紙の本
生みの苦しみ
2022/02/04 06:37
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投稿者:HR - この投稿者のレビュー一覧を見る
内容については他のレビュアーの方々が書いてくださってる通りです。あくどいユーモアに満ちたメタフィクション小説の傑作で、ゲラゲラ笑いながら読みました。言葉を選ばず言いますと、自分でもクソだと分かっている小説を生活のために書き続けなければならない大衆作家の苦しみを、エッセイ的なものではなく小説そのものとして書いているところが画期的で、最高でした。ぜひお試しあれ。
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『伝説の作品』が邦訳。
装丁からも『国書の本』オーラが漂っているが、内容も『奇書』としか表現出来ないものだった。こういうの、邦訳出してくれるのはホント国書刊行会だけだなぁw それ以外に可能性がある版元は……河出書房新社?w
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ポルノ小説のゴーストライターがスランプに陥り、延々と第1章を書き出しては諦め、脱線し、煮詰まるという変わった小説。全然話は進まないが、こんな小説を読んだことがないのでどんな展開になるのかが予測できず、面白くて止まらなくなる。
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変な本だなあ。1970年作。矢口誠さんって人はかなり読みやすく訳してると思うが、自分には軽すぎる気がする。当時の雰囲気がもっと欲しかった。
ポルノ小説家のゴーストライターがスランプで思うように書けない中、妻娘が出て行く。多分自分で書きなぐった文章を良くない方に受け取ったから。書けなくて身近な人達を題材に色々空想してたのに、真実とはまた違うのに。
あまりの書けなさ(完成しない自分語りはずっとタイプしてる)に息がつまりそう。
自分はメタフィクションの仕掛けや面白さがわからない人間なんだと思う。もっと理解できる人に読んでもらおう。
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帯の惹句に「半自伝的実験小説」だとか「私小説にしてメタメタフィクション!」だとかいう文句が躍っているが、スランプに陥った小説家が何とかしてページ数をかせぐための苦肉の策じゃないか。しかも、ネタは自分の旧作からの引き写しだし。これが新作だったらかなりの批判が予想されるが、原作が刊行されたのが一九七〇年であることを考えると帯の惹句も満更、盛り過ぎというわけでもない。
エドはけっこうなハイペースで、ここまでは書いて来た。しかし、締め切りが近いのに突然書けなくなってしまう。スランプだ。しかし、エドにはスランプなどという言い訳は使えない。エドはゴースト・ライターなのだ。書けなければ代わりはいくらでもいる。妻子のいる今、実入りのいい仕事を失うわけにはいかない。
この仕事は大学時代のルーム・メイトのロンからの話だ。ロンはポルノに嫌気がさして、スパイ小説を書きはじめたら、これが売れて映画化もされた。この路線で行きたいが、ポルノの需要は絶えずあり、出版社としては人気作家の作品がほしい。そこで、大学時代の同期で売れていないエドにゴースト・ライターにならないか、と持ちかけたわけだ。
タイプライターに用紙を挟み、いざ書こうとするのだが、何も出てこない。スランプを克服するいい方法は、何でもいいから書くことだ。そのうちに調子が戻ってくる。そう聞いたので、エドはとにかく書き出すのだが、タイプ用紙に打ち出されるのはエドの現在の心境やら、ポルノ小説のセオリーやら、最近うまくいっていない妻ベッツィーとの関係といったポルノ小説とは関係のないことばかり。
この小説には上と下に二つのノンブルが打たれている。タイプ用紙二十五枚が完成原稿二十五ページに相当する。一章が二十五枚で十章書けば完成だ。しかし、二十五枚書けたところで原稿を破り捨て、はじめからやり直したりするから、下に打たれているこの小説のページ数は増えていくのに、上に打たれたノンブルはいっこうに数が増えていかない、という面白い仕掛け。いや、面白いのは読者にとってであって、主人公にとっては厄介のたねだ。
そんなこんなで七転八倒の挙句、どうにか第一章は書き上げるのだが、そのネタというのが、エド自身と妻ベッツィーをモデルにした身辺小説。実はエド、ポルノ小説は書いていても、妻以外の女性とセックスしたことがない。しかし、その分、頭ではいろいろ妄想している。一応作家なので妄想したことは書いて残している。ベビーシッターの十七歳のアンジーとのことも。実名なので日記みたいなものだ。しかし、すべては妄想であり、真実ではない。
ところが、エドの留守中にベッツィーがそれを読み、エドの帰りも待たずに子どもを連れて実家に帰ってしまう。実家には恐ろしい義兄二人がいて、話を聞いてエドの家に押しかけてくる。エドは這う這うの体で家を逃げ出し、ロンの部屋で原稿の続きを書く破目に。しかし、第二章が書けない。ポルノ小説でよく使う手に、章ごとに夫と妻の視点が入れ替わる、というのがある。それで行くと第二章はベッツィーが他の男とセックスをする番だ。今の状態でとてものことにそれは想像すらしたくない���
そこで、第二章を飛ばして第三章を書きはじめることにする。別の男女を次々とリレー式に登場させるロンド形式で行くわけだ。しかし、エドの家に探りを入れに行ったロンからの電話では、兄弟がこちらに向かっているらしい。慌ててロンの家を出たエドにはタイプがない。エドは百貨店のタイプ売り場で試し打ちをする客を装い、原稿の続きを書く。しかし、店員に見咎められ別の百貨店へ。
いつの間にか、エドが書いている話より、エドが置かれている状況の深刻さの方が数倍も興味深くなってきている。未成年のアンジーとのセックスは、ただの妄想なのだが、エド以外の人間にとっては犯罪である。警察がエドを追いかけ出す。追いつめられたエドは逃げ回りながら、タイプライターが使える場所を探しては、原稿の続きを書く。ここらあたりからの展開はジェットコースタームービーを観ているよう。
唯々、決められた枚数のタイプ用紙を埋めるために書き続けること、それが作家というものの至上命題であることが痛いほど伝わってくる。どうやら、元ネタになっているのは、ウェストレイク本人の実生活らしい。「半自伝的実験小説」、「私小説にしてメタメタフィクション!」の看板に偽りはないようだ。多作で知られる「ウェストレイク全作品の中でも大傑作に属する私小説にしてメタメタフィクション!」と若島正氏が絶賛するのも頷ける。
というのも、ネタに困ったエドがついつい持ち出す自身の逸話がいちいち思い当たる。大学に行ったのも、結婚せざるを得ない破目に陥ったのも、そこいらじゅうに転がっている、誰にでもある話だからだ。ゴーストだってライターであることにちがいはない。読者は面白がっているのだ。しかし、書いている本人は知っている。真の作家とそうでない者との差を。妄想日記で窮地に陥るところは、本当に面白い。それでいて、当人の心情を語る部分を読んでいると身につまされる。このギャップが凄い。
キスマークの中に、サイケデリック調(死語?)のレタリングで記されたタイトルといい、表紙の色調といい、七〇年代を知る者には懐かしい限りだが、意気阻喪したホールデン・コールフィールドばりのモノローグで押し通す語り口調に今の読者はついてきてくれるのだろうか。「メタメタフィクション」といえば、そうにちがいはないが、ついてない男の駄目っぷりをユーモラスかつシリアスに描いた、遅れてきた青春小説といいたいような出来映え。ファンは勿論、その実力を知るという意味で、初ウェストレイクという人こそ手にとるべき本かもしれない。
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「毎月、十日で一冊書くんだ」と、ロッドはいった。「文法的に正しい手紙が書けるなら、ポルノ小説も書けるさ」。こんなふうに本書冒頭で説得されているのが主人公、エドウィンだ。ロッドは売れっ子作家なのだが、有名になる前に変名でポルノ小説を書いていた。その名前を一作あたり二〇〇ドルで貸してやるからゴーストライターとして働けというのだ。ガールフレンドを妊娠させて金に困っていたエドウィンだが、さすがに尻込みする。ところがロッドはポルノ小説には公式とシステムがあって、それさえ守れば年に一万ドルは楽に稼げるというのだ。
詰まるところこの本は、この申し出を受けて二八冊のポルノ小説を量産してきたエドウィンが、どうしても二九冊目を書けなくて七転八倒する話だ。ポルノ小説の定型は一章二五ページ、それが十章分で一冊。一章に必ずひとつはエロを入れる。一日一章ずつ書けば十日で仕上がる。エドウィンはその第一章を書こうとしているのだが、どうしても書けない。締切は日一日と近づいてくる。自分の代わりはいくらでもいる。書けなければ破滅だ。とにかく毎日タイプライターの前に座り、なんでもいいから二五ページ分書こうとあがく。ストーリーは、なかなか進展しない。だって書いてる本人がスランプだから。第一章をエドウィンは六回書き直す。それを読者は六回読む。本書は第一章が六つ、第二章が三つある、全部で二五ページ*十二章仕立ての小説なのだ。
本書の読みどころは「小説が書かれている過程をまさに読み手が目撃していくというスタイル」にある。もちろん、こうした小説の語り手が正直で信頼に足るという保証はまったくされていない。第一章をエドウィンが書き終わったときから物語は大きく展開して、そこから先は、ぐっとスピードが上がる。なかなか仕掛け的に凝った小説なので、メタ好きな人はかなり楽しめると思う。
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スランプに陥ったポルノ作家が締め切りまでになんとか作品を書こうとする話。第1章を書いては破棄し書いては破棄し、作品の登場人物が作者と徐々に重なりあいながら全体としてメタ化していくので、ちょっとした奇想小説でもあるけれど、もっとも語り手が信頼できない語り手として機能しているので、どこまでが本当でどこまでが嘘なのか判然としない。明らかに嘘をついている箇所も、嘘か本当か曖昧な箇所も見受けられる。そしてこれをミステリーととるか、ある種の私小説的な文学ととるかは読者に任されているのかもしれないけど、個人的には創作入門講座小説として楽しんだ。これはウエストレイクの実体験に負うところが多いのだろう。数々の作風を使い分けて大量の作品をものしてきた大御所にこんな実験的な小説があったことを知らなかった。たしかに彼の作品の中でも傑作の部類だろう。
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とても面白いんだが、え、もう終り、という感じ。出来事が出てこない、と言いながらそれなりに事件もある。書けなくても書けるプロの真骨頂。
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「ドナルド・エドウィン・ウェストレイクには、悪党パーカーシリーズがヒットする前にポルノ小説を書いていたことがあり、これに材を取った半自伝的小説がある」--たぶん、小鷹信光氏の紹介記事だったんじゃないかと思う。
そんなものがあるんならぜひ読んでみたいと検索してみたところ、職場の隣にある町の小さな図書館に置いてある(おお!)ことがわかり、さっそく借りて読んでみた。
--ポルノ小説のゴーストライター、エド・トップリスは29作目を書こうとして完璧なスランプに陥ってしまった。これまでにも締切り破りを重ねており、あと十日で書かないと今度こそクビになってしまう。なんとか捻り出そうとタイプライターを打ってはみるのだが、ストーリー展開に詰まり、言い訳を連ねたり、脱線して妻の愚痴を並べたり、ティーンエイジャーのベビーシッターとの妄想を書いてみたりと全然まとまりがつかず、延々と第一章を書き直し続けることになる……
1970年発表の作品である。
日本での出版が2018年であるので、実に48年目の訳出となる幻の作品だ。
1966年から1969年までにリチャード・スターク名義で悪党パーカーシリーズを12作発表しており、ウェストレイク名義でアメリカ探偵作家クラブ賞を受賞した「吾輩はカモである」は1967年、泥棒ドートマンダーシリーズ第一作「ホットロック」は1970年なので、既に売れっ子作家として活躍していた時期の作品となる。
ウェストレイクは、アラン・マーシャル名義で1959年から1964年にかけて28作のソフトポルノを書いたことを認めているが、同時に、アラン・マーシャルの名前を出版社に内緒で友人6人に貸したことも認めているので、エド・トップリスだけでなく彼をゴーストライターとして雇ったロッド・コックスもまたウェストレイク自身だったということになる。
本書が、私小説・半自伝的と評される所以だろう。
残念ながら、自分はこの作品をあまり楽しめなかった。
ノンブルがページの上と下に振ってあり、第一章を書き直すたびに上のページ番号が「1」から振りなおされる。
この仕掛けには“なるほど”と感心し、冒頭の何章かはニヤニヤとしながら読んではいたのだが、たぶん笑いのツボが違うのだろう、爆笑とまではゆかず、後半にトラブルが発生してからは「このあと、どうなちゃうの?」と思いはしたが、最後までなんの解決もみられなかったため、消化不良の感が残ってしまった。
まぁ、ミステリーではないのだから、文句は言えないのかもしれないが。
しかし、本作が駄作・無意味とは思わない。
自分にとっては、面白い作品というより興味深い作品だったというのが正確だろう。
おそらく本書は、その内容よりも書かれたことに意義がある作品なのではないだろうか。