紙の本
祝文庫化!知人にプレセント
2018/07/19 18:15
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:iogimi - この投稿者のレビュー一覧を見る
他界されてから人気が増している須賀さんのエッセイ文庫化です。私は単行本で読んでいましたが、今回文庫化されたので知人にプレゼント。知人は春先に大けがをしてリハビリ通院中なので、文庫がいいはず。かねてから須賀さんの本を時々お届けしていましたが、こちらの文庫も読みやすく爽やかな文章だと喜んでいただけました。早く全快されて本当の旅行に出かけられますように。
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須賀敦子も最近ぼちぼち復刊されたり、詩集が出たりしているなぁと思ったら、ハルキ文庫からエッセイ集が出てちょっと吃驚した。こういうのは河出だろうとw
河出文庫版の全集を持っているのでほぼ再読になるのだが、須賀敦子のエッセイは読んでいると何だか幸せな気分になる。
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最初の「プロローグ」が読んだことのある文章だったので、あれっと思ったら既刊本と『須賀敦子全集』からの再録で編成されたエッセイ集でした。
なんだかお手軽な作りの文庫だなという気はしますが、読んだことのある文章も須賀敦子を何冊か読んだあとだと、ああ、そういう意味だったのかと思えたり、部分的にしか覚えていないエッセイもあったりしたので、まとめて再読する意味はあったかも。
日記の部分がとても良いので、文庫を読み終わったら『須賀敦子全集』も読んでみたい。
外出自粛期間は時間はあるものの、心がなかなか落ち着かず、読書も進まなかったりするのですが、須賀敦子なら読めるだろうという予想どおり、地に足のついた文章は読んでいて落ち着きます。
矢島翠『ヴェネツィア暮し』にあるように、しばらくは孤島に隔離された修道士か何かの気分で暮らそうと思います。
以下、引用。
あの靴が一生はけるなら、結婚なんてしないで、シスターになってもいい。そう思うほど、私は彼女たちの靴にあこがれ、こころを惹かれた。
私が和服を着るのをあまり好かなかったのも、おなじような理由だった。あなたらしい表情がなくなって。母は言った。あんまり、きちんと似合ってしまうのが私はいやなのよ。本人でなくても、いいような気がしてしまうのよ。
「このところ、自分の生き方をサボってるみたいなおまえを見ていると、わたしはなさけなくなるわ」母は言った。「そんなために、おまえをフランスまで行かせたのではない気がするのよ」
内容もわからないまま彼らの話し声に耳を傾けていると、ぶっきらぼうなパリのことばに慣れた耳には、彼らの言葉はわたしが生まれそだった関西の人たちのアクセントそっくりなように聞こえた。イタリアに行きたいなんていって。わたしは思った。ほんとうは日本に、家に帰りたいんじゃないか。
それは、建物というよりは、帆を上げさえすれば、空中にぽっかり浮かんで、どこかわからない、私たちには計りしれない寄港地をめざして、飛びたっていきそうな船に似ていた。
聖堂では白い衣の修道士たちが聖務日禱をうたっていた。(私はどうしてあそこにいないのだろうと考える。何が私をこの静けさ、平和から遠ざけているのだろうか)。
人生は、どうしても妥協するわけにいかない本質的に大切なものがすこしと、いいよ、いいよ、そんなことはどっちでも、で済むようなことがどっさり、とでなりたっていて、それを理性でひとつひとつ見きわめながら、どちらかをえらんでいくものだ、といった生き方を、あらためて、彼女のなかに見た気がしたのだった。
庭の木立の最後の蝉が鳴きやむころ、だれがが明りをともすと、家に夜が来た。
イタリアの作家カルヴィーノは、こんなふうに書いている。
「古典とは、その本についてあまりいろいろ人から聞いたので、すっかり知っているつもりになっていながら、いざ自分で読んでみると、これこそは、あたらしい、予想を上まわる、かつてだれも書いたことのない���品と思える、そんな書物のことだ」
「自分で読んでみる」という、私たちの側からの積極的な行為を、書物はだまって待っている。現代社会に暮らす私たちは、本についての情報に接する機会にはあきれるほどめぐまれていて、だれにも「あの本のことなら知っている」と思う本が何冊かあるだろう。ところが、ある本「についての」知識を、いつのまにか「じっさいに読んだ」経験とすりかえて、私たちは、その本を読むことよりも、「それについての知識」をてっとり早く入手することで、お茶を濁しすぎているのではないか。
相手を直接知らないことには、恋がはじまらないように、本はまず、そのもの自体を読まなければ、なにもはじまらない。
フォトロマンゾや小説類はむさぼるように読んでいた姑だったが、映画俳優や王家の人たちやプレイ・ボーイの写真がたくさん載っている、鉄道官舎の彼女の隣人たちがまわし読みにしているたぐいのスキャンダル雑誌を、彼女はけっして読まなかった。ほんとうのことかもしれないような話は、うそかもしれないから、おもしろくないのよ、といって。
ローマに留学したとき、父からとどいた小包は、岩波文庫の『即興詩人』だった。「この中に出ている場所にはみんな行ってください」という、ほとんど電報のような命令がページにはさんであった。
「島はまた、孤立と静寂の場所、少なくともそれらの性質を期待される場所である。みずからすすんで、あるいは人びとの望みに従って、姿を隠す必要のある人間は、同類相集って、特定の島におもむく。死者はサン・ミケーレへ行く。…死者と並んで、わが身の隔離を求めるーあるいは求められるー人種といえば、修道士と、病者と、兵士である」
矢島翠『ヴェネツィア暮し』
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ミラノで生きた須賀敦子の丁寧な日常を描いたエッセイ集。随所に大切な人々との死別や、ぐさりとくる呟きが粛々とした温度で語られる。
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究極の自己完成とは、私たちの内部にある、異なった可能性のすべてを、忍耐ぶかく伸ばしてやる、複雑な作業なのだということを思い出させてもくれる。「インド夜想曲」と分身 1991•6
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教養があって、知識があって、文章を書ける人っていうのは、対象がヒトでもモノでも街でも概念でも、自分以外のものをずっと見つめて煮詰めて考えられる人であるのだろうから、私が求めているというか幻想する種類の優しさや寂しさを持ってるのかなあ。まあそんなお洒落な階層に自分はいないので分からないんだけど。
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素敵な人たちが皆、読んでいる須賀敦子さんの本。いつか読もうと思っていて、遂に読む機会が得られました。素敵な世界観のある方の文章。ただ、今の私にはしっくりこなかったな。
「きらめく海のトリエステ」「塩一トンの読書」は印象的だった。
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須賀敦子による16篇のエッセイを収めたもの。全てどこかで読んだことのある文章。それは、当然。わたくし、(全巻ではないけれど)須賀敦子全集、持っているもの・・・。
再読とはいえ、「あ、これ知ってるからいいや」とはならない。何度でも読みたいと思わせる須賀敦子さんの文章は、しんと心に入ってきて、なんだかさわさわして落ち着かない気持ちを、一旦静めてくれた。
今回は、「ある日、会って・・・」が特に印象に残った。これは、全集の第一巻に収録されているらしいのだが、実はあまり覚えていなかった。ある家族との束の間の時間の共有を楽しむ須賀敦子さんの目がとても優しいな、と思うと同時に、この須賀敦子にこんな風に思われる、このただの行きずりの家族の品の良さに心を奪われた。
須賀敦子の文章が好きなのは、言うまでもないとして、どうしてここまで須賀敦子の本を求めてしまうのか。池内紀さんの解説に、なるほど、と手を打った。曰く、「彼女は、未来のあるべき女を先どりしていたような気がしてならない。」と。そうだ、あの時代に、ひとりの女性として、凛と生きた彼女を、同じ女性として尊敬してやまないのだとわかった。
あらためて須賀敦子さんが歩いたイタリアにも行ってみたい気がした。