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ホモ・サピエンスからホモ・デウスへ。デウスとは言うまでもなく「神」だ。現在地球上ではホモ・サピエンスが生物の頂点にいるが、意識的には神に支配されている。地球上の生物の歴史を振り返れば、一つの「種」が頂点を極め続けることはなく、ホモ・サピエンスの君臨が永続するとは限らない。ホモ・サピエンスが次第に自らを神的存在と見做す(ホモ・デウス)ようになるか、あるいは全く別の「種」がこれに取って代わるかもしれない。本書ではこれらの進行を辿り、シンギュラリティへの過程、さらにはその先の未来を考察する。大変知的刺激に富む良書である。
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現代は、「より多くのもの」を、宗教的原理主義や団参世界の独裁主義から結婚生活の低迷まで、ほとんどありとあらゆる公の問題や個人の問題に適用できる万能薬に変えた。(中略)経済成長は、現代のあらゆる宗教とイデオロギーと運動を結びつけるきわめて重要な接点となっている。(p.15)
実際、経済成長の信奉を宗教と呼んでも間違っていないのかもしれない。今や経済成長は、私たちの倫理的ジレンマのすべてとは言わないまでも多くを解決すると思われているからだ。経済成長は良いこといっさいの源泉とされているので、人々は倫理的な意見の相違を忘れ、何であれ、長期的な成長を最大化するような行動方針を採用することが奨励される。(p.17)
美学においては、人間至上主義は「美は見る人の目の中にある」と言う。(以下マルセル・デュシャンの議論)(p.43)
意味と権威の源泉が天から人間の感情へと移るのに伴って、世界全体の性質も変化した。それまで神々や妖精や悪霊で満ちていた外側の世界は、何もない空間となった。それまではむき出しの感情の、取るに足りない領域だった内側の世界は、計り知れぬほど深遠で豊かになった。天使や悪魔は世界の森や砂漠を動き回る現実の存在から、私たち自身の心の中に存在する内なる力に変容した。(p.49)
仮に私が神を信じていたら、そうするのは私の選択だ。私の内なる事故が神を信じるように命じるのなら、私はそうする。私が信じるのは、神の存在を感じるからで、神はそこに存在すると私の心が言うからだ。だが、もし神の存在をもう感じなければ、そして、神は存在しないと突然自分の心が言い始めたら、私は信じるのをやめる。どちらにしても、権威の本当の源泉は私自身の感情だ。だから、神の存在を信じていると言っているときにさえも、じつは私は、自分自身の内なる声のほうを、はるかに強く信じているのだ。(p.50)
テクノロジーは宗教に頼っている。どの発明にも応用の可能性がたくさんあるので、きわめて重大な選択をして、求められている最終目的を指し示してくれる預言者が、技術者には必要だからだ。たとえば、19世紀には技術者たちは機関車や無線通信機や内燃機関を発明した。だが、20世紀が立証したように、人はまったく同じ道具を使ってファシズムの社会も、共産主義独裁政権も、自由民主主義国家も生み出せる。宗教的な信念がなければ、機関車はどちらに進めばいいか決められない。
その一方で、テクノロジーが私たちの宗教的ビジョンの限界を定めることもよくある。(中略)新しいテクノロジーは古い神々を排し、新しい神々を誕生させる。だから農耕社会の神は狩猟採集社会の霊とは違ったのであり、工場労働者は農民とは違う楽園を夢見たのであり、21席の革命的なテクノロジーは、中世の教義を復活させるよりも前代未聞の宗教運動を引き起こす可能性のほうがずっと高いのだ。(p.90)
もちろん、安泰な仕事もある。2033年までにコンピューターアルゴリズムが考古学者に取って代わる可能性は0.8パーセントしかない。非常に高度な種類のパターン認識が必要とされる上に、たいした利益を生まないからだ。だから企���や政府が次に20年間に考古学を自動化するために必要な投資をすることはありそうにない。(p.157)
21世紀の新しいテクノロジーは、人間至上主義の革命を逆転させ、人間から権威を剥ぎ取り、その代わり、人間ではないアルゴリズムに権限を与えるかもしれない。この趨勢に恐れをなしたとしても、コンピューターマニアたちを責めてはならない。じつは、責任は生物学者たちにあるのだ。(中略)生き物はアルゴリズムであると生物学者たちが結論した途端m彼らは生物と非生物の間の壁を取り壊し、コンピューター革命を純粋に機械的なものから、生物学的な大変動に変え、権威を個々の人間からネットワーク化したアルゴリズムへと移した。(p.181)
太古の人間はおそらく、嗅覚を幅広く使っただろう。狩猟採集民は遠く離れた場所から、さまざまな動物種やさまざまな人間、さらにはさまざまな情動の違いさえ嗅ぎ分けられる。一例を挙げよう。恐れは勇気とは違う匂いがする。人は恐れていると、勇気に満ちているときとは違う化学物質を分泌する。近隣の人びとに対して戦争を始めるかどうかを議論している太古の生活集団の中に座っていたら、文字どおり世論を嗅ぎ取れただろう。
サピエンスがしだいに大きな集団を組織するようになると、鼻は社会的重要性の大半を失った。鼻が役に立つのは、少数の個人を相手にしているときだけだからだ。(pp.200-201)
私たちは、情報の自由と、昔ながらの自由守備の理想である表現の自由を混同してはならない。表現の自由は人間に与えられ、人間が好きなことを考えて言葉にする権利を保護した。これには、口を閉ざして自分の考えを人に言わない権利も含まれていた。それに対して、情報の自由は人間に与えられるのではない。情報に与えられるのだ。しかもこの新しい価値は、人間に与えられている従来の表現の自由を侵害するかもしれない。人間がデータを所有したりデータの移動を制限したりする権利よりも、情報が自由に拡がる権利を優先するからだ。(pp.227-228)
重要な3つの問い
・生き物は本当にアルゴリズムにすぎないのか?そして、生命は本当にデータ処理にすぎないのか?
・知能と意識のどちらのほうが価値があるのか?
・意識は持たないものの高度な知能を備えたアルゴリズムが、私たちが自分自身を知るよりもよく私たちのことを知るようになったとき、社会や政治や日常生活はどうなるのか?(p.246)
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サピエンス全史の要約的な上巻は飛ばして下巻から。プログラミングする人とプログラミングによって生きる人とに人間は二極分化するらしい。そして生物は結局アルゴリズムなのだそうだ。アルゴリズム、AIによる利便性の向上がどこまでも突き進んだ先には、政治や社会はどうなるのか。大変興味深い未来への考察だ。
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過去には、検閲は情報の流れを遮断する事で機能した。二十一世紀には、どうでもいい情報を人々に多量にお見舞いすることで機能する。
おもしろい言い回しだな。
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右脳と左脳、経験する自己と物語る自己がとても面白くて引き込まれて行く。AIの台頭でなにが起こるか、というここ数十年のトピックが蒸し返されて行く。特に、”無用者階級”のセクションで、知能が高く意識を持たないアルゴリズムが登場した後、厖大な数の余剰人員をどうするか?という問題が取り上げられるが、使われるボキャブラリーが結構センセーショナルで目が醒める。p157『二一世紀には、私たちは新しい巨大な非労働者階級の誕生を目の当たりにするかもしれない。経済的価値や政治的価値、さらには芸術的価値さえ持たない人々、社会の繁栄と力と華々しさに何の貢献もしない人々だ。この「無用者階級」は失業しているだけではない。雇用不能なのだ。』怖いねぇ。ほんま、なんか流されるように生きている自分に鞭を打たれたような気がした。
>1 生き物は本当にアルゴリズムにすぎないのか?そして、生命は本当にデータ処理にすぎないのか?
>2 知能と意識のどちらの方が価値があるのか
>3 意識は持たないものの高度な知能を備えたアルゴリズムが、私たちが自分自身を知るよりもよく私たちのことを知るようになったとき、社会や政治や日常生活はどうなるのか?
確かに読了後もずっと気になり続けると思う。
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この本を手にしたきっかけは私が大好きな「私を離さないで」の著者カズオ・イシグロさんが「優れた作品である『サピエンス全史』よりも面白く読める、より重要な作品である」と帯に書いてあったからです。
「ホモ・デウスって人間を神様にしちゃう?…なんだか無機質な感じだなぁ。でもあのカズオ・イシグロさんがオススメしてる作品だから何かあるんだよ。」とテクノロジーとサピエンスの未来予想を上下巻に渡り綴り、ラストにはそれに対するリスクが書かれていました。
結論から言えばとてもホモ・サピエンスの未来を考え「知能」と「意識」を考えに考えた人間くさいお話でした。例えば下巻10章意識の大海では「本当の友人ならもっと辛抱強く、慌てて解決策を見つけようとはしないはずだ。」という文章がテクノロジー本に出てくるように。
第3部8章人生の意味では「空想の物語のために愚犠を払えば払うほど執拗にその物語にしがにみつく。その犠牲と自分が引き起こした苦しみに、ぜがひでも意味を与えたいからだ。」と、はっとさせられる1文も。
全体的にサイエンスや宗教を歴史に沿って書かれていて文字を追えばスッと内容が入り決して難解なテクノロジー本という感じは受けませんでした。落合陽一・清水高志・上妻世海さんの「脱近代宣言」と一緒に読むと読書体験が前進しました。
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分厚く文字量は多いけれど、その語りは非常に面白い。サピエンスをプロセッサに見立てて語る部分などは、サピエンス全史に続いて、ハラリさんならではの視点だと思う。
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下巻は、いよいよデータとアルゴリズムの世界へ。そして自己至上主義の終焉。
筆者の最後の問いかけ。
生き物はアルゴリズムにすぎないのか?生命はデータ処理にすぎないのか?
知能と意識のどちらのほうが価値があるのか?
意識はないが知能備えたアルゴリズムが自分自身より自分を知るようになったとき、社会や政治や日常生活はどうなる?
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ところどころに突き刺さる思考があるが全体的には高度な内容で私の理解力が追いつかない。本格的に読書した感はある。人間至上主義 人間は感情と意識がある。テクノロジーがそれを超えられるかどうか?全てのものはアルゴリズムでできているが意識と感情を持つのは人間であり、テクノロジーが超えられない部分にデウス(神)としての人間があるのではなかろうか。
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期待以上にエキサイティングで面白い本だった。超マクロ視点での世界への見立てと、超大胆な空想力。一瞬えっ?となっても、確かにそうかもと思わせることばかりで、明らかに無用者階級のわたしはただただ興味深く読んだ。いぬのみみ多数。
1生き物は本当にアルゴリズムにすぎないのか?そして生命は本当にデータ処理にすぎないのか?
2知能と意識のどちらのほうが価値があるのか?
3意識は持たないものの高度な知能を備えたアルゴリズムが、私たちが自分自身を知るよりもよく私たちのことを知るようになった時、社会や政治や日常生活はどうなるのか?(巻末より)
同じうねりが人間の各組織単位でも起きている。まさに広告会社も。どうなるのか?
上
P26 「平和」という言葉は新たな意味を持つにいたった。これまでの世代は戦争が一時的に行われていない状態を平和と考えていた。だが今日、わたしたちは、戦争が起こりそうもない状態を平和と呼んでいる。
P28 今やもう私たちは、落とされることのない爆弾や発射されることのないミサイルに満ち溢れた世界で暮らすことに慣れきっており、ジャングルの法則とチェーホフの法則の両方をやぶる達人となった。仮にこれらの法則が私たちに再び災禍をもたらすことがあったなら、それは私たち自身の落ち度であり避けようのない運命のせいではない。それではテロはどうだろう?【中略】とはいえ、テロは真の力にアクセスできない人々が採用した、弱さに端を発する戦略だ。
P31 二十世紀に成し遂げたことを思うと、もし人々が飢饉と疫病と戦争に苦しみ続けるとしたら、それを自然や神のせいにすることはできない。わたしたちの力をもってすれば、状況を改善し、苦しみの発生をさらに減らすことは十分可能なのだ。
P32 (人類は)飢餓と疾病と暴力による死を減らすことができたので、今度は老化と死そのものさえ克服することに狙いを定めるだろう。人々を絶望的な苦境から救い出せたので、今度ははっきり幸せにすることを目標とするだろう。そして今度は人間を神にアップグレードしホモ・サピエンスをホモ・デウスに変えることを目指すだろう。
P40 飢饉や疾病や戦争を免れた人は優に七〇代八〇代まで生きられた。それがホモ・サピエンスの自然寿命だからだ。【中略】 実のところ、現代の医学はこれまでわたしたちの自然な寿命を一年たりとも延ばしてはいない。医学の最大の功績は、わたしたちが早死にするのを防ぎ、寿命を目いっぱい享受できるようにしてくれたことだ。
P46 当初国家権力を制限するために構想された幸福追求に対する権利は、いつの間にか、幸福に対する権利に変わってしまった。まるで人間には幸せになる自然権があり、わたしたちに不満を抱かせるものは何であれ、わたしたちの基本的人権を侵害するから、国家が何らかの措置を講じるべきであるかのように。
P47 どうやらエピクロスは、大切なことに気づいていたらしい。人は簡単には幸せになれないのだ。
P107 すべての哺乳動物は、情動的な能力と欲求を進化させた。【中略】実は情動は、生化学的なアルゴリズムで、すべての哺乳動物の生存と繁殖に不可欠だ。
P133 (一体不可分のもので構成要素を全く持たないものは自然選択で進化することは決してありえない)だから進化論は魂という考えを受入れられない。
P146 わたしたちの行動と決定はすべて自分の魂から生じると、人々は何千年にもわたって信じてきた。ところがそれを支持する証拠がなく、はるかに詳細な代替の説が出てきたため、生命科学は魂を見捨てた。【中略】心も科学のゴミ箱に放り込まれた魂や神やエーテルの仲間入りをするべきかもしれないのではないか?
P147 最後に、次のような立場をとる科学者もいる。意識は特定の脳の作用の、生物学的に無用な副産物だ。【中略】意識は複雑な神経ネットワークの発火によって生み出される一種の心的汚染物質だ。意識は何もしない。ただそこにあるだけであるというのだ。2016年の時点で現代科学が提供できる意識の仮説のうち、これが最高のものであるとは、なんと驚くべきことだろう。
P152 チューリングは、人が本当はどういう人間なのかは関係ないことを自分自身の経験(同性愛者であることを欺き通す)から知っていた。肝心なのは他者にどう思われているかだけなのだった。
P210 厳密な成績を日常的につけ始めたのは、産業化時代の大衆教育制度だった。【中略】もともと学校は、生徒を啓もうし教育することが主眼のはずで、成績はそれがどれだけうまくいっているかを測る手段に過ぎなかった。だがほどなく、学校はごく自然に、よい成績を達成することに的を絞り始めた。
P211 ファラオの支配するエジプトや、ヨーロッパの諸帝国、現代の学校制度のような、本当に強力な人間の組織は、物事を必ずしも的確に見られるわけではない。それらの権力の大半は、虚構の信念を従順な現実に押し付ける能力にかかっている。貨幣というものがその好例だ。
P219 物語は道具にすぎない。だから、物語を目標や基準にするべきではない。私たちは物語がただの虚構であることを忘れたら、現実を見失ってしまう。すると、「企業に莫大な収益をもたらすため」「国益を守るため」に戦争を始めてしまう。【中略】私たちは21世紀にはこれまでのどんな時代にも見られなかったほど強力な虚構と全体主義的な宗教を生み出すだろう。そうした宗教はバイオテクノロジーとコンピューターアルゴリズムの助けを借り、わたしたちの生活を絶え間なく支配するだけでなく、わたしたちの体や脳や心を形作ったり、天国も地獄も備わったバーチャル世界をそっくり創造したりすることもできるようになるだろう。したがって、虚構と現実、宗教と科学を区別するのはいよいよむずかしくなるが、その能力はかつてないほど重要になる。
下
P7 現代というものは取り決めだ。【中略】現代とは驚くほど単純な取り決めなのだ。契約全体を一文にまとめることができる。すなわち、人間は力と引き換えに意味を放棄することに同意する、というものだ。
P
9 現代の取り決めは、人間に途方もない誘惑を、けた外れの脅威と抱き合わせで提供する。わたしたちは全能を目前にしていて、もう少しでそれに手が届くのだが、足元には完全なる無という深淵がぽっかり口をあけている。
P14��人間は進化圧のせいで、この世界を不変のパイと見るのが習い性となった。【中略】したがってキリスト教やイスラム教のような伝統的な宗教は、既存のパイを再分配するか、あるいは天国というパイを約束するかし、現在の資源の助けを借りて人類の問題を解決しようとした。それに対して現代は、経済成長は可能であるばかりか絶対不可欠であるという固い信念に基づいている。【中略】このように経済成長は、現代のあらゆる宗教とイデオロギーと運動を結びつける極めて重要な接点となっている。【中略】実際、経済成長の新法を宗教と呼んでも間違っていないのかもしれない。なぜなら今や経済成長は、わたしたちの倫理的ジレンマのすべてとは言わないまでも多くを解決すると思われているからだ。
P53 必要な感性なしでは、物事を経験することはできない。そして、経験を積んでいかない限り、感性をはぐくむことはできない。【中略】わたしたちは出来合いの良心をもって生まれては来ない。人生を送りながら、他人を傷つけ、他人に傷つけられ、情け深い行動をとり、他者からの思いやりを受ける。注意を払えば、道徳的な感性が研ぎ澄まされ、こうした経験が価値ある倫理的知識の源泉となって、何がよく、何が正しく、自分が本当は何者かがわかってくる。
P90 宗教とテクノロジーは常に何とも微妙なタンゴを踊っている。互いに押し合い、支えあい、離れすぎるわけにはいかない。テクノロジーは宗教に頼っている。どの発明にも応用の可能性がたくさんあるので、極めて重大な選択をして、求められている最終目的を指示してくれる預言者が、技術者には必要だからだ。
P95 (進歩の列車に席を確保するためには)二一世紀のテクノロジー、それも特にバイオテクノロジーとコンピューターアルゴリズムの力を理解する必要がある。二一世紀の主要な製品は体と脳と心で、体と脳の設計の仕方を知っている人と知らない人の間の格差は大幅に広がる。【中略】進歩の列車に乗る人は神のような創造と破壊の力を獲得する一方、後に取り残される人は絶滅の憂き目にあいそうだ。
P125 経験する自己と物語る自己は、完全に別個の存在ではなく、緊密に絡み合っている。物語る自己は、重要な原材料としてわたしたちの経験を使って物語を創造する。するとそうした物語が、経験する事故が実際に何を感じるかを決める。わたしたちは、ラマダーンに断食するときと、健康診断のために食事を抜くときと、お金がなくて食べられないときとでは、空腹の経験の仕方が違う。
P137 過去半世紀の間に、コンピューターの知能は途方もない進歩を遂げたが、コンピューターの意識に関しては一歩も前進していない。【中略】とはいえ私たちは重大な変革の瀬戸際に立っている。人間は経済的な価値を失う危機に直面している。なぜなら、知能が意識と分離しつつあるからだ。
P185 医学は途方もない概念的大変革を経験している。二〇世紀の医学は、病人を治すことをめざしていた。だが21世紀の医学は、健康な人をアップグレードすることに、次第に狙いを定めつつある。病人を治すのは平等主義の事業だった。それに対して健康な人をアップグレードするのはエリート主義の事業だ。
P186 大衆の時代は終わりをつげ、それとともに大衆医療の時代も幕を閉じるかもしれない。人間の兵士と労働者がアルゴリズムに道を譲る中、少なくとも一部のエリート層は次のように結論する可能性がある。無用な貧しい人々の健康水準を向上させること、あるいは、標準的な健康水準を維持することさえ意味がない。一握りの超人たちを通常の水準を超えるところまでアップグレードすることに専心するほうがはるかに賢明だ、と。
P201 現代の人間は、FOMO(見逃したり取り残されたりすることへの恐れ)に取りつかれており、かつてないほど多くの選択肢があるというのに、何を選んでもそれに本当に注意を向ける能力を失ってしまった。わたしたちはにおいをかぐ能力や注意を払う能力に加えて、夢を見る能力も失ってきている。
P216 政治学者たちも、人間の政治制度を次第にデータ処理システムとして解釈するようになってきている。資本主義や共産主義と同じで、民主主義と独裁制も本質的には、競合する情報収集、分析メカニズムだ。独裁制は集中処理の方法を使い、一方、民主主義は分散処理を好む。
【中略】21世紀に再びデータ処理の条件が変化するにつれ、民主主義が衰退し、消滅さえするかもしれないことを意味している。データの量と速度が増すとともに選挙や政党や議会のような従来の制度は廃れるかもしれない。それらが非倫理的だからではなく、データを効率的に処理できないからだ。【中略】いまやテクノロジーの革命は政治のプロセスよりも早く進むので、議員も有権者もそれを制御できなくなっている。【中略】テクノロジーは急速に進歩しており、議会も独裁者も到底処理が追いつかないデータに圧倒されている。まさにそのために、今日の政治家は一世紀前の先人よりもはるかに小さなスケールで物事を考えている。結果として、二十一世紀初頭の政治は壮大なビジョンを失っている。政府は単なる管理者になった。国を管理はするがもう導きはしない。
これは見様によってはとても良いことだ。神のようなテクノロジーと誇大妄想的な政治という取り合わせは災難の処方箋となる。【中略】とはいえ、紙のようなテクノロジーを近視眼的な政治と組み合わせることには悪い面もある。ビジョンの欠如がいつも恵みであるわけではなく、またあらゆるビジョンが必ずしも悪いわけではない。【中略】わたしたちの未来を市場の力に任せるのは危険だ。
P225 資本主義同様、データ至上主義も中立的な科学理論として始まったが、今では物事の正邪を決めると公言する宗教へと変わりつつある。この新宗教が信奉する思考の価値は「情報の流れ」だ。
P227 わたしたちは、情報の自由と、昔ながらの自由主義の理想である表現の自由を混同してはならない。表現の自由は人間に与えられ、人間が好きなことを考えて言葉にする権利を保護した。之には口を閉ざして自分の考えを人に言わない権利も含まれていた。それに対して、情報の自由は人間に与えられるのではない。情報に与えられるのだ。
P242 データ至上主義の教義を批判的に考察することは、二十一世紀最大の科学的課題であるだけでなく、最も火急の政治的・経済的プロジェクトにもなりそうだ。声明をデータ処理と意思決定として理解してしまうと、何か見落とすことになるのではない��、と生命科学者や社会科学者は自問するべきだ。
P243 データ至上主義は、ホモ・サピエンスが他のすべての動物にしてきたことを、ホモ・サピエンスに対してする恐れがある。
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人類の歴史を翠リ返ったベストセラー「サピエンス全史」の著者による未来予想図。下巻では、人間の自由意志を重んじる「人間至上主義」はどのようにして支配的な世界宗教になったのか、機械的アルゴリズムの台頭による「意識と知能の分離」など、人類の歴史を踏まえた未来像が語られています。
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十分に発達した科学技術がホモサピエンスをネアンデルタール人の地位に追いやり、一握りの富裕層・エリート層から新たなホモ・デウスが誕生する。人間=プロセッサ論はダグラス・アダムスのようでもあり。データ至上主義への移行は従来のプライバシーや著作権の枠組みを無にし、感情や経験という人間的価値を否定するが、そのために必要な暫定的社会システムはどのようなものか。生物の進化の果てがデータ化であるならば、それが、異星人が見つからない理由なのか。
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著者の問いかけ。
1 生き物は本当にアリゴリズムに過ぎないのか? そして、生命は本当にデータ処理にすぎないのか?
2 知能と意識のどちらのほうが価値があるのか?
3 意識は持たなものの高度な知能を備えたアルゴリズムが、私たちが自分自身を知るよりもよく私たちのことを知るようになったとき、社会や政治や日常生活はどうなるのか?
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前著、ホモ・サピエンス全史もそうだったけど、上巻は新しい視点、事実がズラッと並べられて、心地良い歯切れの良さにふむふむと感心してしまうわけだけど、下巻になると上巻を受けて、だから未来はこうなっちゃうかもよ、って延々と同じような話が続くのが辛い。著者も書いてあるが、書かれているのはあくまでひとつの可能性であり、事実に基づいているので、真実味もあるのだけど、やはり仮定を前提の話が延々と続くのは、読み物としては辛いものだ。
ただ、うっすら感じている不気味さを明確にしてくれる点や、自分の子供が大人になる頃にはどうなっちゃうのかなとか、子供を導くための視点の強化になればいいなと思って、読んでた感じ。どうなるのかね、未来。
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・現代の世界は、成長を至高の価値として掲げている。
・たとえ現状で十分満足しているときでさえ、更に上を目指して奮闘するべきなのだ。
・歴史を通して、求人市場は3つの部門に分かれていた。農業、工業、サービス業だ。
・人間が専門化し、得意な分野が非常に限られているので、AIに置き換えやすいのだ。
・人間が取り残されないためには、一生を通して学び続け、繰り返し自分を作り変えるしかなくなるだろう。
・人間の心や経験に関する科学研究の大半は、WEIRD社会の人々を対象に行われてきており、彼らは決して人類を代表するサンプルではない。
・データ至上主義という新宗教が信奉する至高の価値は「情報の流れ」だ。
・人間は「すべてのモノのインターネット」を創造するための単なる道具に過ぎない。