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死の不安に向き合う 実存の哲学と心理臨床プラクティス みんなのレビュー
- アーヴィン・D.ヤーロム (著), 羽下 大信 (監訳), 上村 くにこ (訳), 饗庭 千代子 (訳), 宮川 貴美子 (訳)
- 税込価格:3,300円(30pt)
- 出版社:岩崎学術出版社
- 発売日:2018/06/04
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2018/08/05 18:01
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これまでのセラピストは、誰一人として、彼女の死の恐怖が強烈である理由や、そのことがこれまでずっと続いている理由を考えてこなかった。よく起きるこうした間違いには、古い歴史がある。その源は、心理療法に関わる最初の本、フロイトと部路医あーの共著『ヒステリー研究』にまで遡る。この本をよく読むと、フロイトの患者たちの生活には、死の恐れが充満していたことがわかる。彼が、この死の恐怖のテーマにどうして踏み込むことができなかったのか、一見不可解に見える。が、後期の著作を読むと、その理由がわかる。フロイトは神経症の起源が、さまざまな無意識的、原初的な衝動間の葛藤にあるという仮説に大きく依拠している。そ して、「死は神経症の形成に何の役割も果たさない。死は無意識内ではどんな表象も持っていないからだ」と言い、その理由を二つ挙げる。一つは、「死は個人として体験することはできない」こと、次は「われわれは自分の非在をじっと見つめることはできない」ことである。
私がいつも学生たちに言うのは、クライエントが自分はよくなってきたと言う時、その背景を理解することは、悪化をもたらしたものを理解するのと同じくらい大事だ、ということである。
その揺り籠は深い淵の上で揺れている。誰もが知ることだが、われわれの一生は暗闇という二つの永遠の間をよぎる一瞬の閃光にすぎない。この永遠は二つながら同じはずなのだが、人は当然のことながら、(毎時およそ4500回、心臓を鼓 動させながら)今、自分が向かっている深淵よりも、生まれる前の方を心静かに眺められる。
―「記憶よ、語れ」ウラジミール・ナボコフ
バーバラは母のお墓の除幕式のために墓地を訪れた。その時には、また違った波及作用を体験した。たくさんの親族の墓が並ぶ中で父母の墓の前に立つと、気が沈むどころか、心の底からの救いと、魂に光が注ぐのを感じた。どうしてなんだろう?彼女にわかったのは、言葉にするのは難しいが、あえて言うなら、「あの人たちにできるのだったら、私にもできる」ということだった。彼女の先祖の人たちは、死んでいても、彼女に相当なものをもたらしたわけである。
セラピストとしての私の利点は、一人の個人から別の人へと受け渡され、静かで、耳には聞こ えず、触ることもできず、そうとはわかりにくいものについて、非日常的で特別な観点から書くことができることだ、と思うからである。
『ツァラトゥストラはかく語りき』で、ニーチェは一人の予言者、老賢者を描いた。彼は山の頂から下ってきて、自ら学んだことを人々と分かち合おうと決意する。
彼が説く思想のすべてには、自らが「最高の力を持つ思想」と考えている―永劫回帰という思想が偏在している。ツァラトゥストラは、こう言って挑んでくる。もしあなたがまったく同じ命を繰り返し、未来永劫まで生きるとしたら、そのことであなたが代わるところはどこだろうか?と。次に引いた、身も凍るような言葉は「永劫回帰」の思想について彼が初めて書いたものである。私はよくこれをクラ イエントに朗読してきた。読者も声に出して読んでみてほしい。
ある日、あるい���ある夜、あなたがこれ以上ない孤独の中にある時、悪霊が忍び寄ってきて、こう囁く。「お前は、お前が現に生き、そして生きてきたその自分を、もう一回、そしてそれ以降も、無限に繰り返して生きねばならない。そこには何ひとつ新しいものはない。あらゆる苦痛と喜び、あらゆる思念とためいき、お前の人生のありとあらゆるものが細大漏らさず、そっくりそのままの順序で戻ってくるのだ―この蜘蛛も、梢から洩れる月光も、そして今のこの瞬間も、この悪霊のおれ自身も。存在という永遠の砂時計がそのたびに上下ひっくり返される。お前もその砂の一粒と同じなのだ!」。これを聞いたあなたは、地に倒れ伏し、歯 軋りをして、そんなことを言った悪霊を呪うのではないか?あるいは、彼に向かって、「あなたは神だ、こんな神々しい言葉は、一度たりとも聞いたことがない」と答えてしまう、それほどの超越的な瞬間を経験するのだろうか。もしもこのような思想があなたのものになったとしたら、それは今のあなたを変えてしまうか、そうでなければ、たぶん、あなたを押し潰してしまう。
―『華やぐ智慧』第四章「聖なる一月」341番
同じ人生を繰り返し永遠に生きると考えてみること。この作業は、動揺を引き起こしうるという意味で、いわば小さな実存的ショック療法である。それはしばしば自分を静める一種の思考実験として役立つ。自分は本当に生きているのかを見直すことに導かれるからである。未来のク リスマスの幽霊(クリスマス・キャロル)のように、それは、この生、他ならぬあなたの生を、満足いくよう十分に、できるだけ悔いが残らぬよう生きられるべき、という覚醒を促す。ニーチェはこうして、些事にかまける私たちに生きる活力を蘇らせる案内人となってくれる。
自分が満足に生きられないのは他人のせいだと考えているかぎり、その人の人生には何の変化も起きないだろう。
100年前、ウィリアム・ジェイムスは「これ以上はない残酷な罰があるとしたら、身体的なものは別にして、人がいつの間にかその社会に追い込まれ、しかもそこのメンバーから完全に無視され続ける、といった事態なのではないか」と書いている。
私がこの方法(「ありがとう訪問」)に出会ったのは、マーチ ン・セリグマンのワークショップで、彼はポジティブ心理学の推進者としてよく知られている。私が憶えている限りでは、彼はたくさんの参加者に向かってこんなふうに言った。
「まだ存命の人で、あなたはその人にとても感謝しているんだけれど、まだ何も伝えていない、その人のことを思い浮かべてみてください。その人に、今から10分間で感謝の手紙を書いて、近くにいる誰かとペアになり、お互いに自分の手紙を相手に読み上げてください。このワークの仕上げは、あなたが近いうちにその方を訪問して、その手紙を恥ずかしがらずに読み上げることです」と。
セッションでは、手紙を互いに読み合った後、皆の前で手紙を読み上げる人たちが、参加者の中から選ばれた。読んでいる人は例外なく気持ち が昂ぶり、言葉を詰まらせていた。私はというと、こうしたセッションでは皆同じような気持ちの表出になると学んだ。このワークの場で深い気持ちの波に呑み込まれずに読み終えた人は、ほとんどいなかった。
人は繰り返し問う。もしもすべてが消滅する運命にあるのなら、生きる意味は何だろうか、と。この答えを、多くの人は自分の外に探そうとする。が、そうするのではなく、ソクラテスに従って、その視線を自らのうちに向けてみるのがいいだろう。
ジルは長い間、死の不安にとらわれていて、死と無意味さとを、いつも同列に扱っていた。私がこうした考えの由縁を尋ねたところ、彼女はそれが最初に表れたときのことを鮮明に覚えていた。彼女は眼を閉じたまま、そのシーンを描き出してくれ た。彼女は9歳で、玄関の車寄せに置かれた揺り椅子に座っていた。飼っていた犬が死んでしまい、悲しみでいっぱいだった。
彼女は、こう言った。「その時に、わかったんです!私たちは皆、死ななければならない。だとしたら、ピアノのお稽古も、ベッド・メイキングが上手にできることも、皆勤賞の金シールも、何もかも意味ないじゃない。金シールが全部消えてしまうんだったら、それって何なわけ?って」
私は、こう言った。「ジル、あなたには、今も9歳の女の子がいて、その子が、こんな風に訊いてみるのを想像してみてくれないかな。もしもね、私たちがいずれ死ぬんだったら、どんなふうに、そして、何のために生きたらいいの、って。あなたがそれに答えるとしたら、どんなふうになる?」
彼女は即座に、こう答えた。「私なら、彼女に、生きている喜びがいかにたくさんあるか、森の美しさ、友人や家族と一緒にいる楽しみ、それから、他の人に愛を届け、この世界をよりよい場所として残す喜び、そんなことを伝えてみたいな」
彼女はそう言ったあと、椅子に身を預け、そして眼を丸くしながら、「これって、どこから出てきたわけ?」と言わんばかりに、自分の言葉に驚いていた。
そこで私は、自らを充足させるというテーマを持ち込んでみた。たとえば、彼の中で未だ表には顕れていない隠れた部分はどこか、彼の白昼夢はどんなものだったか、子どもの頃に大人になったらどんなことをしていると想像していたのか、これまでにやってきたことの中で自分を一番満足させたのは何か、な どである。
彼が恐怖の只中にいたのは当然のことだった。つまり、彼は人生を自分のものとして生きてこなかったがゆえに、あまりにも死を怖れていた。幾多の芸術家や文学者が、こうしたときに味わう気分をさまざまに表現してきた。ニーチェの「ちょうどいい時に死ね」から、アメリカの詩人、ホイッティアの「口やペンの先に乗せられた悲しい言葉の中で、もっとも悲しい表現は、『○○だったらよかったのに』というものである」にまで広がっている。
ふだんの父は物静かでやさしい人だったから、このあまりにも異様なコントロール喪失は、ものすごく大きく恐ろしげな怪物みたいなのが、そこに現れたのだとわかった。私より七つ上の姉は、そのとき家にいたはずなのに、このことは何も憶え ておらず、私の記憶にはない別のことを、あれこれ覚えていた。これは、抑圧の力によるものである。その絶妙な選択の過程―人が何を記憶し、どこを忘れるかを決定する―は機械的で、その結果、われわれ一人一人が独自の世界を創り上げる際の構成要素となる。
私は、自分がよくぞセラピストになったと思う。人が自分の���生へと開かれていくのに立ち会うことは、言いようもないほど満たされた気持ちになるからである。
私は、年を重ねるほどに過去がそれまでより大きくなることに気づいた。―ディケンズは、この章の冒頭にあるような、とても見事な表現で、このことを書いている(「というのも、人生の終わりが見えてくるほど、弧を描きながら、私はどんどん出発点に戻って行く。その道筋 はある種、穏やかで、また、あたかも予定されていたかのようだ。そして今、長らく記憶の底に沈んでいたあれこれが蘇ってくると、私の心は感激に震える。「二都物語」)。彼が示唆したようなことを、たぶん私はしているのだろう。出発点に戻っていく円を完成させ、自分という物語の粗雑な部分を均し、私を創ってきたものすべて、私がこうなってきたことのすべてを抱き取る、という作業を。
私は人間だ。だから人間のことで私に無縁なものなどない。―テレンティウス
実存的アプローチは数ある心理療法の一つで、そのどれもが、人間の絶望に関わるものという点で存在理由がある。実存的心理療法の立場では、自分を苦しめるものが生じるのは、人が自らの存在と向き合うゆえだとする。それ は何からやってくるかというと、①生物学上の遺伝(精神薬理学モデル)、②抑圧された欲動のせめぎ合い(フロイト派の立場)、③子どもにまったく関心を向けない神経症的な大人の内在(対象関係論の立場)、④有効に機能しなくなった思考(認知行動論の立場)、⑤想起できないトラウマの断片、また、⑥自分の仕事や重要な他者との関係がもたらす今現在の人生の危機などを想定する。
つまり、実存的心理療法の土台には、これらの絶望をもたらすものに加え、人間の条件―存在という「与えられたもの」―と直面することが不可避であるところから苦悩はもたらされるとする考え方がある。
クライエントとともにするその作業では、他の何を措いても、私は両者の関係を創り出すことに全力を注ぐ 。この目的のために、私は以下のような信念で行動することにしている。制服やその職業特有の服装は不要。卒業した大学や専門の資格、もらった賞はひけらかさない。知ったかぶりをしない。自分にも実存的ジレンマがあることを認める。質問には必ず答える。自分の役割に逃げ込まない。そして、自分の人間性や傷つきやすさを隠さない。以上である。
種種のアイデアは面接関係が安定している時にのみ効果的に働く。
私は少なくともそのセッションに一回は、<いま、ここ>を確認することにしている。時にはこんなふうに言う。「そろそろ終わりに近い。そこで、私たち二人は、今日はどうだったかに目を向けてみようか。今日この場は、どんな感じだったかな?」とか、「今日は、私たちの間の 距離はどれくらいかな?」と。そんなふうにしても、特に何も起こらないことも在る。ただ、たとえそうだったとしても、このように誘うことで、私たちの間に起きていることは、そのどれを取り上げてもよいというルールができる。
私が訓練生に言い続けているのは、あなたたちが使うことのできる唯一の道具は自分自身であり、それゆえ、その道具は磨き上げておくべきだということである。
彼女が親密さに怖れを抱い���いるのがすぐにわかった。彼女は私の目を見て話すことはほとんどなく、二人の間にはまだまだ距離があった。この章のはじめに、クライエントの駐車の仕方には意味があると書いた。今までのクライエントの中で、アメリアは一番遠くに駐めていた。
「私のかかっていた歯 科医がビンにいっぱいヴァイコディン(代用ドラッグとして使われることもある鎮痛剤)を処方した話の時に、先生はその薬を自分に渡すよう、すごい勢いで言ってくれましたね。転がり込んできたお宝を、みすみす手放すと思いますか?その時のセッションの終わりで、私が部屋から逃げ出そうとしたら、私の手を掴んで離しませんでしたよね。言いたいのはこのことなんです。あなたは、ヴァイコディンを渡すか、面接をやめるかの最後通牒を突きつけて、面接を危うくしたりはしなかった。それにとても感謝している、そのことです。他のセラピストだったら、そうしてしまったでしょうね。そしたら、たぶん私は面接をやめたと思います」
「それを言ってくれてほんとうによかったよ、アメリア。心に響い た、感動したよ。で、いまの話をしていた間の最後の二、三分はどんな感じだった?」
「戸惑ってた、それだけよ」
「そう?」
「どうぞ馬鹿にしてくださいと言っているみたいなものだから」
「そんな体験があったわけ?」
彼女は、小さかった頃や10代の頃に馬鹿にされた出来事をいくつか話した。しかしそれは、私にはそれほどのものとは思えなかった。それで、この戸惑ってしまう気持ちは、暗いヘロイン時代があるからなのではないかと投げかけてみた。ほかのことでも同じだが、ここでも彼女はそうだとは認めず、この困惑は薬物を使い始めるずっと前からあったと言った。それから、彼女は顔を上げ、真剣な顔つきで、私をまっすぐ見て、「ひとつ訊いてもいいですか?」と言った。
ぐっ と注意を引きつけられた。彼女が、これまでそんなことを言い出したことはなかったからだ。何を言い出すかまったく予想がつかないまま、待った。こんな瞬間を待っていたのだ。
「すぐに返事してもらえるかわからないけど、言ってみます。いいですか?」
私は頷いた。
「私をあなたの家族の一人と思ってもらえますか?家族って、もちろん実際に、っていう意味ではないですけど」
私はしばらく間を置いた。正直に、自分の気持ちを基にして答えたいと思ったからだ。私は彼女を見た。彼女は顔をまっすぐ上げ、いつもは逸らすのに、その瞳は私をじっと見ていた。額や頬のつやつやした褐色の肌は今さっき磨かれたかのように輝いていた。私は自分の気持ちを十分に確かめ、そして言った。「アメリ ア、僕の答えはイエス、だよ。君は勇気ある人だ。それに魅力的だ。困難を乗り越え、そしてそのあとに君が果たしてきたことに、最大の敬意を捧げるよ。だから、そう、君が僕の家族になるのを歓迎するよ」
アメリアの目には涙があふれていた。彼女はティッシュ・ペーパーを手に取り、心を落ち着かせようとしてか、少し横を向いた。ややあって、こう言った。
「もちろん、職業上そう言わなければならない立場ですものね」
「そんなことを言って、また僕を遠ざけているのがわかるかい。急に近い感じになって、落ち着かないか��?」
このセッションは、こうして終わった。外は土砂降りの雨だった。彼女はレインコートをかけた椅子に向かった。私はレインコートを手にとって着せようとした。す ると彼女は尻込みして居心地悪そうにして言った。
「ほらね。そうやって私を馬鹿にするでしょ」
「アメリア、全然、そんなことじゃないよ。ただ、それを言ってみるのが大事だからね。どんなことでも、言葉にすることがね。君の、その正直なところがいいな」
ドアのところで彼女は振り向いて言った。
「あなたとハグしたいわ」
今までにないことだった。彼女がそう言ってくれたことが嬉しく、ハグした。体は暖かで大きかった。面接室を出て階段を降りる彼女に向かって、私は声をかけた。
「今日はよくやったね」
階段を降りて砂利道に出た彼女は、振り返らず、肩越しにこう言った。
「先生もよくやったわ」
夢は、大部分が圧倒的に視覚優位であり、心の機能は、その視覚イメー ジをなんとかして抽象的概念に変換しようとする。この特徴を覚えておいてほしい。こうして、面接は、まるで一回の旅であるかのごとく、また、誰かの家を修繕するかのように、さらには、自分の家の中でもまったく使われていない、未知の部屋を発見する作業でもあるかのように、しばしば映像を伴って語られる。たとえばエレンの夢では、私のオフィスのトイレで、彼女の経血で衣服に染みができるといった形を取って、彼女の恥ずかしさの感覚が表されていた。また、私への彼女の不信感は、私が彼女を無視し、助けに行かず、そして誰か他の人との話しに忙しいことに表されていた。
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