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ハウスキーピング=家を維持すること
家という言葉にはもちろん、家族、家系も含まれる…
大きな湖のそばの一軒の家
湖に落ちた列車の車掌だった祖父。病気でなくなった祖母。湖に車ごと飛び込んだ母。流れの労働者になった叔母。ルースとルーシー
聖書の引用。耳馴れない言葉。長いワンセンテンス。
とても美しい英語の小説と言われていますが、読むには味わう余裕が必要かも。
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米国の湖畔の町に両親を亡くしたルースと妹のルシールは、祖母と暮らしていた。やがて祖母が亡くなり、母の妹である叔母のシルヴィがやって来て、姉妹と暮らすようになる。しかし、シルヴィは流れ者とみられ姉妹の保護者としての資質には疑問が持たれる。姉妹は、半年もの間学校へ行かなかった。湖畔の自然の中で自由に暮らしていた。やがて妹のルシールは、自分たちの生活の異端さを意識するようになり、みずから家を出て学校の女教師の家に転がり込む。ルシールは、ラテン語の授業に打ち込むことで学校での居場所を見つけるが、シルヴィの誘いで学校を休んで湖へと向かっていく。シルヴィの奔放さに危惧を感じた住民たちは二人の生活に干渉するようになっていき、シルヴィとルシールは自分らしさを求めて家を出る。
ハウスキーピングとは、家事という事ではなく家を守るというような意味合い。祖母・叔母・ルシールと続く家(家族)のつながりを、湖を中心とした清らかな田舎の景色の中でつづる。
状況を理解するのに、ちょっと読む時間を要するかも。
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1950年代のアメリカの田舎街を背景に、少女の視線で主人公一族の物語が語られる。祖父の築いた家(ハウス)に、奔放ながらも縛られた女系一族の小説だ。
本書の帯には『息をのむような美しい自然描写・・・』と書かれているが、僕の心には響かなかった。静かで、美しい自然描写は大好物だが、本作は外れたようだ。直近で美しい自然描写の作品を読んでいるだけに、何が違うんだろうと考える。心に響くか、響かないか、いったい何が違うんだろう・・・。
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目と心を凝らして、やっとわずかな変化が感じられる物語の進み方。小さく小さく、ささやかに出来事は起こる。最終盤は唯一ドラマチック。橋を渡るシーンが名場面。分かりやすい希望には繋がらない。閉塞した、アイデンティティを明かせない、この世に根を持たない人々の物語。
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初読み作家。ピュリツァー賞を始め高い評価を得ている。かといって日本人に合うといえないと感じた。静謐、豊かな自然描写を背景に「ハウスキーピング」-家を守る概念をそれぞれの人物が語り、動く。祖父、祖母、母の余りに哀しい死に方。双子が辿る人生に大きく関わってくる叔母の影はある意味疎ましく、煩わしい。聖書の言葉を随所に置きつつ、ルーシーとルシールが手繰り寄せる「生きる道」を読み手がどう受け止めるか。私にはシルヴィのはき違えて「謳歌する自由」にざらつきばかり感じさせられ最後まで流れるような文章を咀嚼できなかった。
日本語役に好き嫌いがかなり別れそうな感がある。
長い文が多すぎる・・饒舌というのではなく、主語が、術後が、目的語がふらついて、読んでいて嫌になった時もある。
原文がどうなのか読んでみたい。
湖、橋、鉄道、凍った水、流れる水、付きまとうイメージは北欧のともスペインのとも違う、アメリカ。
何処にも優しさが無い、水くいようがないそれは自らの自立を求めて行かねばならぬ強さを美化しているのだろうか。
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なんとなく「ザリガニの鳴くところ」かな?なんて読み始めは思ったけど、違った。
静かに静かに進んでいく物語。ちょっと根気がいる。
シルヴィやルースという実体を考えないで概念として読むといいのかも。
そこにあったものが実在していた名残を残して抜けて消えるというよりも姿形は溶けてただ空気となって消えてしまったような読後感。
肌に浸透していったので、実体はなくなったけれどそれを喪失とは言わない喪失