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自分は1973年生まれの45歳。
物心ついたころから本に親しんできました。
初めて自分で買って読んだ小説は、赤川次郎の「三毛猫ホームズ」シリーズ。
小学校高学年のころだったと思います。
それから現代文学を中心に読み漁ってきました。
傾向としては、純文学が多かったように思います。
ですから、今まで読んできた小説とそれを著した作家を、しっかりと時代に位置付けて俯瞰してみたいという欲求がありました。
ただ、夏目漱石や森鴎外など近代の小説の歴史をひも解いた本はあっても、自分が読んできた小説をカバーする本はほぼありませんでした。
概ね70年代から現在までに発刊された小説です。
本書はまさに、この時代に発刊された小説のガイドブック。
昨年末に読書欄で本書のことを知り、すぐに購入しました。
それに何と言っても斎藤美奈子さんですからね。
まず外さないという自信がありました。
読後、自信は確信に変わりました。
私がこれまで読んできた小説が、時代背景も含めて解説されているのですから、面白くないわけがありません。
大げさに言えば、それはまさしく私のこれまでの人生です。
ただ、本書を読んで分かりましたが、自分はほぼ10年遅れで現代小説を読んできたようです。
たとえば、龍や春樹を読むようになったのは、彼らが登場してから10年前後経った1990年代。
90年代の純文学シーンをリードした笙野頼子や松浦理英子らを読むようになったのは2000年代です。
2000年代から時代に追い付き、綿矢りさや金原ひとみは、芥川賞受賞が衝撃的だったこともあってすぐに読みました。
吉村萬壱、小川洋子、重松清、赤坂真理、絲山秋子、古川日出男、角田光代、阿部和重、柳美里、吉田修一、三崎亜記、伊坂幸太郎、長嶋有、舞城王太郎、平野啓一郎、川上未映子、三浦しをん、中村文則、村田沙耶香、白岩玄、羽田圭介、朝井リョウ……このあたりは結構好きで読みました。
あと私淑している町田康ね。
ただ、結構取りこぼしも多く、恥ずかしながら恩田陸は未読ですし、「ろみたん」こと川上弘美も実はまだ……。
あと、絶対、自分に合うはずと思っていながら読んでいないのが星野智幸ね。
いつかタイミングが来れば読むことになると思いますが。
この種の本でページを繰る手が止まらなくなるのは、やはり著者の手腕によるところが大きいと思われます。
たとえば、
「ポストモダンの時代を見てきた現代作家の手にかかると、歴史も過去の文学もみごとに『脱構築』されてしまう。古民家がカフェに生まれ変わるようなものでしょうか。」(165ページ)
とは、言い得て妙だと思いませんか?
著者独自の分析にも納得させられました。
たとえば、渡辺淳一「失楽園」、片山恭一「世界の中心で、愛をさけぶ」、百田尚樹「永遠の0」が爆発的に売れたのは、その直前に大きな震災や戦争があったからなのだそう。
「『無意味な死』『大量死』の後には『意味ある死』『小さな死』『美しい死』の物語が求められる。」(203ページ)
極め付きは終盤です。
ライターの飯田一史が、震災後文学は「被」の文学に終始し、その先を示していないといった趣旨の問題提起をしたのを受けて、著者はこう書きます。
長いですが、引用します。
「これは震災関連小説に限らず、純文学全般に当てはまる傾向です。
なぜ文学は『その先』を示せないのか。私が立てた仮説は二つあります。
ひとつは『純文学のDNA』とでもいうべき性癖です。
明治二〇年代、近代文学が『ヘタレな知識人』『ヤワなインテリ』からはじまったことを思い出してください。ふて腐れたまま二階に上がって、二度と階下におりてこなかった『浮雲』の内海文三、結婚する美彌子を呆然と見送るしかなかった『三四郎』。あの性癖がいまもどこかに残っている。純文学はショックに弱い。もともとが敗者、弱者の芸術だっただけに、呆然と立ち尽くす以外の術を知らないか、あるいは問題の解決を先送りにしたがるのです。
もうひとつは小説の形式上の問題です。
純文学とエンターテインメントの大きな差のひとつは『終わり方』です。エンターテインメントは閉じた結末(クローズドエンディング)を好みます。ハッピーエンドであれ、バッドエンドであれ、伏線をすべて回収し、事件に白黒をつけ、謎に解を与えて納得させ、読者をすっきり日常に戻す。これがエンタメの流儀です。それに対して純文学は、開いた結末(オープンエンディング)を好みます。事件は解決せず、主人公は宙づりにされ、謎は謎のまま残り、不安な空気を残したまま、テキストはプツリと終わる。するとなんだか余韻が残って『文学らしさ』が醸成されます。問題解決能力の高い人物は、純文学の世界ではたいてい悪役か、もしくは軽蔑すべき俗物です。純文学は安易に人を救わないのです。」(258~259ページ)
思わず膝を打ちましたよ。
座右の書にします。
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さすが美奈子オネエサマ、ズッパリ切り込みつつも読者を小説の世界に誘い込む仕掛けがふんだんに盛り込まれている。読みたくなった本が多数、困った。
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1960年代から2010年代の小説がどうであったから、そして、今後日本文学はどのように向かうのかが示唆される。
帯に、「きっとある!あのとき、あなたが読んだ本」の位置付けが良くわかり、現代の小説を全体的に理解できる著書である。
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60年代以降の日本文学史ということで、私はまあまあリアルタイムで読んできているものが多く、臨場感モリモリだった。
しかしこれだけ多岐多彩に渡る作品群を、まずはもちろん読み、明解に解析し、グルーピングする手腕はさすが。
こうしてみると、私小説や不倫小説のめった斬りは爽快だし、フェミニズム文学もうまく網羅しているし、偽史が意外と多いというのも納得。
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世に出ている近世(明治)以降の文学の解説本の多くは、60年代の横光利一・石原慎太郎・開高健らで終わっている。著者はその後の文芸の歴史をきちんと解説した書が見当たらないとことに奮起し、筆を執る。カバーする範囲は1960年代〜2010年代までの約60年。我々が生きてきた“同時代”の「性格」を文学で探っていく。
印象深かったのは、文芸評論家の蓮實重彦の考察。70年代半ば〜80年代を代表する小説の「羊をめぐる冒険」「コインロッカーベイビーズ」「枯木灘」「吉里吉里人」「裏声で歌え君が代」「同時代ゲーム」は全て同じプロットの物語である。「依頼」→「代行」→「出発」→「発見」という経過を辿る構成であると喝破。
それを受けて著者は、近代文学と現代文学の差異を絵画を例に挙げ分析する。近代文学が、ミレーやコローのような写実画とすれば、現代文学はピカソやカンディンスキーのような抽象画に当たる。ピカソのデッサンを非難するが、それは旧来の写実的画法では描けないとピカソが考えたからにほかならない。
かつて文芸界で飛び交った「人間が描けてない」という批判は80年代以降には効力を失った。現代文学はそもそもそれまでの小説の意味や技法に疑問を抱いたところから出発している。その代表格が、高橋源一郎・島田雅彦・田中康夫らである。確かに各氏の処女作は物議を醸した。
この様に小説は時代を斬り、時代が小説を産んだと言える。本書には、約300篇もの小説を10年単位で区切り、当時の時代の空気をすくい取りながら、簡潔な解説の中に時に容赦のない筆誅を下す。
すっかり廃れたと思っていたプロレタリア文学や私小説がその形を時代の器に合わせ変容し生き延びていたり…同時代の文学を鳥の眼と虫の眼のデュアルレンズでもって、昭和~平成の世相史が学べる副産物もある労作。
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最近50年の日本の小説の流れを時代・作家・作品とともに語る。60年代・知識人の凋落、70年代・記録文学、80年代・遊園地化、90年代・女性作家の台頭、00年代・戦争と格差社会、10年代・ディストピアを越えて。
あの小説をそんな風にまとめるなんて、そんな表現してよかったなんて。評論家ってすごい。こうして概観すると、流れがあったのだと見えてきます。
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60年代から2010年代までの小説を斎藤節で網羅的に解説。あらためて80年代は百花繚乱だったなあというのと、2004年代の金原ひとみと綿谷りさは衝撃だったなあということが確認できた。村上春樹に厳しい。「テロの肯定に無自覚だ」など。この作家もあの作家もまだ読んでいないということに気づかされ役に立つ
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さながら近々の歴史をざっくりと見ながら、同時代の文学史をひも解いてくれるとてもわかりやすく面白い文学案内でした。確かにこういうのを待っていました!
わたしの読書人生は1950年代の後半から始まっています。その頃は桑原武夫や伊藤整の読書入門や、もう少し詳しいのだと中村光夫の『日本の近代小説』、1960年代後半に出た同じく『日本の現代小説』が参考書でした。まさに斎藤美奈子さんが「まえがき」にそうお書きになってます。
でも、そういう案内は1960年代までで終わっています。このようなわかりやすい案内は今現在2010年代までなぜか空白でした。もちろん専門書的なものはあったでしょうが。
世界が多様性にばらけている今、文学のジャンルも増え、しかも、堺がわからなくなり渾然の様相、まるっと見渡してまとめるのは大変な作業でしょう。
わたしとて情報に限りがあり、何をどう読めばいいのか?何か足りないようなもどかしさがありました。
近代、現代、そして「同時代」とはうまいネーミングであります。
斎藤美奈子さんもおしゃってますが、この新書を足掛かりにして、まだまだ埋もれている作家・作品を発掘しながら、読書人生を歩みたいと思いました。
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それが書かれた時代に読む、ということの意味を深く考えさせられた。
何はともあれ、読みたい、読まねば、と思う本がぞろぞろ出てきて、ああ、これから忙しくなるなあ。
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さらっと書いてるけど、これすごい本なんじゃないか?
1960年代〜2010年代の小説を、純文学・エンタメ小説問わず数行で紹介しつつ、その潮流と背景となる出来事を解説している。必ず読んだこと(聞いたこと)がある作品が含まれている。
最初の方はまだ文学史という気分で読めたけど、自分の読書生活と重なる90年代以降は時代の暗さや作品の痛々しさが辛かったが、解説が的確で未来の展望まで示しているのに救われた。
これを同時代でやってのけるの、やっぱりすごくない?
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時代背景とともにその当時に書かれた小説を、辛口交えて紹介していく本。こんな風に小説をとらえるのはとても面白かった。自分の読んだことのない小説もどんどん読んでみたくなった。
過去の章はただ興味本位で読んでいたが、だんだん現代の章へとすすんできてからは、まさに今「ディストピア」を生きているんだと絶望的な気持ちになってしまった。
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小説は社会を映すことがよく分かった。社会風俗とその時代の代表作を結びつける筆致が巧み。これまで、小説は古典を優先してきたけど、今後は積極的に現代作家を読みたいという気持ちにさせられた。各論で言えば、私小説の系譜とポストモダン系は読む価値がないと思ったが、現代におけるプロレタリアートの系譜は読んでみたい。
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1960年代〜2010年代までの小説を
時代背景ととも分析。
近代日本文学(〜1950年代)は「ヤワなインテリ」がいつまでも悩んでいるヘタレども。
60年代 大学進学率上昇に伴う 知識人の凋落
70年代 公害問題等による 記録文学の時代
80年代 バブル経済 遊園地化する純文学
90年代 バブル崩壊後 女性作家の台頭
00年代 9.11.リーマンショック 戦争と格差社会
10年代 3.11以降 絶望的ディストピア
芥川賞受賞した芸人さんのあの作品も往年の私小説に近い自虐的なタワケ自慢と貧乏自慢と一刀両断。
市場縮小も著しく、新しい表現による小説は
なかなか厳しい時代のようです。
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読んでいて、非常に濃い時間を過ごし愉しかった。本好きと称しつつも、如何に偏っているかを知ったし、「読めない時期」が結構あって、意外と知らない作家、作品が多いのも解った。
自身が「純文学は嫌い」とかねてより思っているし、今も変わらないのだがその中でも少しは読んできたつもり。純文学に有る「オープンエンド」が好きというせいもある。ヘタレの知識人から始まったというそのルーツの表現法に納得。
同時代文学史とは言い過ぎと感じたのは、そう行ってしまうと「思想史」に通じてしまいかねない事。
それにしては、1960年からの諸々の動きを俯瞰し、見つめ切れているかと簡単に攻撃を食らいそう(そういった流れが好きな人が多いし)とは言え、2000年までがもはや【現代史】と語り始められている今ではタイムリーと捉えられる。しかも女性の口から言われているのはとても好ましい。
やるなぁと言った感慨。
2010年まで、2010年からと大きく分けて語っているのが多論沸騰の可能性を持たせて愉しい。
少年犯罪・DV・格差社会・不倫・母子家庭・キャリア小説等といった食料を糧に書き手が広がり 増えたこの時期。小説は弱者や敗者に敏感という言い方にも納得。
そして今は ディストピアの時代という今、それだけかという気がしないでもない。
しかし、リーマンショックがもはや甘いと言われ、コロナ時代のビフォーアフターがテーマになるのは論を待たぬと言えよう。
女性作家の台頭は認めつつも、ファンタジー、カルチャー、BL,LGBTとひとくくりにできないのがその中身。性差を越えての語りが待たれる。
戦争~イライラ戦争を経ていま、日本の小説も国際化多国籍化は留まるところを知らない。いつ、どこが紛争の場となるのが解らないのだから。
ラスト「1960年は文字通り、航海記」だったがこれからの次代もそうなってほしいと結んでいるのは同感。
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非常に面白く、興味深かった。「同時代小説」を俯瞰的な視点で分析し、特徴を抽出することがいかに難しいか、ちょっと考えてみればすぐわかる。その困難に果敢に挑んだ本書、なるほどねえ、言われてみればその通りとうなずくことしきり、さすが斎藤美奈子さん。
60年代から10年ごとに、売れたり話題になったりした作品をとりあげ、そこに刻印された「時代の空気」を鮮やかに読み解いていく、その切れ味に唸ってしまう。文学というのは、現実から遊離した場所で行われる営みのように思ってしまいがちだが、なんのなんの、本書を読むと、これほど「時代」の要請によって創り出されたり読まれたりするものなのかと、目から鱗が落ちる思いだった。
また、自分の読書歴を振り返るという点でも実に面白い。教科書的な「名作」ではなく、まさに「同時代」のものとして読んだ作品の数々。はっきりそう感じた最初のものは、高校生の時、刊行後しばらくしてから読んだ「赤頭巾ちゃん気をつけて」だった。それから2000年あたりまではここに出てくる作品の多くを読んでいたのだが、それ以降は急に未読のものが増える。そうだ、この辺で自分の趣味嗜好が固まって、手当たり次第に読んだりしなくなったんだなあ。特に最近の小説がどうも苦手で敬遠してしまうのは、やはり自分が旧世代に属するようになって、作家の問題意識を共有しにくくなっているからなのだろう。
多くの作品について内容が簡単に紹介されているのも嬉しいところ。食わず嫌いはやめて、気になったものを読んでいこうかと思う。
オマケ
美奈子姐さんおなじみの啖呵は、ここでは控えめ。それでも村上春樹へのピリッとした批判や、セカチューとか百田のベストセラーをバッサリ斬っているところなんか、やっぱり痛快。