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哲学分野の人ってのはずっとこんなことを考えているのか、色んな意味ですげーなぁ……というのが第一印象だった。
全体的にさらっと流されているというか、踏み込んだ議論というよりは、一般向けの解説書だろうと思う。
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エンドロールで触れられている世界との処し方に著者の想いが凝縮されているのだと感じると共にすべてを包摂する基本構造なるものを断念することから歩みを続けるという考え方がとても共感できた。
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とてもわかりやすく実在論を書いてある。また、訳がわかりやすい。最後にテレビドラマでしめくくったのが、現在風かもしれない。
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この人の定義する「世界」は存在しない、ということはわかりましたが、世間でそんなにもてはやされるほどの哲学者なのか、革新的な考え方を新たに提示したのかは私にはわかりません。一方で歴史上の偉人を小ばかにするような表現も鼻につく。
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・存在すること=何らかの意味の場に現象すること
・世界とは、すべての意味の場の意味の場、それ以外の意味の場がその中に現象してくる意味の場である
・崇拝されるのが神なのかビッグバンなのかは表面的なことにすぎず、決定的な問題ではありません。
本当の問題は、これぞ宇宙全体の根源だとして崇拝される何かがあるということそれ自体です。
それがどんな姿をとっているかは、まったくどうでもいいわけです。
・「神」があらわしているのは、概念によってとらえきることのできない無限性という理念だというわけです。
かといって、私達がそのような無限性に解消されてしまうわけではありません。つまり神とは、どんなものも
-たとえわたしたちの理解力を超えていようとも-決して無意味ではないという理念にほかなりません。
「我々には捉えがたい「意味」が確かに存在していて、我々を捉えこんでいるのだ」という信念です。
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〝世界は存在しない〟というセンセーショナルなタイトルですが、ガブリエルさんが言いたいのは全ての森羅万象を包含する一つの世界というものはなく、考えることの意義を考えられる唯一の動物である人間の数だけ多様な世界が存在するということ。この不必要な統一性を目指すことなきことこそが、現代的な自由であると。
自然科学を相手にしている時間が長いと、万物の根源に迫る統一ルールやプロセスが存在すると誤解しがちですが、仕事をしているのはさしたる特徴を持たない素粒子の塊ではなく、考える葦である人間です。それぞれの人間が自分の人生を豊かにしようと積極的に仕事に関与することが、仕事を通じて他の人に影響を与え、それぞれの世界の進歩を促します。ルールに縛られる、物事が転ぶ方に身を任せるのは現代的な自由を放棄していることになり、そこに関与する人達の人間性の発揮を阻害するのだなと感じました。
多数の哲学書が引用されていて、初学者の哲学の道歩き方としても良い本だと思いました。また、映画や小説も多数引用されていて、ガブリエルさんはいろんなことに興味がある人なんだなというのも伝わってきます。
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ひっさしぶりに哲学の本なんか読んだなー。
たまには哲学も良いもんだね。
ただし、この本の言わんとすることは、オレには、よく分からなかった。
「 世界は存在しないがそれ以外のすべては存在する 」
・・・なにそれ?
新しい実在論、なんだって。
ポストモダンの哲学以後は、相対主義的傾向が強まった。
ガブリエルは「本質主義vs.相対主義」の対立から抜け出す第三の道を開こうとしている、って、千葉雅也が書いてた。
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以下の記事を読んで興味が出たので手にとって見た。
https://news.yahoo.co.jp/feature/1016
記事の中では、以下の様にインタビューにこたえていた。
「一方の道は、世界規模のサイバー独裁や全人類の滅亡に続きます。これがまさにハラリが示したものです。そしてもう一方には、普遍的なヒューマニズムを追求していく道があります。こちらは、あらゆる人間存在の中の同一性を認識し、それを人類のこれからの発展のための原動力にしていく道です。」「第1の道は、一つの世界像があると思い込み、それに基づいて人間を操っていくことを意味します。それは幻覚の道です。なぜなら、「一つの世界像」は論理的に成り立たないものだからです。もう一つの道は現実の道、そして無限の自由の道です。「世界が存在しない」ことは、私たちの自由の源泉です。世界が存在しないからこそ私たちは、こういうことをやってもいいし、ああいうことをやってもいいと感じることができるのです。」
本を読んでみて、いわゆる哲学書より、読みやすくはあると思うけど… 記事で受けた印象が「世界が存在しない」ことが「普遍的なヒューマニズム」の追求に繋がっていくという、論理的な背景が描かれていると勝手に想像していたのだが、読解力というか集中力が足りなかった…
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まるで新書のようなシンプルでキャッチ―なタイトルにやられて思わず手に取ってしまいそうな1冊だが、肝心のその問いに対する答えに納得できるか否かはまさに読み手次第。
本論としては、冒頭で「新しい実在論」という、著者の主張の礎となる根拠が示されるので、哲学書を読み慣れていない私のような一般人にとっても比較的分かりやすい構成となっている。
形而上主義でも構築主義でもない、それらのハイブリッドとも言える実在論を示しながら、自然科学に頼る一元論をきっぱりと否定し、返す刀でニーチェやホーキングといった各界の偉人たちをもバッサリこき下ろす。
これを執筆した当時、著者のマルクス・ガブリエル氏はまだ30代前半だというから何とも恐ろしい。
ただ、読み進めて序盤に感じたインパクトが薄らいでくると、おそらく胸中に懐疑心が膨らんでくる人も多いのではないだろうか。
信ずるに足る公理かどうか読者にとっては未だ定かではない著者の論拠によってのみ弁証は展開していき、ある地点から置き去りにされてしまう感がある。
その主張は時に独善的であるとも感じられ、一種の言葉遊びに近いような表現も多々見受けられる。
そして、著者が既存の学説や他の研究者たちを否定してゆくまさにその論法に従って、著者が述べているところ自体も否定できるのではないか? と自問してしまうのである。
それこそ哲学は自然科学ではなく、どこに世界観の軸足を置いているかという、個々人の思想信条によって解答は異なるものなので、それもまた1つの読み方ということで…。
年を取り、固まって錆び付いた脳ミソに鞭を入れるという意味で、こういう類の本をたまに読んでトレーニングすることは重要だと実感した。
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『冷蔵庫にまだバターがあるかと尋ねたあなたに、誰かがこんなふうに答えたらおかしいでしょう。「はい、ありますよ。もっとも、バターも冷蔵庫も、ただの幻想、人間が造り上げた構築物ですけどね。本当はバターも冷蔵庫も存在しないか、少なくとも存在するのかどうかわたしたちにはわかりませんが、どうぞお召し上がりください」』―『哲学を新たに考える』
テレビ番組でマルクス・ガブリエルの特集を観た時、彼が主張するのは単にスケールすなわち視点の問題かと思ってしまったのだが、そんな単純なものではないことを確認する。彼が主張する世界観について一冊の本を読むだけですべて理解できるとは考えていなかったけれど、予想以上に敷居が高いことに改めて気付かされる。
すべてを網羅する世界という存在が自己矛盾する主張であるという下りは素直に理解できる。例えば最大の素数が存在するという主張と比較して数学的に腑に落ちる印象。自己言及と無限とは相性が悪いというのはよく知られた事でもあるし。また、たった一つの存在というものがあり得ないという主張も、陰と陽、地と図という東洋的な発想に通じるところがあり受け容れやすい。色即是空、空即是色。どちらかだけが存在することはない。
『というのも、ここで世界という言葉で理解されているのは、およそ起こりうる事象のすべてがそのなかで起こる領域、つまり全体にほかならないからです。ところが当の世界それ自体は、世界のなかに現れることがありません』―『哲学を新たに考える』
ふむふむ。ここまでは容易に納得できるのだが、そこからこのロックンロールな哲学者が見渡そうとしている実在論に中々踏み込めない。存在するとはある意味の場に現れることだとこの哲学者は説く。記憶は関係性の中に存在し、意味は文脈の中にあるのだと。それは自分も常々思っていることだが、その先に自ら立ち上がるような存在を主張する展開が中々飲み込めない。しかも、言及が言及自身を包括する時あらゆる言及は自己無矛盾の呪縛から逃れ得ないのだとすれば、無矛盾な実存は成立出来るのだろうか。その探究の過程は、科学の意味、宗教の意味を問い直す過程を経て、自分たちに見えている世界、つまりは自分たちが現象する意味の場における他の存在のの意味を明らかにしようとする。すべてのものを説明する理論や理屈が提示されることは起こり得ないし、提示されたとしてもその理屈は提示された途端に否定される定めにある(何故なら「すべて」という射程と自己言及から、その理屈は矛盾を孕むから)。メタな視点に答えがある訳ではない、と。従って、探求し続けることによって我々の存在が投影された意味の場は見えて来るのだと。抽象的にはそのユダヤ教的な主張も朧げに理解できるとは思う。
『近代における生活の現実は、初期近代に比べるとずっと複雑になってきました。それを見渡したり見通したりすることは、ほぼ完全に不可能なほどです。ところがわたしたちは、意識することもなく、こんなふうに想定しています。わたしたちの現実は合理的である。わたしたちの社会秩序の基盤は、さまざまな科学的な手続きによって保証されている。』―���V 宗教の意味』
その直観、あるいは信仰が、根拠のないものだとしても、我々はすべてを一からやり直しながら生きて行かなければならないということではないのだと思う。ある理論は、一つの投影によって共通項を明らかにするし、その共通するものの持つ一面の真実もやはりある筈。共通するものと相反するもの、個体は常に概念から逸脱するものだとしても、個と全体のバランスは揺れながらも取る努力をすべきもの、そんな倫理的な考えを意識することもなく想定している自分を発見する。
つまりは、無矛盾である事に拘り過ぎないということか。すべてはEquilibriumに存在しているのではなく、Transientに移行しているものなのだと理解すること。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし」。この哲学者の言うことは、東洋的な叡智と相性がいいらしい。
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本著における「世界」とは、”World”という意味ではなく”物事を包括する最大の存在”といったところである。
全てを包括する存在は、存在しない。+1がないものは存在しない。
物事は「意味の場」の無限集合である。
このテーゼを核として、形而上学および構築主義の批判と、それらの欠点を克服することを目指した「新しい実在論」が語られる。
正直なところ全体は完全につかめなかったが、自然科学が万物の尺度となっているがそれは意味の場において一面でしかない、芸術の話…など部分で納得のいく主張はあった。
一般向けに書かれた一冊であり、例えが我々の身近なもの(映画やドラマ)が多いし、訳も哲学書らしからぬ口語風の書かれ方をしていて読みやすい。が、だから内容が簡単というわけではなく西洋哲学そのものに触れたことがない人だと途中で投げそうだ。
実在論ーポストモダンは難解で関連書籍を読む気にすらならないほどだが、本著は逆説的にそれらの入門としてよいと思った。(なんせ読みやすく、「わかった気」にはなる)
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哲学に関する基礎的な知識を欠いていたため、中々話にのめり込めなかった。
もっとお気軽なエッセイでも書いてくれると面白いかもしれない。
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原書名:WARUM ES DIE WELT NICHT GIBT
哲学を新たに考える
1 これはそもそも何なのか、この世界とは?
2 存在するとはどのようなことか
3 なぜ世界は存在しないのか
4 自然科学の世界像
5 宗教の意味
6 芸術の意味
7 エンドロール―テレビジョン
著者:マルクス・ガブリエル(Gabriel, Markus, 1980-、ドイツ、哲学)
訳者:清水一浩(1977-、哲学)
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p17-18-19 宇宙はすべてではない〜宇宙はごく特殊な限定領域〜。〜中略〜世界を有意味に定義しようとすれば、すべてを包括する領域〜。〜中略〜このすべてを包括する領域、つまり世界は存在しませんし、〜。
# 空の思想か。
p31 ソクラテス〜何も知らないということを知っている
#「何も知り得ない」ことを知るべきか。
p54 事実のない世界は存在しません。
# 結局のところは二元論か。無が成立している場はどこにあるのか?
p55 〜物・対象・事実だけでなく対象領域も存在している〜
# 物=事実であり、それ自体で存在し得ない。やや言語に対する姿勢が雑なのでは?
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「新しい実在論」を説く若手哲学者による哲学書。
訳語がですます調なのと、卑近な例が多く使われていて、思ったよりも読みやすい。
どうも近年?の哲学は、観察する側とされる側(主体と客体というか)のどちらに重きを置くかの論争になっていて、本書の著者はどちらにも重きを置く立場らしい。
同じものでも見る人によって見え方が違うというのは至極当たり前だが、量子論的とも言えなくはない。
著者がいう「世界は存在しない」ことの理屈は理解できる(わかりやすく図解までされている)が、それは「世界」の定義によるところが大きく、言ってしまえば「全知全能の神(いるとして)を作ったのば誰?」という問いにも似ている。
自然科学や宗教、芸術の役割も考察していて、包括的?な哲学の入門書にはよいのではないか。
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マルクス・ガブリエル(1980年~)は、古代哲学とドイツ観念論を出発点に、加えて、20世紀の哲学(ハイデガー、ヴィトゲンシュタイン、分析哲学、ポスト分析哲学など)も研究対象として、認識論・存在論・形而上学の議論を刷新しようとし、「新しい実在論」を主導する、ドイツの哲学者。2009年に、29歳でドイツで最年少の哲学正教授になり、話題になった。また、独語、英語、伊語、ポルトガル語、スペイン語、仏語、中国語のみならず、古代ギリシャ語、ラテン語、聖書ヘブライ語などの古典語にも精通している。
本書は、2013年に原書『Why the World Does Not Exist』が出版され、哲学書としては異例の世界的ベストセラーとなった。2018年、日本語訳出版。
本書の論旨は、繰り返し述べられており、それ自体を追うことは難しくはない。概ね以下の通りである。
◆「新しい実在論」は、イタリアの哲学者マウリツィオ・フェラーリスが唱道した思想運動で、その背景には、政治の現状に対する批判的意識があり、いわゆる、多様な解釈の可能性ばかりを強調して、真理や客観性の主張を避けてきたポストモダン思想を批判する。ガブリエルの思想の根底も基本的にはここにある。
◆旧来の「形而上学」は、いかなる事象にも、人間による認識から独立した唯一真正な本質が存在すると考える。一方、伝統からの断絶を徹底しようとした「ポストモダン」は、いかなる事象にも唯一真正な本質が存在するという考えを否定する(=「構築主義」)。「新しい実在論」は、「形而上学」も「構築主義」も否定し、人間の思考対象となる様々な事実が現実に存在しているのはもちろん、それらの事実についての我々の思考も現実に存在していると考える。
◆「存在」するとは、何らかの「意味の場」の中に「現象」(=現れ、出来事、存在、を表す一般的な名称)することである。「意味の場」とは、何らかのもの、つまり諸々の特定の対象が、何らかの特定の仕方で「現象」してくる領域である。よって、「意味の場」の外側には対象も事実も存在せず、存在するものは全て何らかの「意味の場」に現象する。
◆「世界」とは、全ての「意味の場」の「意味の場」、つまりそれ以外の一切の「意味の場」がその中に現象してくる「意味の場」のことであり、もって全てを包摂する領域であるはずである。しかし、もし「世界」が存在するならば、その世界自体も何らかの「意味の場」に現象しなければならないが、そのようなことは不可能であり、よって「世界」は存在しないということになる。
◆全てを包摂する「意味の場」(=「世界」)が存在しえない以上、限りなく数多くの「意味の場」が存在するしかない。我々は意味から逃れることはできず、意味とは我々の運命にほかならない。即ち、人生の意味とは意味それ自体の中にある。人生の意味とは、生きるということにほかならず、つまり、尽きることのない意味に取り組み続けるということである。
しかし、最も重要なこと(ガブリエルも望んでいるであろうこと)は、これを読んで我々は何を考え、どう生きるのかということである。
私は、哲学や思想に関しても、現代物理学に関しても、特段の専門知識を持っているわけではないが、本書を読了して、先頃読んだカルロ・ロヴェッリの『時間は存在しない』の主張、「どの出来事にもその過去と未来があって、宇宙の一部は過去でも未来でもない。・・・事物は「存在しない」。事物は「起きるのだ」。・・・この世界は物ではなく、出来事の集まりである」を思い出した。
最先端の現代思想においても、最先端の理論物理学においても、我々に示唆するのは共通して、人間の存在・人生の意味は自己存在との関係性の中にあるということのように思えるのは、浅はかな理解だろうか。。。
(2020年2月了)