投稿元:
レビューを見る
いやー、ナンだかよく分からんが
すっごいビックリした読書体験だった。
キリスト教において
まさか「人間の神化」なんて、そんな考え方が出てくるなんて、思わなかったから。
今、ウクライナ戦争が続いてるからさー
プーチンの政策の背景にあるもの、たとえばロシア人の歴史観とか、プーチンの大好きなドストエフスキーの思考法とか、ロシア正教のこととか、関連する書物を読んでいたときに、このパラマスの思想にたどりついたワケなんだけど
カトリックとか、プロテスタントの考え方とは、かなり大きく違っているのに驚いた。
そもそもオレは、ロシア正教やギリシア正教のこととか何にも知らないときから、聖書の言葉の中に、それも、たしか旧約聖書だったと思うんだけど、「人間の神化」の思想を取り出して、それを、バチカンから来日したイタリア人の宣教師に、直接質問してみたんだけど、まったくバカげた考え方だといわんばかりに退けられたからね。
たしか、聖書のその部分の、日本語訳で読めば、「人間の神化」として読めるかもしれないけど、原文のヘブライ語で読めば、まったく、そうは受け取れない、というような答えだった。
あー、そーなんだ。人間の神化なんて思想は、まったく成立しないんだー、って、その時は思ったんだけど、まさか、東方教会の中に、このような考え方があったとは・・・・・・。
たしかにこれは、ユダヤ教徒が見たら、ブチ切れるような話だし、イスラム教徒が見ても、正統的なプロテスタントの人が見ても、ブチ切れると思うんだけど・・・。
グレゴリオス・パラマスと、バルラアムの、バッチバチの論争の熱量が伝わってくるんだけど、アトス山の修道士たちの祈りに、異端的な臭いを嗅ぎ取ったバルラアムの気持ちも、分からんでもないんだよね。
うううーん・・・・・・これは、はじめてマイスター・エックハルトの『神の慰みの書』を読んだ時とか、『トマスの福音書』を読んだ時、そしてあの、まったくワケの分からないヤコブ・ベーメの本を読んだ時、もっと言えば、はじめてルターの『キリスト者の自由』を読んだ時の、吹っ飛ばされるような衝撃に、ちょっと近いものがあった。
----------------------------------------------
パラマス 1296年頃-1359年
005
修道士の無知が告発されている。
修道士も、キリスト教以外の学問をすべきであると言われることについての疑義
008
1.言葉は何も証明できない
009
いったい誰が、言葉によって、言葉を超える善きことを示しうるのであろうか。
2.真の知恵は世俗のそれではない
029
12.光と闇
032
13.律法と恵み
042
19.存在するものは、それ自体として悪ではない
053
『伝道の書』
知識の増加に、苦痛の増加が付き従う
056
第2回答
1.身体はそれ自体としては悪ではない
079
パラマスの論敵、バルラアムが嘲笑する
117
この光���神的なものであり、聖人たちによって神性と言われたのは、正しいこと。
それは単に神性であるのみならず、神化そのものであり、神性の根源である
123
27.神的な光は感覚的ではない
124
28.造られざる光は存在するものに勝る
179
14.論争の火付け役、バルラアム
183
17.バルラアムの誤り
191
22.新しいプラトン主義
204
33.修道士と世俗の学問
209
36.バルラアムの誤り
218
43.真の知恵はキリストにあり
もしあなたたちがモーセを信じるのなら、私をも信じるのである
ヨハネ5:39
神の掟を守ることに寄ってそれを自らのうちに所有する者は、聖書の学問はもはや必要ではなく、それがなくても、すべてを正確に知り、洗礼者ヨハネやアントニオスのように、学問に従事する者の信頼しうる師となろう。
231
9.霊から生まれた者は霊である
236
12.身体の神化
262
第3論攷
聖なる光について
276
10.光は天使ではない
277
11.光は「霊の本質」ではない
279
12.神の本質でもない
291
20.神の光は象徴ではない★★★
298
見えざる神を見ることは不可能であろう
328
49.否定神学は一つの言説にすぎない
331
52.神を通して神を見る
54.モーセの見神
378
3.バルラアムの考えは「フィリオクエ」に至る
379
霊は「子から」与えられる、とか、「子を通してわれわれに注がれる」ということを聞くとき、
つまり恵みではなく、聖霊そのものが、御子から送られ、御子を通して注がれるからである。
381
5.バルラアムは正教徒か
389
11.この光は象徴ではない★★★
395
15.永遠の光
398
17.キリストに固有の光
421
34.神化は至るところにある★★★★
キリストは
「満ち溢れる神性を受け取り」
コロサイ2:9
「われわれはみな彼の満ち溢れる豊かさから受けた」
ヨハネ1:16
神の本質は至るところにある
428
39.真実の光の父
かの永遠の生命のことは語るが、光のことは語らないと誰が言うであろうか
457
20.力は永遠であること
477
8.神化された人間は本性上の神ではない★★
----------------------------------------
解説
489
三位一体論にかかわる「聖霊の発出」に関しては東西教会で大きな論争があった
西方教会がキリスト教の主流であると理解されているかもしれないが
教義の確定やその他の重要事項の協議に関して、東方教会は、常にその主導的役割を担ってきたのであり、
西方はかなりの期間それを受け取る立場であったことを思い起こす必要がある
本書は
東ローマ帝国(ビザンティン帝国)後期に、テサロニケの大主教であったグレゴリオス・パラマスの主著ともいうべき
『聖なるヘシュカストたちのための弁護』三部���の全訳である。
パラマスは、若い時に、アトス山で修行し、晩年テサロニケの大主教を務め、没して後、ギリシア正教会の聖人に列聖された。
南イタリアからコンスタンティノポリスにやって来て、ビザンティンの宮廷で重用されたセミナラの
バルラアム(1290頃-1350年)という学者が、
アトス山の修道士たちは神を見ると聞いたことが原因となり、
目に見えない神を見るという発言は、たんに無学な修道士の素朴な感動的発言という枠を越えて、かつての異端、メッセリア派の残滓があると判断した。
そこで、彼は、こうした祈りに励む者たちを異端の簾(かど)で告訴したのである。
これに対し、アトス山の修道士たちの祈りはけっして異端的なものではないと抗弁したのが、パラマスのグレゴリオスであった。
両者の間で論争が始まり
しかもビザンティン宮廷の勢力争いも抱え込み
複雑で、聖俗あわせた争いに発展し
パラマス自身も、情勢次第で、異端として退けられたり、また復権したりした。
しかし、最終的には
政治的な要素も作用して
パラマスの論がビザンティン教会では正統とされ
逆に、バルラアムは排斥され、ビザンティンを去った。
このパラマスと、バルラアムの論争は
フェリゴスによれば
三位一体論にかかわる、聖霊と父と子からの発出(いわゆるフィリオクエ)問題とヘシュカスム(祈りの方法やその意味、など)をめぐる問題に分かれるとされる。
そして本書は
後者の問題を主として扱っている。
493
ギリシア哲学に対するパラマスの判断は厳しい。
494
キリスト教の出発点において、キリスト教の思想的基盤は東方世界において気づかれたものだと言って良い
つまり西方世界は、その時点では、キリスト教の後進地域であり、すでに確立していた東方世界における数々の神学的営為の上に立って、西方世界のキリスト教は出発した。
495
本書においては
一般に東西教会の齟齬として挙げられる、三位一体論での「フィリオクエ」の問題は、それほど表面化していない。
498
人間神化にまつわる問題
東方の修道院霊性において、「人間の神化」は非常に重要なテーマである。
この思想は突然現れたものではなく、遠くギリシア人たちや地中海世界の民族に広く分布していた。
これは、イスラエル-ユダヤ教の思想的環境では考えることのできない思想である。
有名な
アタナシオス(296頃-373年)の
「神のロゴスが人間になったのは、われわれが神となるためであった」という言葉は
受肉の重要さ、神の無限の愛を説明する過程で生まれた言葉である。
499
バルラアムは、神化を、象徴的な意味において理解しようとし、
象徴ではないと言うパラマスに、どこまでも意を唱える。
パラマスとしては、象徴としての神化を捉えるのであれば、神化を語ること自体は無意味なことであると考えている。
神化に関するポイント
a.光
パラマスは、神化に伴う光は、われわれの目に見える物理的な光のよ���でありながら、実はそれを超えるとも言う。