紙の本
絶望の未来
2019/11/30 22:32
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ライサ - この投稿者のレビュー一覧を見る
前作たる「サピエンス全史」がサピエンスの過去から現在を記載したのに対し、このホモ・デウスでは現在から未来を語る。
大まかにまとめると「人は神になりたがる」から始まり、地球環境への影響、不死、幸福追求、神性。そして残忍さとサピエンスも動物である事を語っている
絶望しか感じないしそもそも動物と人類は違うのだと信じたい人、また陰謀論を語りたい人には受け入れられない内容であろう
まぁそこはいいとして地球温暖化を専ら(温度と関係しない)CO2からのみ語っているのだけはいただけない
そして面白い事に、前作は上巻のが面白かったが今作は下巻のが面白かった
紙の本
人類の未来に一石を投じる
2018/10/16 10:32
2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:たか - この投稿者のレビュー一覧を見る
深く考察しながら読み進めた。脳の働きを突き詰めれば、たしかにアナロジーにすぎなのかもしれない。だから不思議。われ思うゆえにわれあり
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下巻を含めた感想。
未来予測をする際に、今どうなっていて、かつてどうなっていたかを考えることは有効である。しかしながら、それをしたところで、実際にどうなるのかまではわからない。あくまで、予測の範囲内でしかない。
本書では、人間は未来、神になるだろうと予測する。
そして、何故そう考えるかを過去を振り返って説明していく。
1番心に残ったのは、人間を含めた生命は全てアルゴリズムで、「自分の考え」なんてもはや存在していない、ということだった。
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サピエンス全史と重複する箇所もあるが、そこは避けて通れないのだろう。興味深く読めた。特に宗教と科学に関する考察は納得できた。
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読むのをとても楽しみにしてました!
人間が20世紀に飢饉・疫病・戦争を単なる課題にした今、築かれつつある【人間至上主義】について迫る一冊です。
印象的だった文章
・ホモ・サピエンスが大勢で柔軟に協力できる地球上で唯一の種
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飢饉、疫病、そして戦争の三大災厄さえも克服しつつあるホモサピエンス。
では、その先には何が待っているのか?
至福、不死、神性を追い求め「ホモ・デウス」となる道のりでなにが起こるのか。それは平等に分け与えられるのか。
そもそも、人類のみが恩恵に浴するべきなのかー。
様々な問題提起がなされる重厚な序文に始まり、ホモサピエンスが世界を征服したいきさつやその妥当性(人類が特別であると果たしていえるのか?という問い)、
文字や科学が与えてきた影響を綴ったのがこの上巻。
・生き物はアルゴリズムで動いている
・人類初「よわいつながり」でも協力できるという点で他の種と一線を画している
・システムの特性により、たとえ誤りが含まれていても修正されづらい
など興味深い考察が散りばめられ、自分自身の脳も強い刺激を受ける。
下巻でどのような論が展開されるのか非常に楽しみである。
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下巻にて感想述べる、と思ったけど.....サピエンスほど分かりやすく面白いとは思わなかった。下巻を読む気力が.....
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これは読み応え十分。前著「サピエンス全史」が人類の過去の本質に迫るもので、本書は未来予測を試みるもの。地球の盟主に君臨した人類が次に欲するものは「不死・幸福・神化」であり、これを宗教やイデオロギー、科学、経済などの切り口から読み解き、予想する。ただ、「次なる大きな目標」の達成のためには、犠牲にしなければならないものも比例して大きく、一歩間違えれば悲惨なことになる(経済成長と温暖化抑制のジレンマなど)。一見両立が非常に難しい課題であり、下巻が楽しみ。
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『サピエンス全史』に続いて、人類の未来を予言していく『サピエンス全史』は、私たち『ホモ・デウス』はどこへ向かうのかを示していきます。
すでに人類は、飢餓と疫病と戦争を克服してきました。
過去に比べると、飢餓よりも食べ過ぎで亡くなる人が多く、ペストなどの大流行もなく、戦争も確実に減少してきました。
歴史を学ぶ目的も、大きく変わってきています。
過去から現在を知ることはすでに不可能になっています。
歴史を学ぶ目的は、未来を予測することではなく、過去から解放されるためなのだと説きます。
歴史を学ぶ目的は、私たちを押さえつける過去の手から逃れることにある。歴史を学べば、私たちはあちらへ、こちらへと顔を向け、祖先には想像できなかった可能性や祖先が私たちに想像してほしくなかった可能性に気づき始めることができる。私たちをここまで導いてきた偶然の出来事の連鎖を目にすれば、自分が抱いている考えや夢がどのように形を取ったかに気づき、違う考えや夢を抱けるようになる。歴史を学んでも、何を選ぶべきははわからないだろうが、少なくとも、選択肢は増える。 ー 80ページ
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「サピエンス全史」は人類の歴史に焦点をおいていたが、本書は人間の心について論じられている。難解なテーマだが、分かりやすい例えと流れるような文体で、サクサク読める。下巻も期待したい。
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以前は、富の主な源泉は、金鉱や麦畑や油田といった有形資産だった。それが今日では、富の主な源泉は知識だ。そして、油田は戦争で奪取できるのに対して、知識はそうはいかない。したがって、知識が最も重要な経済的資源になると、戦争で得るものが減り、戦争は、中東や中央アフリカといった、物を基盤とする経済に相変わらず依存する旧態依然とした地域に、しだいに限られるようになった。(p.26)
人間というものは、すでに手にしたものだけで満足することはまずない。何かを成し遂げたときに人間の心が見せる最もありふれた反応は、充足ではなくさらなる渇望だ。人間はつねにより良いもの、大きいもの、美味しいものを探し求める。人類が新たに途方もない力を手に入れ、飢饉と疫病と戦争の脅威がついに取り除かれたとき、私たちはいったいどうしたらいいのか?(p.32)
じつのところ、現代の医学はこれまで私たちの自然な寿命を一年たりとも延ばしてはいない。医学の最大の功績は、私たちが早死にするのを防ぎ、寿命を目いっぱい享受できるようにしてくれたことだ。(p.41)
ブッダによれば、私たちは心を鍛錬し、あらゆる感覚が絶えず湧き起こっては消えていく様子を注意深く観察できるようになれるという。自分の感覚の正体、すなわち儚く無意味な気の迷いであることを心が見て取れるようになったとき、私たちはそのような感覚を追い求めることへの関心を失う。湧き起こるそばから消えていくものを追い求めることに、何の意味があるというのか?(p.58)
歴史を学ぶ最高の理由がここにある。すなわち、未来を予測するのではなく、過去から自らを解放し、他のさまざまな運命を想像するためだ。もちろん、それは全面的な自由ではない。私たちは過去に縛られることは避けられないが、少しでも自由があるほうが、まったく自由がないよりも優る。(p.86)
私たちは普通、有神論の宗教は偉大な神々を神聖視すると考えている。だが、その宗教が人間をも神聖視していることは忘れがちだ。以前、ホモ・サピエンスは何千もの役者から成るキャストの一人にすぎなかった。それが、有神論の新しいドラマの中では、サピエンスが主人公になり、森羅万象がサピエンス中心に回り始めた。(p.117)
農業革命が有神論の宗教を生み出したのに対して、科学革命は人間至上主義の宗教を誕生させ、その中で人間は神に取って代わった。有神論者が神を崇拝するのに対して、人間至上主義は人間を崇拝する。(中略)有神論は神の名において伝統的な農耕を正当化したのに対して、人間至上主義は人間の名において現代の工場式農業を正当化してきた。工業式農業は人間の欲求や気まぐれや願望を神聖視する一方で、それ以外はすべて軽んじる。(中略)そのような慣行は、近年、人間と動物の関係を人々が見直し始めたため、しだいに批判にさらされるようになってきた。私たちは突然、いわゆる「下等な生き物」の運命に、今までにない関心を見せている。それはひょっとすると、私たち自身が「下等な生き物」の仲間入りをしそうだからかもしれない。もしコンピュータープログラムが人間を超える知能と空前の力を���得することがあれば、私たちはそのようなプログラムを人間以上に高く評価し始めるべきなのか?(pp.125-126)
進化は変化を意味し、永久不変のものを生み出すことはできない。進化の視点に立つと、人間の本質と呼べるものに最も近いのは、私たちのDNAだが、DNA分子は永遠不滅のものの座ではなく、変異の媒体だ。これに恐れをなす人は多く、彼らは魂を捨てるよりも進化論を退ける道を選ぶ。(p.134)
人々が信じなくなった途端に消滅してしまうかねないのは、貨幣の価値だけではない。同じことが法律や神、さらには一帝国全体にも起こりうる。それらは、今、せっせと世界の行方を決めていたかと思えば、次の瞬間にはもはや存在しなくなったりする。ゼウスとヘラはかつて地中海沿岸では絶対的な力を誇っていたが、今日では何の権威も持たない。誰も両者を信じていないからだ。(p.181)
貨幣が共同主観的現実であることを受け容れるのは比較的易しい。たいていの人は、古代ギリシアの神々や邪悪な帝国や異国の文化の価値観が想像の中にしか存在しないことも喜んで認める。ところが、自分たちの神や自分たちの国や自分たちの価値観がただの虚構であることは受け容れたがらない。なぜなら、これらのものは、私たちの人生に意味を与えてくれるからだ。私たちは、自分んの人生には何らかの客観的な意味があり、自分の犠牲が何か頭の中の物語以上のものにとって大切であると信じたがる。とはいえ、じつのところ、ほとんどの人の人生には、彼らが互いに語り合う物語のネットワークでしか意味がない。(pp.181-182)
現時点で最善の科学知識によれば、「レビ記」に見られる同性愛行為の禁止は、古代エルサレムの少数の聖職者と学者の偏見を反映しているにすぎないことになる。科学は人々が神の命令に従うべきかどうかは決められないものの、聖書の起源については当を得たことを多く語れる。宇宙と銀河とブラックホールを創造した力が、二人のホモ・サピエンスの男性が少しばかりいっしょに楽しむたびに恐ろしく気分を害するとウガンダの政治家たちが考えていたら、科学は彼らがこのはなはだ奇妙な考えを捨てる手助けができる。(pp.239-240)
科学は私たちが普段思っているよりも倫理的な議論にはるかに多く貢献できるとはいえ、少なくとも今のところは科学には越えられない一線がある。何らかの宗教の導きがなければ、大規模な社会的秩序を維持するのは不可能だ。大学や研究所でさえ、宗教的な後ろ盾を必要とする。宗教は科学研究の倫理的正当性を提供し、それと引き換えに、科学の方針と科学的発見の利用法に影響を与える。そのため、宗教的信仰を考慮に入れなければ、科学の歴史は理解できない。(p.242)
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「飢饉、疫病、戦争」は人類を苦しませ続けてきた。現在、人類はそれらをほぼ抑え込みつつある。人類が取り組むべき課題はそれらの克服ではなくなった。
これからの千年、人類は「至福、不死」を追い求める可能性が高い。それを現在のバイオテクノロジーが強く後押しする。そのテクノロジーはこれまで数千年変わることのなかった人間の心と体を作り直す。
ホモ・サピエンスはホモ・デウス(神)にアップグレードされる。変化は徐々に起こるが、ホモ・デウスが何をやりかねないかは、ホモ・サピエンスの我々には予測困難だ。
本書はホモ・デウスの登場の予言を目的としていない。
予測を立てることで現在の人類が何を達成しようとしているか考察している。そして学問を横断しながら人類の選択の変化を期待している。
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副題に「文明の構造と人類の幸福」と付けられたベストセラー『サピエンス全史』の最後に著者はこう書いた。
「私たちが自分の欲望を操作できるようになる日は近いかもしれないので、ひょっとすると、私たちが直面している真の疑問は、「私たちは何になりたいのか?」ではなく、「私たちは何を望みたいのか?」かもしれない。この疑問に思わず頭を抱えない人は、おそらくまだ、それについて十分考えていないのだろう」
本書は、この疑問 - 「私たちは何を望みたいのか」ー について語るために書かれたのかもしれない。
『サピエンス全史』で、著者は人類の歴史について、「認知革命」「農業革命」「科学革命」の三つの革命を通して段階的に発展してきた、という大きな歴史観上のフレームを示した。本書では、人類の歴史における過去の三つの革命に次ぐ新しい革命が起きることで、人類は「ホモ・デウス」となるかもしれないという新しい物語を提示する。
約七万年前の「認知革命」により、人類は小さいながらも集団で虚構を共有することができるようになり、その集団内で協力を促す力を得た。さらに約一万二千年前の「農業革命」により、人類は共同主観ネットワークを拡大・強化する物質的な基盤を手にすることができた。それでは今回の革命によって人類は何を獲得するのか。そしてそれを手にすることで生まれる「ホモ・デウス」とは何なのか。
人間は長らく飢餓・疫病・戦争という三つの問題に常に悩まされてきた。それほど遠くない過去の話だが、農業革命と科学革命を経て、これらの問題はおおむね対処可能な課題に変わり、うまく抑えこめる目途がついた。これらの課題が克服された状態が実現すると、人類の目的が苦境からの脱出から、「幸福」の追求になっていくだろうというのが著者の見立てである。具体的には、この状況においてAIとバイオテクノロジーの進化が重なることにより、人類は「至福」と「不死」を目指すことになるという。その方向により実現される人類の状態を、人間を神にアップデートするものであるとして、著者は「ホモ・デウス」と表現する。
技術によって人間を拡張するという未来は、レイ・カーツワイルの『シンギュラリティ』などでも語られることだ。本書でも、人類が生み出したバイオテクノロジーによって、素材技術による人工的な臓器だけでなく、生化学的なアプローチで心まで作りなおすという可能性まで挙げられている。しかし、ある意味では、そこまでは他の類書でも述べられているところでもある。本書の重要なポイントは、それが現在の支配的イデオロギーである人間至上主義(ヒューマニズム)の根本的な見直しにつながると指摘しているところにある。
かつて、人間至上主義が世界に現れる前には、神々が世界と人間との間を取り持っていた。一神教が人類史を理解する上で重要性をもつのはそのためだ。例えば、柄谷行人は『探究II』において世界宗教について語った。ジュリアン・ジェインズは『神々の沈黙』で数千年前には人間の意識が今のようなものではなかった可能性について論じた。人間至上主義は近年の発明であり、人がそう信じることで機能するイデオ��ギーであり、ある側面から見ると一種の宗教であり、決して絶対に動かせない事実や真実ではない。なにしろ、共産主義やナチズムもある意味では人間至上主義の一形態でもあると著者は指摘する。
「農業革命が有神論の宗教を生み出したのに対して、科学革命は人間至上主義の宗教を誕生させ、人間は神に取って代わった。有神論者が神を崇拝するのに対して、人間至上主義者は人間を崇拝する。自由主義や共産主義やナチズムといった人間至上主義の宗教を創始するにあたっての基本的な考えは、ホモ・サピエンスには、世界におけるあらゆる意味と権威の源泉である無類で神聖な本質が備わっているというものだ。この宇宙で起こることはすべて、ホモ・サピエンスへの影響に即して善し悪しが決まる」
人間至上主義の中心には意識と自由意志があるが、意識の受動性は近年の研究によってますます明らかになり、自由意志についてはそれ自体の存在すらも危うくなっている。そして著者はそのことを決して否定しない。「心を説明できず、心が果たす役割がわかっていないのなら、あっさり切り捨ててしまえばいいではないか。科学の歴史の中には、捨て去られた概念や仮説が累々と横たわっている」と言い、「科学者のなかには、ダニエル・デネットやスタニスラス・ドゥアンヌのように、脳の活動を研究すれば、主観的経験を持ち出さなくても、関連する疑問にはすべて答えられると主張する人もいる。だから科学者は、「心」「意識」「主観的経験」といった言葉を安心して自分たちの語彙や論文から削除できるというわけだ」と続けている。
著者は、神を崇めた有神論の世界と、人間を崇める人間至上主義との間で、その構造は大きくは違っていないのでないかと指摘する。それはとりもなおさず、現代のわれわれが宗教を眺めるのと同じような形で将来の人類はわれわれが今信じている人間至上主義を眺めているのかもしれない、ということである。
「近代と現代の歴史は、科学とある特定の宗教、すなわち人間至上主義との間の取り決めを形にするプロセスとして眺めた方が、はるかに正確だろう。現代社会は人間至上主義の教義を信じており、その教義に疑問を呈するためにではなく、それを実行に移すために科学を利用する。二十一世紀には人間至上主義の教義が純粋な科学理論に取って代わられることはなさそうだ。とはいえ、科学と人間至上主義を結びつける契約が崩れ去り、まったく異なる種類の取り決め、すなわち、科学と何らかのポスト人間至上主義の宗教との取り決めに場所を譲る可能性が十分ある」
著者は、『サピエンス全史』で詳しく述べた人類史の三番目の革命である科学革命によって、人間は力と引き換えに意味を放棄することに同意したのだという。放棄したその意味の不在に耐えるために、人間至上主義を発明し、新しい「意味」をわれわれに与えさせた。それは一見とてもうまくいったが、よくよく考えると「意味」がそこにあるべき根拠はない。その一種の根拠のないものへの根拠なさを意識することなき依拠というものは、人間至上主義を含めた広義の「宗教」というものに共通に当てはまるものなのかもしれない。
「意味も神や自然の法もない生活への対応策は、人間至上主義が提供してくれた。人間至上主義は、過去数世紀の間に世界を征服した新しい革命的な教義だ。人間至上主義という宗教は、人間性を崇拝し、キリスト教とイスラム教で神が、仏教と道教で自然の摂理がそれぞれ演じた役割を、人間性が果たすものと考える。伝統的には宇宙の構想が人間の人生に意味を与えていたが、人間至上主義は役割を逆転させ、人間の経験が宇宙に意味を与えるのが当然だと考える。...意味のない世界のために意味を生み出せ ─ これこそ人間至上主義が私たちに与えた最も重要な戒律なのだ」
著者は、二十一世紀には世界はデータ至上主義となり、「アルゴリズム」によって支配されるという。もちろん、ここで「支配」というものを主人と奴隷の関係のようなものと解すべきではない。その「支配」はおそらく外部よりも内部からやってくる。結局のところ人間の情動は進化上の自然選択の結果として獲得された「アルゴリズム」であり、その「アルゴリズム」を深く「理解」することで、人間をよりよく理解することができるという。「アルゴリズム」は、人間が自分自身について知っているよりも、よりよく自分のことを知ることができうるのである。
「人々が完全に新しい価値を首尾よく思いつくことなどめったにない。それが最後に起こったのは十八世紀で、人間至上主義の革命が勃発し、人間の自由、平等、友愛という胸踊る理想が唱えられ始めた。1789年以降、おびただしい数の戦争や革命や大変動があったにもかかわらず、人間は新しい価値を何一つ思いつくことができなかった。その後の紛争や闘争はすべて、人間至上主義者のこの三つの価値を掲げて、あるいは、神への服従や国家への忠誠といったさらに古い価値を掲げて行われてきた。1789年以降、まぎれもなく新しい価値を生み出した動きはデータ至上主義が初めてであり、その新しい価値とは情報の自由だ」
データ至上主義のよいところは、それが論理的であるからであり、何となれば人間至上主義を突き詰めた先にあるように思われるところだ。人間がすべての生物と同じようにアルゴリズムである以上、「たいていの人は自分のことをあまりよく知らないのだから、本人よりもシステムのほうがその人のことをよく知るのは、見かけほど難しくはない」ため、「私のことを私以上に知っていて、私よりも犯すミスの数が少ないアルゴリズムがあれば十分」である。そして、「そういうアルゴリズムがあれば、そちらを信頼して、自分の決定や人生の選択のしだいに多くを委ねるのも理にかなって」おり、「アルゴリズムが反乱を起こして人間を奴隷にすることはない。むしろ、アルゴリズムは人間のために決定を下すのがとてもうまくなるので、その助言に従わないのは愚の骨頂だろう」という結論にたどり着く。
最後に、「生命という本当に壮大な視点で見ると、他のあらゆる問題や展開も、次の三つの相互に関連した動きの前に影が薄くなる」として、読者にまとめて提示する。
1.科学は一つの包括的な教義に収斂しつつある。それは、生き物はアルゴリズムであり、生命はデータ処理であるという教義だ。
2.知能は意識から分離しつつある。
3.意識をもたないものの高度な知能を備えたアルゴリズムが間もなく、私たちが自分自身を知るよりもよく私たちのことを知るようになるかもしれない。
著者は、これらが本当にそうなのか、またそれが起きたときにどうなるのかについて考え続けることが必要だということで結んでいる。そこに著者の自らが得た結論に対する躊躇いを見ることも可能だろうか。
人間至上主義が、はかなく破られることとなる希望だとすれば、われわれは、まだ絶望が不足しているのかもしれない。
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著者は本書の中でこのように注意深く人間至上主義の相対性や無根拠性について語ってきた。しかし、現代社会における人間至上主義の根深さは、この本の翻訳者があとがきの中で次のように語ることで、翻訳者自身の意図と離れて図らずとも明らかになった。
「サピエンスの未来に希望はないのか? 断じて違う。著者は楽観はしていないが、絶望もしていない。絶望していたら、この作品を書いただろうか?」
この本を書かれている通りに読めばわかると思うのだが、著者は人間至上主義からデータ至上主義への移行を悪いこととも間違ったこととも考えていない。それは、歴史の上で、神から人間にその権威が移行したことを、現代から振り返って悪いこととも間違ったこととも考えないのと同様だ。むしろその移行が正しく必然なことであった程度と同じ程度に人間至上主義からデータ至上主義への移行を正しいものであると捉えているのではないだろうか。おそらく著者の考えによれば、それは歴史の流れの上でのある種の必然でしかない。
翻訳者が希望と感じた著者の記載は、単に著者が自分の予測が細部では間違っているかもしれないという当然の可能性について触れただけのことと考えるべきなのではないか。翻訳者の人間至上主義に捉われた心がそこにないものを読み取らせた幻と言えるのではないか。
「ダーウィンが『種の起源』を刊行した日にキリスト教が消えはしなかったのとちょうど同じで、自由な個人など存在しないという結論に科学者が達したからというだけで自由主義が消え失せることはない。
それどころか、リチャード・ドーキンスやスティーブン・ピンカーら、新しい科学的世界観の擁護者たちでさえ、自由主義を放棄することを拒んでいる。彼らは自己と意志の自由の解体のために学識に満ちた文章を何百ページ文も捧げた後で、息を呑むような百八十度方向転換の知的宙返りを見せ、奇跡のように十八世紀に逆戻りして着地する。まるで進化生物学と脳科学の驚くべき発見のすべてが、ロックとルソーとジェファーソンの倫理的概念や政治的概念にはいっさい無関係であるかのようだ」という著者の文は翻訳者にはどのように受け止められたのだろうか。
朝日新聞の書評はこの翻訳者あとがきよりもまだマシだが、人間至上主義に対する余計なためらい傷でいっぱいの文章になっている。
(https://digital.asahi.com/articles/DA3S13731574.html)
著者が「振り返ってみれば、人類など広大無辺なデータフローの中の小波にすぎなかったということになるだろう」と書くとき、かのミシェル・フーコーの次の預言的な言葉が意識されていたに違いない。
「人間は、われわれの思考の考古学によってその日付の新しさが容易に示されるような発明に過ぎぬ。そしておそらくその終焉は間近いのだ・・・賭けても���い、人間は波打ち際の砂の表情のように消滅するであろうと」 (『言葉と物』第10章末)
フーコーが、過去の歴史から人間至上主義が絶対のものではなく、歴史上の産物でしかないことを示したのに対して、著者は現在の技術がおそらく見せるであろう姿から遡及的に人間至上主義が維持できない将来を捉えたのである。
本書で著者が言いたかったことは、人間至上主義というものが当たり前の価値の源泉であるということがすでに根拠を失いつつあるということだろう。人間至上主義を絶対のものとせず、ひとつのイデオロギーとして理解をし、新しい可能性について検討をするべきだというものである。決して人間至上主義の危機を煽ってその擁護について議論を盛り上げたいわけでもないし、その危機の解決が必要であるとも主張していない。
「本書では、その制約(※イデオロギーや社会制度)を緩め、私たちが行動を変え、人類の未来についてはるかに想像力に富んだ考え方ができるようになるために、今日私たちが受けている条件付けの源泉をたどってきた。単一の明確な筋書きを予測して私たちの視野を狭めるのではなく、地平を拡げ、ずっと幅広い、さまざまな選択肢に気づいてもらうことが本書の目的だ」
人間至上主義は、歴史の中では比較的新しい発明であることは間違いない。かつて人々を支えていた神がその座を降りたように、人間至上主義もその座を降りるかもしれないということについては、個人的には素直に首肯できる。それはかつてフーコーが何百ページもの文章を捧げた上で端的な言葉で伝えたことと同じだ。その流れは個人の選択というものを超えたものであるということについても承知している。かつて神がその座を降りようとするときに人間の側に強い抵抗があり、現在においてもいまだに抵抗があるように、人間至上主義がその座を降りるときも同じように抵抗があることは容易に想像できる。著者が前著でも述べているように、人類は何度かの大きな「革命」を経て今の状況になっている。「革命」の前には強烈な抵抗があるにも関わらず、「革命」の後ではそれがなかったときのことが不思議に感じられるくらいに「革命」は実際的で必然的でもある。歴史の歩みが速くなった今、それらの「革命」が起きる時間の間隔が短くなっていたとしてもそれは当然のことだろう。二十一世紀において、大きな認識の変化があるとすると、それが「データ」と「アルゴリズム」であると考えるのはおそらく正しい。それは人間の知能がその崇高で絶対的な価値の座から引き下ろされるのと同義であり、意識の問題が新しい側面を見せることを意味しており、人間至上主義が繕いきれない綻びを見せるということである。
もちろん著者は「AIとバイオテクノロジーの台頭は世界を確実に変容させるだろうが、単一の決定論的な結果が待ち受けているわけではない。本書で概説した筋書きはみな、予言ではなく可能性として捉えるべきだ。こうした可能性のなかに気に入らないものがあるのなら、その可能性を実現させないように、ぜひ従来とは違う形で行動してほしい」と書いているが、それは人間至上主義者を喜ばせるものでは決してなく、人間至上主義からくる行動とは違う形でもって行動すべきだと言っているのである。
「ホモ・デウス」などといっているので、バイオやAIによる人類の拡張の話になるのかと想定をしていたら、想像以上に深いテーマを扱っていたのでうれしい驚きがあった。特に『サピエンス全史』を読んだ方や意識・自由意志についてどちらかというと批判的な見方をしている方はとても興味深く読めるはずである。とても長いが、先入観、特に人間至上主義が絶対的に歴史を超えて正しいものだという思い込み、を外してからじっくりと読んでほしい。お勧め。
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『サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福』のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/430922671X
『サピエンス全史(下)文明の構造と人類の幸福』のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4309226728
『ホモ・デウス 下: テクノロジーとサピエンスの未来』のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4309227376
『神々の沈黙』のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4314009780
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大著「サピエンス全史」で、認知革命・農業革命・科学革命という3つの革命から、人類の歴史を斬新な観点からアップデートしたユヴァル・ノア・ハラリの新著。本書では、主にAIとバイオサイエンスを中心とした新たなテクノロジーがどのように人間を変えていくのかという予言的な洞察が語られる。
前作の「サピエンス全史」と比較すると、本書は確実に異論を巻き起こすことは間違いないように思われる。というのも、本書で描かれるテクノロジー、特にAI技術に関する記述はいわゆる「シンギュラリティ論者」が語るような、万能の存在として描かれている節があるからである。ここ数年、「シンギュラリティ論者」に対するAI研究者の側からの反駁として、AIは決して万能な存在ではなく、人間の生存を脅かす存在にまでなるというのは妄想に過ぎない、という意見が提起されている。そうした議論を踏まえてみると、著者のAIに関する理解というのが本当に正当なものなのか、という疑義を呈さずにはいられない。
ただし、そうした点を除けば、生物学・遺伝子学・科学哲学・脳科学・経済学等の様々な学問領域をすべて歴史という軸で徹底的に見つめ直し、そこからテクノロジーが発展したときの社会の姿を予測する、という著者のアプローチは極めて真摯な歴史学者のそれであり、我々が次の社会を考える上での重要な補助線になるのは間違いがない。
余談だが、この手の本にしてはユヴァル・ノア・ハラリの本はリーダビリティが高く、読みやすいと思う。面白い本だし、あっという間に読んでしまった。
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ホモ・デウス 上」今までは神頼みだったことを科学の力で実現できた今は人間至上主義とも言える世界だが、信じられているほどには人間と他の動物に大きな違いがないこと、科学と宗教の役割がとても近いことを指摘し、人間至上主義の次世代の常識が現れる可能性を提案する本です