゃんでしょ」と言われることが多いので)とても心地いい様子だ。
→いとこのお姉ちゃんに、あっちいけ!と言われてもまとわりついていたり、他のいとこが妹を可愛いでしょ!と友達に紹介していたのを見て、私の妹なのに…と訳もわからず涙した幼い頃を思い出した。あの頃の、独特の感じ方があるよなぁ。
『子どもへのまなざし』、私も娘誕生後図書館で借りて、考え方が参考になった育児書。また読みたくなった。
p90…読み聞かせボランティーアの
おばちゃんとして戸を開ける 1年2組
(前略)彼らが熱心に聞きいってくれるので、まことに深い充実感がある。ママ友たちは異口同音に「病みつきになるよね」と言い、私も、まったく同感だ。
(中略)思うのは,絵本の嫌いな子どもは、ほぼいないということだ。こんなにも絵本の世界を楽しめる子どもたちが、いつから本離れしてしまうのだろう。もったいないなあと思う。
ゲームやテレビにパソコンと、子どもたちを誘惑するものがあまりに多い現代。決して本は嫌いじゃないのに、なんとなく遠ざかり、そのうち読むのがおっくうになる……という道筋は、容易に想像できる。
ただ、そういった状況のなか、なすがままというのは、身近な大人の「手抜き」ではないだろうか。絵本を手にして教室へ出向けば、子どもたちは目を輝かせて待っていてくれるのだから。
テレビやゲームなど、最近は目から情報を得ることが圧倒的に多い。ゆえに現代人は耳が弱っているという指摘も聞く。テレビの字幕など、ちょっとどうかと思うほど親切に出てくるのも、そういうことの表れだろう。お話を耳から聞いて想像の羽を広げるという経験は、子どもたちにとって、とても大切なことになっている。
→この後『雪の写真家ベントレー』が取り上げられていて、この冬読んだ絵本だ!と、なんだか嬉しくなった。俵さんも「内容は、とても地味で、もきかしたら退屈なのでは?と危惧してきまうほど。」と書かれていたように、娘には、まだ早かったようだけれど。また次の冬、読んであげたい。たくみんは、「予想に反して、何度もせがまれることになった。雪が好きで好きで、一生雪の写真を撮りつづけた人が「ほんとうにいた」というのが、息子の心を深くとらえたようだ。雪の写真集も購入し、親子で見入る日々が続いた。」とあるような反応だったようだ。
ゲーム等への考え方、こちらも参考にしたい。
p93…(前略)私はわりと笑える絵本を読むことが多い。小学生といえども、なかなかハードな毎日を送っている子どもたちである。朝のひととき、わっはっはと声を出して笑うのもいいのでは、と思うからだ。なかでもナンセンス絵本の『ぶたのたね』は、私の得意な一冊。何度も読んで場数を踏んでいるうちに、文章が頭に入り、子どもの反応も予想でき、気分はもう紙芝居屋のおじさんだ。教室が笑いで包まれると、実に気分がいい。
が、これも行き過ぎは要注意。読み聞かせの主役は、あくまで絵本だ。「今日の本、おもしろかったね」と言われれば成功。決して「今日のおばちゃん、おもしろかったね」と言われないようにしましょう……と『読み聞かせハンドブック』には書いてある(ドキッ)。
ぶたの木��ぶたの実がなる『ぶたのたね』
子の心にもぶたの実がなる
→ドキッ。
p114…「この子は、数日前にゴミ箱から見つかったんです」と言う。
「まあ、かわいそうに」と思わず言うと、きっぱりたしなめられた。
「かわいそうっていう目で大人が見ると、子どもは自分のことをかわいそうな
んだって思って、どんどんかわいそうになっていくんです。この子は、幸せですよ。数日前にくらべたら、今は天国。ミルクをもらって、ベッドに眠れるん
ですから」
大人がそういう目で見ると、子ども自身もそう思って、ますますそうなってゆく……というのは、大事な考えかただと思った。実際、子育てのあらゆる面で気をつけたいなと感じている。
を我が家は母子家庭だが、「お父さんがいなくて、かわいそうだ」というふう
には息子を見ないように心がけてきた。「お父さんがいないんだから、こんな
こともしてやろう、あんなこともしてやろう」と考えるほうが前向きだ。
もし私が「おまえはお父さんがいなくて、かわいそうだから」という態度だ
ったら、子どり自身も「そうか、ぼくはかわいそうなんだ」と思ってしようだ
ろう。そして本当にかわいそうな子どもになってしまう。これが、インドのあ
の女性が教えてくれたことだ。
さらに、周りからも、気遣われないようにしたい。息子が幼いころ「明日ご一緒するときに、ウチは夫も行きますが、かまいませんか?」というような気遣いを受けたことがあり、驚いた。悪気はなあけど、その人からは「かわいそう光線」が、しっかり出ていた。
そのときは「ぜひ、よろしく!大人の男の人と接する機会が少ないので、息子とも遊んでください」と答え、以来、そのスタンスだ。
→どう声をかけるのか。私ならどうされたい?どうする?相手の性格やお互いの状況を鑑みて、臨機応変に応対できるようになりたいが、その距離感を見極められる叡智が欲しい。
p131…印象深かったのは、A君がB君にケガをさせてしまったときのB君のお母さんの言葉。泣きそうになってあやまるA君のお母さんに対して「そうなんだよね。こういうとき、やっちゃった親のほうが辛い。聞いたとき、ケガさせたほうでなくてよかったって、私、思ったもん。男の子同士遊んでたら、こういうことはあるから。もう気にしないで」。
日ごろの信頼関係が、親同士で築かれていなかったら、とても言えない言葉
だなあと思った。互いの子どもの性質なども、よくわかっているから「ケンカ
の内容」も察しがつくのだ。B君のお母さんからも、きっちり叱られて、A君はとても深く反省しているようだった。
→ただ「気にしないで」とだけでなく、相手の気持ち、そして自分の正直な気持ちをちゃんと言葉にして伝えられるこのお母さん、すごい。さらに、きっちり叱るというのも、いいなぁ。子どもにとっても、相手の親さんにとっても、ありがたいこと。私もそうされたら幾分気持ちが和らぐだろう。臨機応変に、おおらかに。そんな人になりたい。
p138…隣る人に我はなりたし
ひたすらに子を受けとめて子を否定せず
『隣(とな)る人』という映画を見た。さまざまな事情から、親と一緒に暮らせ���い子どもたちがいる。彼らを養育する児童養護施設「光の子どもの家」を舞台に、八年間にわたって撮られたドキュメンタリーだ。
特殊な事情の、かわいそうな子どもの、特別な世界を描いたもの……ではない。およそ子どもに関わる人間なら、すべての人に持っていてほしい「心のありよう」が、ここには描かれている。それを端的に表現したのが「隣る人」という造語だ。ひとことで 言えば、ありのままの子どもをどこまでも受け入れ、ひたすらその心に寄り添う、ということになるだろうか。
ナレーションも字幕もない映像は、施設の日常をたんたんと映し出す。なにげない朝の見送りのシーンがあるのだが,私はこの場面が大好きだ。寒くはないか、雨は降らないか、こまごましたことを気にかけながら、保育士さんは子どもたちを見送る。ふ
ひたすらその心に寄り添う、ということになるだろうか。振り向いたときに、そこに見守ってくれている人がいるという安心感。それがあるからこそ子どもは前を向いて進んでいけるのだ。
この映画へのコメントを求められて、私は次のような短文を書いた。
「『どんなムッちゃんも好き』。保育士のマリコさんの言葉です。そう思ってくれる人が隣にいること。子どもには、それだけでいい。けれど『それだけ』が非常に困難になっているのは、今の日本、児童養護施設に限ったことではないように思います。愛情とは、何か特別なことをしてやったり、まして期待したりすることではない。なんでもない時間を共有し,ひたすら存在を受けとめること。子どもとは、こんなにも愛情を必要としている生き物なんだと、せつなく、たじろぐほどでした。」
自分は自分の子どもに対して「どんな○○ちゃんも好き」と常に思っている
のかどうか。こんな子どもになってほしい、という願いを持つのは自然なこと
だ。が,そうならなかったときにこそ、親は試される。
(中略)気まずさを埋めるように母親は、外食に連れ出したり、唐突に小遣いを与えてしまったりする。同じ子どもが、保育士さんに耳かきをしてもらってうっとりしているのとは対照的で、胸が痛む。
極端な事例のようだが、これに近いようなことが、今の日本では起こっているようにも思う。情報や物質的な豊かさがマックスな時代。子どものために何かしてやるということの「何か」が、情報や物質的なことで埋めつくされてはいないだろうか。
けれど、一番大切なことは、ひたすら隣ること」なのだ。一番大切で、そして一番むずかしいことでもあるかもしれない。隣にいるつもりが、いつか後ろから押していたり、前から引っ張ったり、上から押しつぶしたり、あるいは隣とはいないほど離れていたり……。
保育士さんたちは、実の親でないぶん、
過剰な期待を子どもにしていない。そこが重要なことのように思えた。もちろん愛情はあふれんばかりだが、ただひたすら、子どもに健やかな日常が訪れることを願っている。その姿にも打たれた。
保育士さんの愛情を得ようと、あるときは本性剥き出しで奪い合いをする子どもたち。布団に残る香りに顔を埋める子もいれば、試すように悪さを繰り返す子もいる。配置換えになった保育士さんに、子どもがしがみついて号泣する場面は、あまりの痛ましさに直視できない��どだ。親を失ったところからの出発だから、これも極端に見えるかもしれないが、子どもとは本来、これほどまでに愛を必要としているものなのだと気づかされる。
子の髪を切りそろえいる日曜に
言葉はなくて豊かな時間
→このこと、心して子育てしたい。この章、何度も読み返したい。なんだか、育児書のようだ。人の体験を通して自分の育児を見直す。『隣る人』、2011年の映画。観たいな。健やかな日常を…。胸が熱くなった。
「過剰な期待をしない」「ゆったり、ゆたかに」「正しことを言うときは少し控えめにするといい」。吉野弘の菜々子へと、祝婚歌を思い出した。最近この2つの詩が、折々に思い出される。子どもに対してや、パートナーに対してのみならず、色んな人間関係に当てはめられる。この詩を思い出すと、自分を見直せるし、外で起きたことに逐一波立つ心を、落ち着かせることができる。
p155…「そんな昔からあって、今も、
こんなふうに普通の人たちが作っていて、普通の新聞に載っているんですよ。すごいことだと思わない?世界広しといえど、こんな国は日本だけだと思います」
そう、これは、海外で短歌や俳句の話をすると、とても驚かれることの一つでもある。文芸誌とか読書新聞ではない。一般紙である朝日、読売、毎日、日経、サンケイ、東京、各地方紙· 短歌·俳句の欄を持たない新聞はないだろう。ちょっとした雑誌にも、そのコーナーがあることは珍しくない。「日本は、詩の大国ですね!」というわけだ。
子どもたちには必ず「将来、海外に行ったり、外国人の友だちができたりしたら、ぜひ自慢してくださいね。日本には、こんな文化があるんだっていうこ
とを」と話すことにしている。
(中略)ここからが腕の見せどころなのだが、とにかくひとつでもいいところを見つけてほめる。
(中略)それが言葉で書かれているかぎり,実はほめるポイントは無数にあるのだ。
たとえば虫の名前が書いてあれば「虫、と言わずに具体的な名前を出したところがいいね」。オノマトペが使ってあれば「これは日本語の特徴のひとつ。擬音語や擬態語を使うと、生き生きするね」。「……みたい」とあれば「こうたとえのことを、難しい言葉で比喩といいます。詩にとって比喩を工夫するのは、とても大事なことだよ」。
ほめながら、詩の技巧についても語れるので一石二鳥。対比や発見、共感や描写、個性というのも「ほめ」のポイントになる。子どもたちに、まず好きな作品に0をつけてもらうのもいい。そして、どこがいいかを発表してもらう。これは、鑑賞のほうの勉強になる。
創作の場面では、やや上級編だが,できるだけ形容詞を使わないで作ってもらうのがいい。我が息子の例。「長袖を着るとあったかい秋の朝」としていたので「あったかい、は形容詞だよね。それを使わずにあたたかいんだろうなあって読む人に伝わると最高だよ」と伝えた。が、「気持ちいい」「うれしい」など、出てくるのは形容詞ばかり。そこで、着ていたものを全部脱がせ、ぶるっときたところで長袖のシャツを羽織らせた。「ふー落ちつく…」「それだ!」。というわけで、
長袖を着ると落ちつく秋の朝
たくみん
この句を見て、かつて自分が詠んだグリンのセーターの歌を思い出した。
たっぷりと君に抱かれてあるような
グリンのセーター着て冬になる
→俵さんの短歌授業を受けているかのような章!形容詞を使わずに…か。普段、メールや手紙の文面でも、自分の文章力の無さに嫌気がさすことがあるが、これ、参考にしたい。あと、「色々」ってつい使っちゃうけど、あれも良くないって、俵さんの文章でどこかで読んだな。
p163…笑われたのは心外だったが、や言葉によるコミュニケーションというものへの興味を抱くには、いいきっかけになった。
ただ、とても困ったのは、大阪弁の「はる」が使えないこと。この、ふんわりした敬語は、まことに便利で、これに相当する福井弁は見当たらない。敬語というのは「上下親疎」を表す。つまり敬意を上げれば上げるほど親しみ度は減るというのが原則なのだが、「はる」だけは例外、というのが私の説(?)だ。親しみをこめつつ敬意が表現できる。「あ、先生が来はった」というように。
→大阪に住んでいたとき、「はる」をよく使う同僚たちに会い、便利な言葉だなぁと思っていたものの、他県出身なのに使うのはなんだか気恥ずかしくて、使えずに、同じニュアンスの言葉を探せなくて歯がゆかった。大阪を出て、地元でないところに住んでからは、気恥ずかしさは抜けて「はる」の便利さだけが残り、新しく知り合った人との会話ではちょくちょく使うようになった。この「はる」の便利さと、同じニュアンスの言葉の無さへの歯がゆさ、他にも感じた人がいることが何だか嬉しかった。
p167…児童文学者である松居直さんの絵本論のなかの「子どもは絵を読む」という話を思い出した。大人は、文字を中心に理解をし、絵は補助的に見てしまいがちだが、子どもは絵を読むということをするそうで、それが大事なのだと。耳
からストーリーを聞きながら、目で絵を読むとき、それらが渾然一体となって
脳内で動きはじめる。それこそが絵本の醍醐味であり、想像力を養うことにな
るのだそうだ。
(中略)いわゆる「蒐集」という行為だ。(中略)ある特定のグループを完璧に集めることが非常な喜びとなるようだ。(中略)男の子には自分の王国
のようなものを作りたいという気持ちが強いのかな、とも思う。空想の国のなかの王様 ,その国のリアルさを支えるものとして、カードや万年筆や昆虫や石があるのかもしれない。
→蒐集という字を初めて知った。しゅうしゅう。収集と同義語。
p202…(前略)ツッコミたくなるような返事だが、ここはしっかり辞書をひいてもらおう。やはり小学生のうちは、ちょこちょこ親が面倒をみてやる必要を感じる。
学校の宿題で、日記を毎日書いているのだが、慣れもあってか、パターン化した書き方になってきているのも気になるところだ。特に「いろいろ楽しかったです」「いろいろなことをしました」「いろいろ話せておもしろかったです」といった言い回しが目につく。
「いろいろって、どういうこと?」と聞くと、「いろいろは、いろいろだよ」。
「それじゃ、よくわからない」
「だって、実際にいろいろだったんだから、いろいろって書いて、何が悪いん
だよう」
「あなた、学校から帰ってきたら、まず今晩のおかず何?って聞くよね」
「うん」
「その時おかあさんが『いろいろ』って答えたら、おかずのこと何もわからな
いでしょ。いろいろっていうのは何 も言ってないのと同じなの」
これは非常に腑に落ちた様子で、「なるほど!おかあさん、説明がプロっぽいね!」とほめられてしまった(いや、プロなんですけど)。
→「いろいろ」のくだり、ここで読んだんだ!ここも、俵先生の授業のよう。「いろいろ」って私もよく使う。ドキッ。
p208…「オレがいまマリオなんだよ」
島に来て子はゲーム機に触れなくなりぬ
石垣島に来て、まもなく3年。ゲームの主人公のように自然を満喫するマリオだった息子も、ゲームへの興味関心を再燃させている。私がアイパッドを購入したことや、昨年転校してきたクラスメートがDS (ポータブルなゲーム機)を持っていることなどが刺激の要因のようだ。ちなみに息子の通う小学校で、DSを持っているのはその子だけだと言うと、都会の友人はほぼ絶句する。今の子にとって,ゲームは当たり前に存在するものなのだなあとあらためて思う。
同級生たちも、親のスマートフォンを借りて、無料ゲームを楽しんでいる。私はスマホを持っていないので、アイパッドを貸してくれとせがまれる次第。
だらだらやらせていると、きりがない。今どきのゲームというのは,よほどよくできているのだろう。とにかくどんな子どもも夢中になっているのが傍から見てもわかる。
ルールを決めないとまずいなあと思い、息子と話し合った。我が家では「マンガを読んだら、同じ時間、字の本も読む」というルールがあるので,それにならって「宿題以外の勉強をしたら、同じ時間,ゲームをやってよし」ということで、とりあえず始めることにした。わかりやすい「アメとムチ」で、芸がないような気もするが、単純に「1日30分」と決めるより、多少メリットはあるように思う。
宿題以外の勉強としては、小1から購読している通信教育の教材に、まず取り組むようにしてみた。毎月毎月、読み物のところだけ読んで、ドリルやテストにはほぼ手をつけていないというていたらくだったので、いい機会ある。
息子も納得してやっていたが、あまり楽しそうではない。気になってその問題を眺めてみると、宿題の延長というか、宿題と似たり寄ったりの内容だ。
一番の問題点は、そのテキストが、学校の教科書に完全に準拠していることだと気づいた。特に国語などは、教科書と同じ文章を読み、学校のテストと同じような質問がなされている。「これは、飽きるなあ」 四年間も購読していて、今ごろ気づいたというお粗末な話ではあるが、プラスアルファの勉強としては魅力に欠ける。
そこで市販の、教科書をほぼ無視しているとしか思えない、中学受験用の問題集を買ってみた。(中略)国語は、(中略)日本語に関する部分だけをピックアップしてやらせると、面白がる。言葉の成り立ちを調べたり、反対語をつくる問題などである。
ドリルや問題集を、子どもに丸投げするのではなく、多少自分も関わってみると、息子の弱点や興味のありどころがわかるようになってきた。今の力より、ほんの少し難しいレベルがいい。息子も、これを「おかべん(お母さん勉強)」と呼んで、案外楽しみにしている節があ��。もっとも、そのぶんゲームができるというアメの部分が大きいのだろうが。「今日のおかべん、何?」と、まるで夕飯のおかずでも聞くように尋ねてくる表情は、悪くない。
そもそもは、ゲーム対策として考案したことだったけれど、子どもが今、学校で何をどんなふうに勉強しているかを知るのは、なかなか大事なことだと実感した。知らないと、補ってやることもできない。
「おかべん」を、もっともっと面白くして、アメとムチではなく、アメとアメ
にしてやれないかなぁというのが、目下の私の野望だ。ライバルのゲームは手
ごわいが、それ以外にも楽しいことがあると教え、充実した時間を過ごせるように工夫するのも、現代の親のつとめではなかろうか。
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久しぶりの俵万智。昔はあまり分からなかった子育ての喜びの気持ち、今はちょっと想像できる。理解、まではいかないけど。
沖縄に縁ができたから、石垣島に関するあれこれは面白く読んだ。
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孫が生まれきてくれて、ありがとう。おかあさん、小さいけど、がんばって産んでくれてありがとう。ありがとう
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息子さんとの日常に短歌を添えているエッセイ。
言葉選びのセンスとか、日常を魅せる才能とか、すごく楽しく読めた。
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2019.10月。
環境って大切だなと。子どもは自然の中で…だ。ふたりでひとつずつ考えて、毎日を過ごしてる感じがする。いい関係だなあ。
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俵万智
1962年 大阪府生まれ
サラダ記念日
一人息子のシングルマザー
東北大震災を機に石垣島へ移住
子育てエッセー
前向きで暖かい日常と子どもへの愛情が良く伝わってくる
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エピローグでタイトルの理由がわかった。
この本は先日読んだ「たんぽぽの日々」の続きだったらしい。息子さんの卒園時期から小学5年まで。
自然豊かな石垣島での子育てにちなんだうた。
最後まで温かい気持ちで読めた。
わたしにも「ありがとうのかんづめ」届かないかな。
でももう受け取ってるのかな。