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【遅ればせながら読みました】
虐待をした親、とされた方々に「生真面目さ」がある、というところには強く共感しました。自分の仕事を振り返るいい機会になりました。
「新しい社会的養育のビジョン」について解説されていました。里親委託の件が波紋を広げているところです。たしかに里親さんもいろいろで、私も病院時代に里親さんの虐待事案に複数接し、通告してきました。それもこれも成功の鍵を握るのは「自治体の正規の職員として、専門職を置けるかどうかが重要だと思います」とあります。全くその通りで、ソーシャルワーカーがきちんと専門職として正規に採用され、きちんと能力を高めつつその力を発揮できる環境が整えば「新ビジョン」なんてそんな難しいことでもない、と感じています。
どの事案にも丁寧に情報を集められ、それを紡いでいった本書は、子ども家庭相談に携わる者として必読だと感じました。
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子供を思い通りにできると思う「所有感」
裏を返せば思い通りにならないと苛立つ。
ハッとさせられます。
娘にも息子にも所有感は感じます。
でも強さが違うような気がする。
娘は早くに自立したので同じフォローでも息子のフォローとは違うように思います。
同じ塾の送り迎えでも娘の場合は主体が娘。
頼まれてから動きます。
しかし息子の場合は頼まれるより先に自分で動いてるような感じです。
虐待する親もそんな感じなんでしょうね。
親にもハンデがあれば余裕がなくなって。
例えば
子供時代に発見されなかった障害があったり
虐待があったり
シングルやったり
けっこう子供に暴力が向かうリスクは身近なところにあるんですよね。
僕が司法試験受験しようと思ったのは福祉の限界を感じて法律の知識をそんな家庭に届けたいと思ったから
法曹を断念してからは今の僕にできる範囲でがんばろと思ってます。
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里親制度については、新しい情報として受け取れるけれど、他部分については、今までの著書の抜粋という感じ。
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事例として出てくる事件については、もっと詳しい本も読んでいたが、著者独自の視点でシングルファザーやシングルマザーに大きく心を寄せる。部屋に閉じ込めパンを与えて死なせた父親に対して、家の恥を外に出さなかった家庭環境や一人で仕事と両立しようとした心理状況など、人を陪審するときにはここまで心を寄せなくてはいけないのだと身が引き締まった。
仕事満州開拓民の話まで相当ページをさいて引き合いに出し、追い込まれる親の心境、国家や社会が子供の成長に責任を持つことの重要さを説く。中盤、著者の子供も長らく不登校だったことがわかる。
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厚木市のシングルファーザーのネグレクト事件~現代家族の孕む危険性まで
付録として掲載された児童精神科医との対話
「人と関われない不幸を虐待と名付けてバッシングするだけではダメなんですね」
「今は虐待という言葉が一般的になり、一方的に親が悪いというイメージが広がりました。親である以上、子供をしっかりと育てなければという圧力はとても強い。愛情と責任さえあれば、子供は育つという一種の思い込みがあります。うまく育たないと、愛情か責任感が欠けた親だと言って責められる」
社会と繋がれない孤独な親、いろいろ考えさせられる
いつか改めて読み返したい
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虐待死をさせる親たちは、詳しく目を凝らせば、極悪人というよりも、社会の様々な支援から遠ざかった不遇な人たちだ。むしろ、古典的な家族の形しか知らず、新しい家族に関する価値観にアクセスできず、それでも家族にこだわり、閉じこもった人だ。
満州女塾については、国策の介入など、始めて知りましたが、育てる力の弱い親、近代家族、移民、シングルマザーなどの全体のつながりについては読み切れませんでした。
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数々の児童虐待事件を取材した著者が、その背景にある日本社会の家族規範の変容を追いながら、悲劇を防ぐ手だてを模索する。
厚木男児遺体放置事件などの事例を分析することで、児童虐待について、加害者である個人に責任を帰すことに疑問を呈し、児童虐待の背景には、父親は仕事で家族を支えるものであり、母なるものは子どもを育てなければならないという近代家族の家族規範や、家族を支えない社会、家族を従属させようとする国家があると指摘する。
著者が指摘するような児童虐待を生む社会的背景があるという側面はあると思うし、社会による家族支援が必要という主張にも共感はするのだが、本書全体を通じて、児童虐待の原因を社会に求める度合いが強すぎるように感じて、あまり納得感が得られなかった。満州女塾の話など、それ自体は重要な歴史的事実だと思うが、それと現代の児童虐待を結びつけるのには、ちょっと飛躍を感じた。
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多くの児童虐待事件を取材してきたルポライターが、これまでの取材をもとに虐待や暴力、家族、社会のかかわりなど考察。以下、備忘。
・虐待する親も、人並み以上に「良い子育て」をしようと努力した時期がある。
・自らは子ども時代に虐待を受け、あるいは親の精神疾患などで結果的にネグレクトを受け、子育てモデルを持たない。
・困難に直面したとき、人は公的支援を含め環境調整をして乗り越えようとするが、子ども時代から暴力を受け、誰にも助けられず育つと、大人になってからも他者に頼ることができず、我慢、逃避、暴力に。
・将来を見通して行動する力が弱い。
・「満州女塾」の言及も。満州開拓民の花嫁として送られたが、戦局悪化で男性は兵として南下、残された女子供がロシア、中国の暴力と性暴力の標的に。帰国後、国家による堕胎。衝撃。
・川崎の中一殺害主犯は母がフィリピン人。フィリピン女性へのDVと子どもへの教育不足が社会的不適合を生む。(今後の在留資格緩和政策は家族への教育支援充実必要)
・人と関われない不幸を「虐待」と名付けてバッシングするだけではだめ。(滝川一廣医師)
・「新しい社会的養護ビジョン」。親への支援、カウンセリング。
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児童虐待に関して背景要因やさらにはその要因の歴史的な経緯についても触れていて、読み応えのある一冊。感傷的な内容になりがちなテーマをしっかりと考察できている。
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知的な水準が障害かそうでないかのボーダーライン上にあると思われる親たちは、その意図はなくても、支援を求められないため、結果的に子供を虐待してしまう。他方、こういう人たちは、職場では遅刻もなく高い評価を得ている。コツコツ積み重ねていくことは得意なのに、抽象的な思考や見通しを持つことに難があり、時系列で説明するのも苦手。普通の大人なら人に助けを求めるのに社会にSOSを出せず孤立感を抱えている。昔であれば地域や社会がそんな人たちの面倒をみてきた。
精神遅滞と呼ばれる人たちは生物学上では2%程度と言われる。日本には270万人いる計算になるが、障害者手帳を取得している人は全国に74万人。
社会の中で孤立するのは力の乏しい親たち。こういう人たちには必要な情報も行き届かない。役所は基本的には申請主義。激増する児童虐待の中にあって、そのあり方が問われている。
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借りたもの。
児童虐待を“した”側への取材を通して、児童虐待の原因を紐解こうとした一冊。この本では親子関係の歪みと、社会の支援に繋がらないことに、著者は原因を見ている。
取り上げられている事例はネグレクト2例と暴力1例。
親たちは仕事では一定の評価を得ていたり、SNSでは充実した日々を送っているように見せていた。
“社会”に対しては良い面を見せていたが、家庭にそのしわ寄せを置いていた。
当時、それが理解できなかった。「何故、子供を“見ない”のか」……
他の著者による児童虐待による裁判の様子をルポしたものをネットで読んだことがあるが、何か子供が“存在しない”ように受け答えしている印象があった。
この本では、彼らの認知において、子育てや子供と関わること、未来を見通す順序だてて建設的な思考が欠落していることを指摘。さらに親たちもかつてネグレクトを受けていた傾向があったという。
連綿と受け継がれている負の連鎖があった。
第二次大戦の旧満州国の事例が唐突に現れるが、著者は社会がこうした家族問題に支援しない、支援もどこかお門違いであることの証左としてなのか、虐待の原因が過去の戦争から形を変えて引き継がれた悪意と見なしているのかは判然としなかった。
読んでいて思ったのは、こうした視野狭窄的な親子関係は“愛着障害(スタイル)”に起因していると思った。丁度読んだ、岡田 尊司『話を聞きたがらない夫 悩みを聞いてほしい妻 精神科医が教えるコミュニケーションのコツ』( https://booklog.jp/item/1/4040693841 )で、“回避型”と呼ばれる傾向に近い。さらにこうした愛着スタイルが親子間で引き継がれやすいということからも、この本で指摘されていることを裏付けている気がする。
その解決策はあるのか?
著者は、シングルマザーに置かれても、公的機関を最大限に活用する事例を紹介している。また、お寺によるおやつクラブ( https://otera-oyatsu.club/、https://booklog.jp/item/3/118767 参照)など官民問わず、そうしたサービスの存在を挙げている。
そうしたものを積極的に取り入れている人は、上記愛着スタイルが安定している人、自己肯定感が高い人であり、そのことをこの本の著者は指摘している。
同時に、自己肯定感が低いと虐待に走りやすいということになる。この本で挙げている虐待の親たちを、著者が「生真面目である」と指摘しているが、それは同時に意固地であり、裏を返せば自分に自信が無いため、そうした公的機関ともつながりを断ちたくなる、という心理状態が見え隠れする。当事者にその自覚はない。
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【犠牲者たち】
虐待される児童は被害者。
虐待する親も被害者。
親はなぜ被害者なのか?
自身が親から虐待を受けていた。
貧困。
社会資源と繋がっていない。
社会資源にどのようなものがあり、誰が繋いでくれるのかが分からないのだ。なんと「不親切」な世の中なのだろうか。虐待が見つかってからでは遅く、虐待前に支援をしなくては虐待は無くならない。
加えて「不寛容さ」
社会資源を使うことに対する後ろめたさ、「社会資源を使うこと、人に頼ることは親として失格」と思う恐れ。
親が虐待するのは不寛容な社会が原因だ。
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厚木男児遺体放置事件、大阪2児ネグレクド事件などの児童虐待事件について、丁寧に取材され、その上で考察されているので事件を深く理解するきっかけとなった。
満州女塾の話は初めて知り、とても衝撃的だったが、現代の孤立する家族に似ている。
この本で一番の衝撃は、大阪2児ネグレクド事件の母が語った「子どもが嫌になったのではなく、子どもの周りに誰もいないのを見たくなくなったから。」。実際、下の子の1歳の誕生日に誰からも連絡なく、翌日から外泊が始まってる。誕生日前には元旦那に一緒に過ごすことを提案しても断られていて、ギリギリまで母として頑張っていたことを知ると、必ずしもこの母だけが悪いのではなく、育った環境、元旦那との関係なども影響している。懲役30年は妥当なのか、、やはり母に子育てが押し付けられていると感じざるを得なくなる。
虐待親を攻めるだけでは何も変わらない。タイトルの通り、国家が家族に強いていることを念頭に置いた上で、私たちが出来ることを考えていかなければならない。
また読みたい。
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2020年1月読了。
児童虐待が何故起こるのか、考えたくなったので読んだ。
多くの親は虐待するために子を成すわけではない。
が、悲しいかな現実の問題として虐待やネグレクトが存在する。
子を養育する能力のない人をあげつらってその非を責めるのは非常に簡単だし楽で、虐待をする側の問題を指摘するのは絶対的に正義だったりするわけだが、如何に虐待に向かいやすい環境にあるかとか、「する側のメカニズム」に着目すると、過剰な新自由主義的な自己責任論の押し付けや、ましてや「伝統的家族観」なんかでは、いよいよ子の養育を両親のみに押し付けるような気がしてならない。「社会が子を育てる」みたいな発想がもっとあっていいのではないかと思う。
※誤解のないように言うと、「子を真っ当に育てるためにある程度の体罰は止む無し」と言った意見には全く与しない。虐待する側が抱える問題を解決せずに、単に事案が起こったら罰するということでは、この問題は解決しないのでは?というのが、本書を読んで考えたことです。
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過去の虐待事件の裁判傍聴や加害者への接見を通して筆者が得た情報を元に、虐待の背景にあるものは何だったのかが考察されている。普段見聞きするニュースではここまで深い情報を知ることができないため、とても勉強になった。
親になって改めて思うが、子育ては周りの助けがなければ絶対にできない。誰からも何の助けも受けず、親だけで育てることは不可能だ。それでも現代では「子育ては親の責任である」とい考え方が根強い。(確かに子どもは親のことをよく見ているなと感じることも多々あるし、子は親の鏡という言葉も間違ってはいないと思う。)
一方で、自身が自立できていない親、子どもをコントロールすることで自分自身を保つ親、自身も被虐待者で暴力以外での育て方がわからない親、等も一定数存在していて、「子育ては親の責任である」論で言うと、そのような親から生まれた子は運命を受け入れかろうじて生き延びるか死を待つかのどちらかになってしまう。
中には、虐待やネグレクトを受けても自身の力で立派な大人になる子もいる。もちろん個人の能力も関係あるとは思うが、そのような子たちは大抵、人生のどこかで恩師や恩人に出会っている。「人生に希望を見いだせる何か」があるというのはとても重要で、人生のどこかでそのような希望に触れられるかどうかが、子どもの成長においてとても重要なことだと思う。
「どの親から生まれたとしても子どもが社会に希望を見いだせる」そんな社会であってほしいし、そのために自分自身には何ができるのか(たとえ微力だとしても)、改めて考えるきっかけとなった。